新刊。お知らせ。

001003_2発売中、鎌倉のインディーズ出版社・港の人から四月と十月文庫7『理解フノー』…クリック地獄

古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

◆HP「ザ大衆食」はこちら…クリック地獄
◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄
◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄
004005◆『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』ちくま新書から発売中。よろしく~。もくじなどはこちら…クリック地獄
◆好評『SYNODOS-シノドス-』――『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている 五十嵐泰正×遠藤哲夫は、こちらでご覧いただける。…クリック地獄

通常のエントリーは、この下↓からになります。

|

2019/01/17

たらこと明太子。

きのうはひさしぶりにスーパーで買った明太子をおかずにめしを食べた。有名なブランド物ではなく、どうってことない安物だが、うまくて、うまくて、めしをたくさん食べてしまった。

明太子を買うのは一年に一度ぐらいか。めったに買わない。だけど、コンビニでにぎりめしを買うときは、かならず、鮭のほかに明太子かたらこを買う。

たらこもスーパーではめったに買わない。やはり一年に一回ぐらいか。一か月ぐらい前に、ひさしぶりに買った。そのときも、めしがたくさん食えたし、ちょっとあぶって酒のつまみにもした。もう、うまくてたまらん。

鮭とたらこは、ガキのころからよく食べた。めしがたくさん食える、ま、安上がりのおかずだったのだ。よく弁当のおかずにもなったね。

ガキのころは明太子など見たこともなかった。おれにとっては、明太子は、成人後の比較的あたらしい食品だ。

それからガキのころは、生でくえるたらこはなかったね。かならず、あぶった。あぶると、たらこの皮が一面、塩で真っ白になった。もう「塩害」という感じ。たぶん家庭に冷蔵や冷凍が維持できる箱がないころは、塩をたっぷり含んでいたのだ。しかし、焼けた白い塩がふいている、パリッとした皮がうまかった。めしを何杯も食べられた。

とにかく、いまはたらこか明太子を一年に一回ぐらいおかずにするときは、めしが底なしに食える感じだ。そうはいってもトシのせいか、ふだんの倍、茶碗に二杯ぐらいしか食べられない。倍もくえれば十分だ。無理矢理食べれば、もっと食べられそうだが、そこまでしないのがトシってことだ。分別くさい、だらしねえジジイになった。

たらこか明太子さえあれば、何もいらない。

いつごろからか、飲食店を評価するのに「コスパ」という言葉が流通するようになった。あれは、どういう基準なのだ。「コスト・パー・フォーマンス」ということなら、キチンと数値化できなくてはならないと思うが、そうではないようだ。かなり、いいかげんなんだな。いいかげんは好きだけど、いいかげんだということを自覚して、あまりエラそうにしなければよいのに、なんだかエラそうなのがいけないね。

たらこも明太子も、1グラムで、めしを何グラム食べられるか計算できそうだ。そうすれば、どんなにコスパがよいか、はっきりするにちがいない。

めしがたくさん食べられるおかずこそが、まちがいなく「うまい」のだ。そう確信してしまおう。なにしろ数値化できるのだからな。

生たまごぶっかけめしのばあいも、たまごのグラム数とめしのグラム数で計算できるだろう。もしかすると、たまごのほうがグラム単価が安そうだから、こちらのほうがコスパはよいかもしれない。だけど、チョイとたらすしょうゆの値段も計算しなくてはいけない。

栄養価まで含めたら、生たまごぶっかけめしのほうが有利のようだ。

でも、どうしてもがまんならないほど食べたくなるのは、たらこと明太子だ。

たらこのあぶり加減を、いろいろ考えて、いろいろ変えて楽しむ。あぶるときは、うちはメインがIHなので、オーブントースターでやる。なかなか加減が難しい。

むかし、炭火やストーブであぶったときは、網の上でひっくりかえしては加減を見られたが、オーブントースターのばあいは、そうはいかない。

たらこの大きさも計算し、何分にするか考え、セットしたあとは透明の窓からのぞきこんで、あぶられて表面の皮の色が変わる様子を、ジッと見る。見ているうちに生唾が出てきて、がまんならず開けてしまう。

オーブンの中は熱源の赤色で変わっているから、外に出して見ると、イマイチのことがある。もう一度セットする。

ときどきによって、レア、ミディアム、ウエルダンと焼き加減をえらぶ。

楽しい。うまいめしが食える。酒もたくさん飲める。

これだって、立派な料理なんだな。

さて、こんどは、いつ、たらこか明太子を買うことになるか。楽しみだなあ。

ううううう、考えるとがまんならない。明日、買っちゃおうかな。

|

2019/01/14

生活細細―ジェネシスを追え。

「細細」は「ほそぼそ」でもあり「こまごま」でもあり「さいさい」でもあるが、その言葉のひびきを含めて、「生活」と相性がよい。と思うのは、おれの生活が、そんなぐあいだからというわけでもないだろう。

いつものスーパーへ行ったら、一人の20歳ぐらいの女性が、一袋100円のバナナを選ぶのに陳列棚のそれを一つ一つ取り上げては見比べていた。棚の全部を比べそうなぐらい、じっくり選んでいるのだ。

その容姿にほれぼれとしながら見ていると、彼女は選ばずにバナナから離れ、近くにあったパプリカへ移動した。パプリカは赤と黄が別の段ボール箱に入って並んでいたのだが、黄には興味がないらしく、赤のそれを、また一つ一つ取り上げては見比べている。これを「丁寧」というのか。

ようやっと一個を選び、備え付けのビニール袋に入れ、手にしていた店の買い物かごに入れると、またバナナにもどった。やっぱり選んでいる。何をチェックしているのか、わからない。きっと「こまごま」したことを比べているのではないかと思うが、それが彼女の生活なのだろう。

帰り、近くの公園を通りぬけた。ご老人が、といっても、75歳のおれと同じくらいかもしれないのだが、公園の水道から、大きなポリタンクに水をくんでいた。夕方、ときどき見かける。水を一杯にしたタンクは手押しぐるまのようなものにのせ、運んでいる。それも彼の「こまごま」とした生活なのだろう。

よく利用する安売りのドラッグストアへ行ったら、前はなかった「タマネギレタスサラダ」という、カット野菜の袋詰めがあった。

ドラッグストアは生鮮物は置かないが、袋詰めに加工したものは置いているし、その品種は増える一方だ。やはり置けば売れるのか。と考えながら手に取ると、袋には「こまごま」としたことが印刷されている。

「タマネギ、レタスが美味しい♪/タマネギレタスサラダ」「洗わずにそのまま/お召上がり頂けます」「原材料産地/玉ネギ(中国産)/レタス(茨城県産)/紫玉ネギ(アメリカ産)/製造日・・・/消費期限・・・・/内容量100g」「要冷蔵」、ここまでが表。

裏は、100gあたりの栄養成分表示や商品に関する表示義務に従ったものが表になっている。加工者は、レタスの産地、茨城県の食品メーカーだ。

ほかに「冷水でさっと洗って頂きますと、/よりおいしくお召上がり頂けます。」の見出しに「・野菜をカットする手間がかからないので、包丁やまな板などの洗いものを減らします。/・素材ばムダなく利用でき、ゴミを削減できます。」と、「ほそぼそ」「こまごま「さいさい」の生活を、巧みにゆさぶる。さらに「お好みのドレッシングをかけてどうぞ!」と。

棚の値段を見たら98円だ。うーむ、1g約1円か~と思いながら、買ってしまった。

無洗米が出たときに、「米ぐらい研げ」という声もあった。食育基本法が採決される前は、その機運を盛り上げるためもあって、日本人の食がどんなに「堕落」しているか、エライ先生たちがあげつらねた。

長いあいだ、生活を支配していたのは「道徳」で、「家事」に属する食事の支度や料理も「道徳」つまり「こころ」の持ち方が問題だった。「米を研ぐ」のも「こころ」の問題だった。家事や食事のことは道徳と説教、子供には躾だった。そこで「堕落」が問題になった。

「丁寧」に「手を抜かない」は、「方法」ではなく「こころ」のありようとして問題にされた。便利なものを使うと堕落する。便利で簡便な生活は、堕落だ。

堕落は悪だ。そもそも、堕落は、「悪」か。

生活は、時間と空間と金のコントロールであり、それぞれの実情にあった方法をとることだ、という「哲学」は「道徳」からは生まれない。

いまは無洗米どころか「レトルトごはん」が、種類も棚も増えているし、「カット野菜」も当初はコンビニ商材という感じだったがスーパーマーケットやドラッグストアでも棚が増えている。

何か月か前に買い置いた、「チキンラーメン」のカップを食べた。お湯をさし3分待って、フタをはいだら裏に、世界初の即席めん「チキンラーメン」の発明者で、世界初のカップめん「カップヌードル」の発明者である、安藤百福のことが印刷されていた。

彼は1910年生まれで2007年に亡くなった。チキンラーメンの発明は1958年、カップヌードルが1971年。きょねん、彼をモデルにした、連続テレビ小説「まんぷく」が放映された。

味の素を発明した池田菊苗は、1864年生まれ、うま味成分グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を得たのが1908年。その50年後にチキンラーメン登場というわけだが、味の素の発明がなかったら、即席めんだけでなく多くの加工食品がこうはうまく軌道にのらなかっただろうし、味の素からチキンラーメンにいたる流れは、明治維新どこでろではない革命を、世界規模で生活にもたらした。

その大河ドラマは、NHKの大河ドラマどころじゃない。NHKの大河ドラマは、戦国時代や明治維新など、サムライたちが主人公のドラマばかりやっている場合じゃないのだが、ま、そのあたりに「生活」を道徳で制御しようとしてきた、事大主義の悪癖が見られる。

最近、また『ジェネシスを追え』(スティーヴ・シャガン、水上峰雄訳、新潮文庫)を読んだ。この本、1980年の発行すぐに買い、何回も読んでいるが、何回読んでもおもしろい。教訓にも満ちている。

なんといっても、扉にある、トーマス・ジェファーソンの名言だ。

「文明諸国を互いに結びつけている第一のものは、金であって、道徳観ではない。」

それはともかく、「ジェネシス」とは、ナチが発明した石炭に水素添加反応でガソリンなどの燃料を合成する製造仕様の暗号名だ。小説のなかでは、アメリカ人が「マーガリン」と呼ぶバターもつくれる話が出てくる。

1950年代後半だったか、マーガリンが普及しはじめたころ、マーガリンは石油からつくっている、実際に油臭いというウワサが流れた。味の素も石油からつくられているというウワサもあった。実際に、以前このブログにも書いたが、石油タンパクの商品化はオイルショクで取りやめになったが、実現手前までいっていた。

企業名は消滅してしまったが、例の「モンサント」をめぐる動きが思い起こされる。現実は小説より、はるかに複雑だ。

それに、食品も料理も「化学」であり「化学反応」なのだ。道徳ではない。

当ブログ関連
2003/01/14
石油たんぱく

|

2019/01/10

「クレヨン画家」の話をききに。

毎日を丁寧に暮らし丁寧に酔っていたら、なかなかブログを書けなかった。いや、丁寧に怠けていただけ。

何年か前、美術同人誌『四月と十月』で、初めて加藤休ミさんの「クレヨン画家」という「肩書」を知ったときは、なんで?と思った。

ライターが原稿を書くときに紙と鉛筆を使っているからと、「鉛筆文章家」と名のるようなものじゃないか、でも、かりに「鉛筆画家」は成り立っても「鉛筆文章家」は成り立たない。墨と筆で文字を書けば「書」になるが、原稿を墨と筆で書いても「書」にならない。

そんなことをあれこれ考えたりしたが、なぜ加藤さんが「クレヨン画家」を名のるようになったのか、想像がつかなかった。

おれの体験では、クレヨンで描くのはガキのころから小学生ぐらいまでだったと思うし、小学校でも高学年では水彩絵の具を使うようになって、しだいにクレヨンから離れていったのではないかと思う。中学生のときは、だいたい「美術」だか「図工」だかの授業時間はどれぐらいあったか覚えてないが、クレヨンは使ったことがなかったと思う。高校では、美術か音楽か、もう一つなんだか忘れたが選ぶようになっていて、おれは音楽を選んだから、完全に美術からも絵からも絵の具からも遠ざかった。

つまり、いつのまにか、おれのなかではクレヨンから水彩そして油絵というぐあいに成長していくものだというイメージができあがっていた。クレヨンなどは、はるか遠くのかなた。だからといって、クレヨン画が能力的にレベルの低いものであることにならないが、わざわざ「クレヨン画家」を名のることもないだろう、そのあたりに「理解フノー」があった。

ってえことで、加藤休ミさんの話をきく機会にめぐまれたので、都内の加藤さんの仕事場へ出かけて行った。画家の仕事場は「アトリエ」と呼ばれることが多い。原稿を書く人の仕事場は「書斎」といわれることが多いのかな。そのあたりも、「絵」と「文章」ではちがうようだ。

とうぜん飲みながら話をきくために缶ビールを買って行った。だけど、それ以上に、加藤さんは缶ビールを用意していた。どんどん飲みながら話した。

なぜ「クレヨン画家」になったかの話は、とてもおもしろかった。すごく納得できたし、世間の価値観なんかにとらわれない、いい生き方だなあと思った。そのことについては、4月発行予定の『四月と十月』に書くことになっている。

それから、加藤さんのクレヨン画では、よく「食べ物」や「食べる」がテーマになっている。2012年に偕成社 から発行の『きょうのごはん』は、クレヨン画家・加藤休ミの名を高め広げた。最近の『クレヨンで描いた おいしい魚図鑑』(晶文社)も、なかなかよい。

だからクレヨン画と「食べ物」と「食べる」の話にもなった。そこで、すごくおもしろい話になった。

「生物」と「食品」のあいだは、自然と文化のあいだでもある。その境界に、「うまさ」や「うまそう」が関係すると思われるが、そこを加藤さんは絵でとらえる。

魚は、海で泳いでいるときは「生物」だ。そこは自然の世界であって、「文化」でも「食文化」でもない。ふつう、魚類図鑑といったら、生物としての魚の絵なのだ。あるいは「図」か。

それが、いつから、「食べ物」として扱われ、人間の「食文化圏」に位置するようになるかというと、人間の手に掛かったときからだろう(手に掛けるための様々な準備も含め)。しかし、人間の手に掛かるといっても、人間の「食べる」意思の働き、つまり主観が関係する。生け簀の養殖魚は生物だが、人間の「食べる」意思の働きのうちのことだ、水族館の魚やキャッチ&リリースの釣りスポーツは食文化のことではない。

ところが、仕事場の壁に、クレヨン画にしては大きめの、生のマグロの頭の絵があった。これは、生きているマグロの頭のようにも見えたし、うまそうにも見えた。

で、おれは、「生物」としての絵でも、「うまそう」なのは、画家のせいなのか、自分のせいのか、それとも魚そのものがうまそうなのか、しばし考えた。どれもありそうなことだ。だが、「うまそう」は、人間の主観のことだろう。

それに、「食べ物」でも、食べればうまいのに、うまそうには見えないものがある。たとえば、イナゴの佃煮など。

それに、焼海苔などは、どんなに上手に描いても、うまそうとは思わない外国人がいるだろう。

そういうことを考えながら、加藤さんのクレヨン画を見ていると、いろいろ世界が広がるのだった。

あと、加藤さんのクレヨン画は、具象のようで抽象であり、その境もなかなかおもしろい。具象といっても「点」という抽象の集合や連続なのだ。具象と抽象の境は、アイマイだ。

加藤さんとは1時半ごろから飲みながら話を始めた。しばらくして靴職人のオサムさんがあらわれ、それから、初めての人が、一人、二人、三人と増え、最後はオサムさんのパートナーも加わって、靴づくりの話はもちろんいろいろな話になった。『ぶっかけめしの悦楽』をご覧になってくれたひともいて、酒も話もどんどん盛り上がり、酔っぱらったのだった。

加藤さん手作りのチャーシューもうまかった。

みんなおれより30歳以上は若いわけで、70年代のことはもはや「歴史」であり、オサムさんに「記憶にある首相は中曽根ぐらいから」といわれ、うーむ、そうかあ、知識の共有はなかなか難しいことなのだなあとあらためて思った。日本人同士でも、十分に「多文化」を生きているのだ。

高円寺の円盤の田口史人さんの著書『レコードと暮らし』(夏葉社、2015年)は、内容もよいが表紙カバーの絵もよい。すごく気に入っているのだが、加藤さんのクレヨン画だ。

「洗練」とか「丁寧」とかいって、庶民文化の生活臭さやバイタリティを骨抜きにしてしまうような表現があるけど、加藤さんのクレヨン画は、そこのところをうまく盛り込んでこなしている。食べ物でいえば、「雑味」がうまくきいている、というか。こういうの、もっと広がってほしいなあ。気取るんじゃない、っての。

Dscn0043


|

«津村記久子とナンシー関の元旦。