新刊。お知らせ。

001003_2発売中、鎌倉のインディーズ出版社・港の人から四月と十月文庫7『理解フノー』…クリック地獄

古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

◆HP「ザ大衆食」はこちら…クリック地獄
◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄
◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄
004005◆『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』ちくま新書から発売中。よろしく~。もくじなどはこちら…クリック地獄
◆好評『SYNODOS-シノドス-』――『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている 五十嵐泰正×遠藤哲夫は、こちらでご覧いただける。…クリック地獄

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2019/06/08

『暮しの手帖』100号、「家庭料理ってどういうもの?」。

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慣れない重い仕事にエネルギーを吸い取られていた。同時にエネルギーを補給されたようでもある。ようするに学習して何か力がついたような感じかな。ま、だからといって何がどうなるわけでもないのだが。

この間、去る5月25日に『暮しの手帖』6-7月号、「第4世紀100号記念」というのが発売になった。資料として必要がないかぎり買ったことがない、おれのように下世話な者には縁がない、書棚には4冊しかない雑誌だ。瀬尾幸子さんが「瀬尾新聞」という連載ページを持っていたのも知らなかった。

で、その瀬尾新聞で、大衆食堂の料理を取り上げて紹介しながら、瀬尾さんとおれとで「家庭料理ってどういうもの?」っていう対談をできないかという相談があった。「どういうもの?」ということで、もっと「家庭料理」について考えてもらえるようなことをまとめたいという趣旨だった。

ってわけで、一度企画の相談で会い、企画の内容に即していて取り上げるによい食堂を二軒取材した。

江東区深川の「はやふね食堂」と文京区動坂下の「動坂食堂」だ。どちらも、東京新聞の連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」と、ダンチューに書かせてもらったことがある。

この二軒は立地の違いに特徴があるうえ、両店のメニューをあわせると、近代の(中には江戸期までさかのぼれるものもあるが)、いわゆる「家庭料理」のスタンダードを見渡せる。「家庭料理ってどういうもの?」を考えるには、都合がよいのだ。

打ち合わせと、食堂2軒、計三日三回、どんどん飲みながら瀬尾さんと話した。かなりとっちらかった話をした。

担当の編集さんが記事にまとめたものを見て、びっくりした。さすがだ。「家庭料理論」としてはもちろん、「料理論」としても、その本質的なところが、うまく簡潔にまとまっているのだ。自分で書こうとしたら、こうはうまくいかない。これは、これからの議論のベースになりうるだろう。

ということに、どれぐらいの人が気が付いてくれるかどうかわからないが、これから「料理論」なるものへの関心は高まるだろう気配がある。そのとき、大いに参考になるはずだ。

注目点は、大衆食堂のメニューに多い、特定の名がない、名もなき料理だ。つまり、「〇〇煮」や「××焼」というぐあいに、素材に+煮る/焼く/炒める/蒸すなどの料理法がついてるだけの料理。野菜炒めなんかも、そうだ。これが、家庭でも、ありふれているし、名もないだけに、たいして話題にもならないが、太古の昔からある、料理の入り口なのだ。

ここでは、「個」という言葉を使っていないが、肝心なことは「個」と「料理」と「抑圧」の関係だ。

「個」と「料理」に対しては、さまざまな抑圧がある。そんなものは料理じゃないとか、ただ煮ただけじゃないか/焼いただけじゃないか/チンしただけじゃないか、「手抜き」だとか、健康のためとか、とくに「いい物うまい物」話が盛んで、どこそこのナントカ料理カントカ料理が次から次へと耳目を集め、それはたかだか「いい消費」ぐらいのことなのに、とても派手で華やかで美しく、日々の生活の料理は地味な後ろめたい気分に追い込まれてしまう。人目を気にしたり、自分の料理はこれでいいのだろうか思ってしまったり、とにかく、料理する「個」の気分はなかなか自由に解放されない。

「家庭料理」という言葉も、「家庭」という抑圧があって、あまりよい表現だとは思わないのだが、「管理」や「抑圧」がない、それが普通である料理について、その入り口の話をしている。

入り口を間違えると、「料理」という家に入るにも、とんでもないことになる。すでに、けっこうとんでもないことになっているから、「家庭料理ってどういうもの?」について考えてみてもよいのだ。

「個」と「自立」と「料理」の関係、そこなのだな、問題は。

ってことで、ごく気楽な対談をしている。

写真撮影は、長野陽一さん。これまで、何度か飲み会で顔をあわせているが、一緒の仕事は初めてだ。食堂の料理を紹介する写真が、誌面の関係で小さいし、被写体は地味なんだけど、いい個性を出している。

最後の見開きは、瀬尾さんの手による「名もないおかず」。

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2019/05/19

「楽しむとは何か?」

毎号いただいている古い『TASCマンスリー』の整理をしていたら、面白い記事が何本もある。そのうちの一つが、これだ。

2012年8月号に載っている、國分功一郎さんの「生存の外部  嗜好品と豊かさ」という寄稿。最後のまとめが、こうなっている。

……………

 これは今後の私の課題なのだが、哲学は「美しい」については延々と論じてきているのに、「楽しい」についてはほとんど論じてこなかった。「楽しむとは何か?」という問いはこれから哲学が真剣に考えねばならない問いである。この問いは既に述べた通り、社会総体の変革と関わっている。そしてもちろん、一人ひとりの豊かな人間らしい生活につながる問いである。

……………

國分さんは、「贅沢」と「消費」を対比させ、「消費と浪費の違いは明白である。浪費は目の前にあるモノを受け取る。消費はモノに付与された意味・観念を受け取る。このことは消費社会の魔法そのものを説明してくれる。消費は満足をもたらさない。しかし消費者は満足を求めて消費している。消費しても満足が得られないから、更に消費を続ける。こうして、消費と不満足との悪循環が生まれる。20世紀に爆発的に広まった消費社会とはこの悪循環を利用したものである」と述べ、「贅沢」を取り戻すことはモノをきちんと楽しむことであり、それは消費社会の悪循環を断ち切る社会的な意義がある行為だし、「もしかしたら革命的と言ってよいかもしれない」と、「楽しむことには、そのようなすばらしい可能性が秘められている」と高らかに謳う。

そして、ところで、我々は「楽しむこと」を学習しているだろうかと問う。

ここで、國分さんは、グルメブームなどの事例も持ち出しているが、すでに消費そのものを楽しむようになって、「豊かな人間らしい生活」からますます離れてしまった現在の消費者の大勢のことまではふれてない。

そして、とにかく一方では、前のエントリーの「むくむく食堂」のところに書いたように、「自分はそこで何を楽しもうとしているのか」という主体が問われる新しい食堂の出現が見えるようにはなってきた。

『スペクテイター』42号「新しい食堂」に寄稿したおれの文章も、冒頭に『料理人』(ハリー・クレッシング著・一ノ瀬直二訳、ハヤカワ文庫)にある箴言、「人間とは料理をする動物である」「人間とは食事を楽しむ動物である」を引用し、最後は「もっと自由で楽しい食事を!」で終わっている。

ところが、消費そのものを楽しむようになってしまった消費者は、自分はけっこう楽しい生活をしていると思い込んでいる人も少なくない。これは、とくに80年代以降から猛威をふるい続けている消費主義のなかで「楽しむとは何か?」を学習することを避け忘却してしまった結果でもあるだろう。

いまでは、どこで、何を、飲み食いするかの細かいところまで、消費の細分化が徹底している。なんにかぎらず「細分化」が進むところ「生活」の姿は失われる。生活とは、いろいろなコトやコノが細分化されることなくからみあっているものだからだ。そこに「人間らしさ」があるはずなのだ。

しかし、そこへ行ったことがある、それをやったことがある、それを食べたことがある、それを飲んだことがある、といった、國分さんが指摘する意味や観念の「記号」を消費し、さらなる消費を求め、生活は分解されてしまう。

そういう潮流で、長年中心的な役割を担ってきた思想が、「美しい」に関することなのだ。これは飲食のレベルでは「美味しい」ということになる。「美味しい」は「美学」のことであり、消費が楽しくなると、「美味しいが楽しい」にもなるし「楽しいが美味しい」にもなる。現在は、この段階だろう。

だから、そういう大勢に流されずに、それ、ほんとに楽しいのか、楽しんでいるのかという問いかけが、ますます意義あることになる。

だけど、そういう問いかけは、消費を楽しんでいる人たちをしらけさせる。空気を読んでないね、そういうオベンキョウはいいから楽しめよ、と。そういう消費の悪循環に一役買っているのが、さまざまなメディアであり、そのあたりで「仕事」をしている人たちであり、おれもそこから少々の仕事をいただいている。おれの場合、周縁部あるいは外側にいるから、「少々」ですんでいるのだが。それは生活的には困ったことになる立場である。

メディアのヒエラルキーの中心部では、あいかわらず「文学(文芸)」な「美しい」が力を持っている。それは、「「美しい」については延々と論じてきている」哲学の反映かもしれない。おれは哲学も文学も詳しいことは知らないけどね。

「美しい」には憧れが作用する。「憧れ」が求心力となって、消費の構造の中心に座っている。これは確かだろう。

そんな中で「楽しいとは何か?」が可能だとすれば、消費者としてではなく「人間としてどうなのか」という問いかけしかないかもしれない。すっかり消費に飼いならされた中で、いまさら「人間として」なんて、なかなか難儀なことだが。

飲食の実際は、「美しい」話ばかりを消費しているうちに、「人間としてどうなのか」から問いかけなければならないようなことが多くなりすぎて、これからどうなるんだろうという感じでもある。美しい楽しい善意の消費の悪循環の構造は、ほんと、恐ろしい。

國分さんのような学者の立場にいる人たちに大いに真剣に議論してもらいたいと思う。おれは、たいした意味のない安酒を楽しみながら考えるとしよう。おれのばやい、「美食も粗食も贅沢も清貧もふみこえて、庶民の快食を追求」「気取るな、力強く」だからね。

 

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2019/05/16

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」79回目、南浦和・むくむく食堂。

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先月4月19日の掲載は、若い店主の「新しい食堂」の登場だ。去年の6月に、京浜東北線と武蔵野線の乗り換え駅である南浦和に開業した、むくむく食堂だ。

本文はすでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019041902000177.html

この連載で「新しい食堂」の登場は初めてだし、平成が終わる直前だったこともあり、ここ30年の食堂の動向と「新しい食堂」の特徴について簡単にふれたので、むくむく食堂そのものについてはあまり詳しく書けなかった。

だけど、ローカル愛にあふれ、「食べる側と提供する側は単なる「店」と「客」ではなく、この場所で交わる人間関係を大切に、いろいろな人といろいろなことを共有しながら、いい生活文化を育て、共に成長していこうという意識を持っている」といった特徴は、店の外観から店内のこまごまとしたところまで見られる。

こういう食堂がまずいはずはない。そして、「うまい/まずい」や「サービスのよさ」などだけで判断する食堂でもないのだ。

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南浦和は川口と浦和にはさまれ地味な存在だが、新旧が混在しながら新陳代謝も激しく発展している街だ。むくむく食堂がある通りは、南浦和でも古いほうの商店街だったけど、「シャッター街」を通り越し、古い商店は消えていき住宅街化している。

店主は、この商店街で生まれ育ち、食堂を始める前は、実家で衣料品や雑貨などを扱う小商いをしていた。むくむく食堂は、閉店した居酒屋を居抜きで借りて始めた。

夜はまだ行ったことがないが、定食はありながらも居酒屋メニューへシフトしているようだ。昼定食は1000円均一で3種にしぼり、喫茶メニューも充実している。

「単なる「店」と「客」」ではない関係は、これからますます存在価値を高めると思うが、なにより、これまで単なる「客」であった「消費者」の「学習」も必要になる関係だと思う。

「自分はそこで何を楽しもうとしているのか」という主体が問われる。それは、東京を中心とする主流では惰性的に続いている、値段と味や接客などを比較し選択し評価しているだけの、受け身だが「ご主人様」「神様」気取りの消費者とは違う生き方なのだ。「新しい食堂」の出現は、そういう「これから」を示唆している。

むくむく食堂のツイッターもご覧になってください。
https://twitter.com/mukumuku1945

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