新刊。お知らせ。

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古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

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◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄
◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄
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2018/11/12

大革命。

近ごろは、あんまり「革命」ということばを聞きもしないし見もしないな。どうしたの、みんなビビっているのか。

80年代前半の中曽根内閣のころから「改革」がハヤリになり「革命」は廃れた、ように見えるが、そうでもないな。

いまの家に引っ越したのは、10年前の10月21日だった。

それで何が変ったって、台所のレンジがガスからアイエイチになったのだ。

それまでは、炎が見える火力を使って料理をしていた。

その火力のもとは、薪が炭や石炭、石油からガスになっても、太古の昔から炎が見えていたのだ。

「火」とは、見えるものだった。

それが、炎がないアイエイチってやつになった。これは「火」のようだが「火」ではない。つまり「火」を使わないで料理をするようになったのだ。

有史以来の大革命に、おれは遭遇した。

「火」は見えないが、「熱」は得られる。

「火」から「熱」へ。

「ファイアー」ではなく「カロリー」。

この「ファイアー」と「カロリー」のあいだには、いろいろありすぎる。電磁波じゃ~とか、波動じゃ~とか。なんじゃそれ。

とにかく、なれるのに、けっこう時間がかかった。とくに炒め物は、最近ようやっと、なんとかなったかな、という感じだ。

そのなんとかなったかな、ってのは、ようやっとアイエイチの前ぐらいになったかな、ということではない。もっとちがう次元の、なんとかなったかな、という感じなのだ。

この比較はヒジョーに難しいが、革命とは、そういうものなのだな。たぶん。

ようするに、「見える火力」と「見えない火力」が、認識できたし自覚できた。まだ、よく理解しているかどうかは、わからない。

おれは革命に参加して、悪くないネ、やりようだネ、ていどの感想は持った。だからといって、これはゼッタイにイイと、ひとにすすめはしない。革命が悪いからではなく、それぞれが判断することだからな。

熱源のちがいが料理の「味」に影響することはたしかだろうけど、それをコントロールする人間の文化があり、さらに食べる文化がある。熱源は科学だが、味覚には文化がからむ。

アイエイチを批判するひともいるし否定するひともいる。そういうひとには、たくさん遭遇した。おれは、素直に聞いていた。まあ、人類が「火」を使いはじめて以来の初めての革命だからねえ。フランス革命やロシア革命どこじゃないわけ。

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2018/11/11

「食べる」を「まじめに考え、もっと楽しむ」。

きのうのテキストにある「まじめに考え、もっと楽しむ」は、西江雅之著『食べる 増補新版』(青土社、2013年)の帯にあるオコトバだ。

とてもよい、すごくよい、と思った。

「まじめに考える」と「楽しむ」は、相いれないような扱いを受けていることがめずらしくない。そして、「食べる」となると、考えることを停止し、しかし脳ミソのなかにためんこんだ知識を総動員してウンチクを傾けたりしながら、テレビタレントのように、誰が見ても「楽しそう」な、大根役者のような教条的な表情とことばを放出する。「オイシイ~」

それもまあいいだろう、おれのしったことじゃない。だけど、もしそのとき「うまい」と思ったら、「うまい」ってなんだ、ワタシの生理か心理か文化かぐらいは、ヒマなときに考えてみるのも悪くない。「うまい」には、たぶんに食文化が関係している。

でも、「食文化とは」となると、なかなか複雑で説明しにくい。実際のところ、説明せよといわれると困ってしまう。生理や心理や社会など、雑多にいろいろな次元のことが関係し、『世界の食文化 16 フランス』(農山漁村文化協会、2008年)を著した北山晴一は「複雑性の罠」といったぐらい、ややこしいのが「食」の分野だ。

だからあまり考えずに、ワタシはうまいものや食べ物について詳しいのヨってな顔をして、これはサイコー、日本一だ、世界一だ、とでも、少しばかり文学的に気どりながら断言しちゃえば、あら不思議それを信じちゃう人も少なくない。世間とは、そういうもので、たいがいのグルメ本とか食べ物の話は、そうして成り立っている。

「食文化とは」についてふれている、適切な本は何冊かあって、先駆者といっていい石毛直道などは、詳しく述べている。彼の食談義はおもしろいのだけど、彼は文化人類学者であり、文化人類学は、「文化」×「人類」だから、その眺めは広大で、いざ学問的立場で食文化を語るとなると、すごく広大なのだ。おれのようなシロートは、もっと整理してくれるとありがたいんだがなあ~と、わが脳ナシ頭をうらむことがたびたび。

ところが、この『食べる 増補新版』は、食文化論の急所を、身近なことにブレイクダウンし「七つの要素」をあげて説明している。

本書の構成は、三つにわかれていて、その「Ⅰ」と「Ⅱ」の一部が「食文化とは」に直接関係する内容だと判断できる。

「Ⅰ」は、「「食べられるもの」と「食べ物」」 「「文化」としての「食べ物」」 「コミュニケーションとしての「食べ物」」 「「食べ物」と「伝統」」の四つにわかれている。

「Ⅱ」は、九つの話があるが、「「ことば」を食べる時代」が、とくに大事だと思った。

小見出しレベルをあげると、こんなぐあいだ。

「人間にとって大切なもの」 「「食べられるもの」と「食べ物」」 「「食べ物」と文化」 「文化とは何か」 「五つのポイント」 「「どのようにか」という文化」 「「どのようにか」食べる」 「七つの要素」 「「昔」ということの曖昧さ」 「「伝統」が意味するもの」 「伝統を「創る」」 「伝統は構成要素の束」 「伝統は「未来」である」 「「食べ物」の話題の変化」「「美味しい」とは何か」「亡食の時代」「「ことば」を食べる」「「ことば」先行型商品の問題」 「「実」にこだわる」

ってことで、「七つの要素」は、①ことば、②人物特徴 ③身体の動き ④環境 ⑤感情・情動 ⑥空間と時間 ⑦人物の社会背景 をあげ、一つひとつ説明している。

具体例では違和感のある記述もあるが、基本的なところは豊富な経験と学識をもとにまとめられているから、とてもありがたい。

せっかく毎日「食べる」のだし、人によっては大いに食べ歩いているだろう、その体験を体験でおわらせることなく、かつ自分本位の認識と理解におわらせることなく、あるていど「客観的な尺度」で考えてみたい。すると、ますます「食べる」が楽しくなるというわけだ。

それに、コイツ、ずいぶんひとりよがりのおかしなことをいっている、ということが自分のことも含めて見えてきて、大いにリテラシーに役立つのだな。

「ことば」を食べる時代」だからこそ、食べるを楽しむために、「まじめに考えて」が不可欠になっている。「食べる」世界は、広大だ。まだまだその広大さに気が付いていない。小さな世界に閉じこもり、食べることでエラそうにするのは、やめにしようぜww

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2018/11/10

「共」と「個」×「食」。

きのう、インターネットで拾ったニュース。

河北新報は「<仙台市給食>「野菜高騰でモヤシ料理増えた」 予算目減り、厳しい実態」と、栄養レベルの低下も心配なようす。

いっぽう、天下の日経新聞の「日経MJ」は「全国で高級レストランが続々と誕生しています。高級店に通う食通の富裕層で注目を集めるのが、イノベーティブ料理」と、かつてのバブル後期を思わせる「富裕」ぶり。

「日経MJ」の「MJ」は、「マーケティング・ジャパン」の略。

マーケティングってのは、金のないやつは相手にしない。というか使う金があるやつだけを相手にする。その使う金の多い少ないにあわせて動く。それで市場は成り立っているし、そういう市場が成り立っていなくては、いまの資本主義の世間は成り立たない。

というわけで、マーケティングは、ミもフタもないほど、現状をあらわにする。いったい、この高級レストランへ行ける人たちって、どういう人なのだろう。そういう人たちが、きっとアベノミックスバンザーイなんだろうねえ。

その現状だが、この記事に、ある店で食べた男性客のコメントが載っているけど、40代なんだな。使える金の多い少ないは人によって異なる。ってわけで、アラフォー40代をねらえ!ってことで、たいがいのマーケティングは、ここへ傾れこんでいる。メディアは、40代を注視し、大事にしている。

でも、同じ40代でも、いろいろだ。子供のいるサラリマーンなら、とても無理ね。おれの知り合いにも、丸の内あたりの大会社に勤めていて給料も悪くはないけど、子供が2人いて、これから中学、高校へと向かう。自分への「ごほうび」でも、外飲食は3000円が上限。

ま、とにかく、貧乏労働者には、別のマーケティングが用意されている。メディアは、そういう「選別」の役割も担っている。近ごろのメディアは、経済資産だけじゃなく文化資産とやらも重視し、人びとを選別する。

が、しかし、この世は「市場」がすべてではない「社会」がある。近ごろは、「市場」と「社会」の区別のつかない人が、メディアで名を売っている、いわゆるオピニオンあたりにもけっこういるし、マーケティング屋が社会学者のような顔をしたり、実際に何かしらを売って商売になっていることをして食っているのに金儲けは「悪」のようにいう人もいる。それはまあ、社会が新自由主義の市場原理で動くようになったことも関係するだろうけど、知性ある知的なみなさまが、市場と社会の区別もつかなくなるのは、困ったことだ。

そりゃそうと、その日経MJの記事の見出しには、「おいしさの先へ、食はアート」「「作品」を堪能」だってさ。

うへぇ~、料理は「芸術」とかいっていた、あのバブルのころと同じだよ。「作品」って、そんなに高級でエライのかなあ。

いや、「作品」、けっこうですよ。おれなんか、200円で5尾もパックされているイワシの丸干しを、日々「作品」にするため創造力を働かせているもんね。もう毎日、安い材料で時間をかけず大きな満足や驚きと感動をつくりだす「作品」のため、革新と創造の「イノベーティブ料理」に取り組んでいるんですよ。

ああ、もう書くのがメンドウになってしまったのに、タイトルの「共」と「個」×「食」について、まだ何も書いてない。どうしよう。

前のエントリー「「サードプレース」と苔むす感覚。」の関連なんだが。

これからの「サードプレース」には、「個」と「共」と「食」の関係を忘れてはいけないね。

前のエントリーでは、「職場と自宅」「仕事と私事」をあげたが、もっと深いレイヤーでは「「共」と「個」」になるんじゃないかな。

まだほかに「公人」と「私人」ってのがあって、安倍首相夫妻の縁故主義と公私混同が取り沙汰されたけど、追及するほうは、この「公人」と「私人」という論理にハマってどうにもならなくなった。

近年、いつごろからか、たぶん「自己責任」キャンペーンからのような感じがするけど、「人間として、どうか」という視点が、どんどん後退しているんじゃないかな。公人だろうが私人だろうが、「人間として、どうか」という問いかけがない。

ま、そのことはおいとくとして、「職場と自宅」「仕事と私事」「公人と私人」という枠組みのレイヤーでああだこうだいっているうちは、「食」は、さっぱり深まらないね。

「共」というのは「公共」の「共」であり、「共有」の「共」であり、「共生」の「共」であり、「共食」の「共」だ。「共産」の「共」は、おいておこう。

「個」は、「個性」の「個」であり、「固有」の「個」であり、「個体」の「個」であり、「個人」の「個」であり、「個食」の「個」だね。

平成30年間の食文化上の大ジケンといえば、食育基本法の成立と施行だろう。おれは、一貫して反対だったし、いまでも反対というか廃止にしたいと思っている。

これは「食」と「共」と「個」が関係する大きなモンダイであり、食文化からすれば「共」と「個」のために、食育基本法なんていうものは許されるものじゃない。

だいたい、もうすでに、あの「食事モデル」だって、どうなったの。最初から成り立たないものをモデルにしてたんじゃないのか。だいたい、家族と労働の変化という背景を無視して、広がる「個食」と「孤食」を悪にしたてた食育基本法推進の論陣からして、「家族主義」と「栄養主義」の偏見に満ちていた。

もっと、食文化について「まじめに考え、もっと楽しむ」ことが必要なのだ。

ところが、その食文化となると、「一汁三菜」の伝統だのなんだの「日本独自の食文化」からの、リクツにもなっていないような「和食バンザイ」「和食スゴイ」なリクツが大手をふって、それから「食文化」は口にするけど、なんだか文学的だったりアートだったりするのが食文化であるようなことで、もういいかげんにしてくれ、といいたいね。

書くのが疲れた。トシだなあ。

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