新刊。お知らせ。

001003_210月3日新発売、鎌倉のインディーズ出版社・港の人から四月と十月文庫7『理解フノー』…クリック地獄

古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

◆HP「ザ大衆食」はこちら…クリック地獄
◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄
◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄
004005◆『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』ちくま新書から発売中。よろしく~。もくじなどはこちら…クリック地獄
◆好評『SYNODOS-シノドス-』――『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている 五十嵐泰正×遠藤哲夫は、こちらでご覧いただける。…クリック地獄

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2018/04/23

画家のノート『四月と十月』38号、「理解フノー」連載20回目。

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もう下旬になってしまった、今月は4月なので、美術同人誌『四月と十月』38号が発行になっている。

表紙の作品は、松林誠さんが担当、「『四月と十月』全面を覆うカバーのようなイメージです」とのこと。デザインは毎度の内藤昇さんだ。

おれは同人ではないが「理解フノー」という連載を持っていて、今回は20回目で「「バブル」の頃③ 崩壊」を書いた。

「バブルの頃」は、最初の予告通り、3回で終わりだが、まだまだ書けそうだ。でも、これで最後にする。

昨年末、たまたま出先で見たテレビに、あのバブルを象徴する「戦後最大の経済事件」といわれるイトマン事件の立役者、許永中が出演していて驚いた。あの事件以来、初めてのマスコミ登場だとか、現在は韓国にいるとのこと。刑務所暮らしは7年ぐらいだったらしい。

イトマン事件の全貌はあきらかになっていないが、とにかく絵画を担保に巨額の金が動いた。そのことについても、今回はふれた。おれも当時は、某銀行を舞台にしたアヤシイ金の動きの末端にからんでいたので、もっと書けることがあるのだが、これぐらいでやめておいたほうがよいだろう。

書き出しは「最近会った四〇代後半の経営者が「銀行がね、金を借りてくれっていうんですよ、バブルの頃と同じですね」といった」ことから始まる。

「バブル景気は崩壊したが」「バブルは手を変え品を変え、どこかに出現する。膨らむ「夢」を語りながら」というのが〆だ。

この連載では、いつも写真を一枚つけなくてはならない。写真と文字でコラージュの真似事みたいなことをしてみた。千円札を手に持って宙に浮かして撮影、手の部分をトリミングして、「夢~」の文字を組み合わせた。

ふわふわしたバブルな夢物語はどこへゆく。昨今のバブルは、どういう結末になるのか。繰り返されるループから抜け出す創造力はあるか。

今号から同人に、「家族」が加わった。

内沼文蒔・晋太郎・カンナ(息子・父・母)の家族の「共同制作」だ。2017年生まれの文蒔が絵を担当、晋太郎が文、カンナが制作補助を担当、「アトリエから」に作品が載っている。子供の成長と共に、どうなっていくか、楽しみだ。

新連載も2本スタート。岡崎武志さんの「彫刻」、1回目は「上野・西郷隆盛」。木村衣有子さんの「玩具」、1回目は「東京の郷土玩具・今戸焼」。

連載は、全部で14本になった。

『四月と十月』のサイトはこちら。
http://4-10.sub.jp/

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2018/04/19

土浦+水俣から高円寺、「食」と「開発」と「復興」。

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どんどん日にちがすぎていく。とりあえず、濃い内容の出会いがあった、先週の13日と14日のことを、ちょっとだけメモ。

13日は、土浦へ。18時20分に土浦駅で待ち合わせだったが、ついでに40年ぶりかの土浦をぶらぶらしてみようと早く出かけ、13時半に土浦に着いた。けっこう歩いて一杯やって、待ち合わせ時間に『原発事故と「食」』を出版したばかりの五十嵐泰正さんと合流、『小さくて強い農業をつくる』(晶文社)の著者で久松農園の代表、久松達央さん「主催」の飲み会に参加した。会場は、笹揶、もちろん初めての居酒屋だが、いい居酒屋だった。

おれはひょんなことから五十嵐さんに付いて行ったもので、少し前に久松さんが熊本の水俣を訪ね、そこで知り合った方が久松農園に来園し、この飲み会になったらしいということぐらいしか知らなかった。

水俣からは、水俣食べる通信の諸橋賢一さんと福田農場の福田浩樹さん。久松農園の方のほかに、茨城の有機栽培の農業者、酒蔵の杜氏、茨城の地酒の販売に力を入れている酒屋のサトウさん、都内からコンサルタントやフードコーディネーターの方、などなど13名ほどの多彩な顔ぶれ。

久松さんと五十嵐さんをのぞいて、初対面の方ばかり。いろいろなことを、たくさん話し合い、たくさん飲んだ。

水俣は、あの水俣病から、いまは3代目が中心の時代だとか。水俣病の事件の最中には、生まれてなかった世代だ。「まだ(自分としては)水俣をこえられてない、まず水俣をこえたい」という諸橋さんから、現在の水俣や水俣に移住した自分の生き方について聞きながら、考えることが多かった。原爆事故のあとの道のりは、水俣と比べても、まだ始まったばかりだ。

振り返ってみると、おれが有機栽培や「自然農法」などの方たちと関わりを持ったのは、1980年代の後半の熊本でだった。福田農場の福田さんと話しているうちに、当時のことが思い出された。当時は、かなり特殊な存在だった「有機」は、やがて「オーガニック」といわれ流行現象を担うようになった。言葉も変わったが、農業全体が変化の最中にある。ま、「多様化」といわれたりもするが。その変化についていけてないのが、アンガイ、情報の中心にいるとカンチガイしている都会の消費者であり中央の風をふかしているメディアと、その周辺の人間たちなのだなという感じがした。

久松さんのおかげで、楽しく有意義な時間をすごせた。久松さん、ありがとうございました。

帰りの電車のことがあるので、22時ごろ早退。こんどは久松さんの農園を訪ね、土浦に泊って、土浦の夜をたっぷり過ごしたい。昼間ぶらぶらしたが、土浦のような規模の旧い町は、なかなか面白い。それに、また熊本や水俣にも行きたくなった。

家に帰りついたのは24時過ぎで、翌日14日は、14時30分から高円寺だった。

「車座ディスカッション:震災からの復興とオリンピック後の東京のコミュニティづくりを考える-『復興に抗する』の執筆者と共に-」というトークイベント。

当ブログ2018/04/11「『原発事故と「食」』と『復興に抗する』。」に書いたように、『原発事故と「食」』と『復興に抗する』は、ほぼ同時期に発売になった。

このふたつの本については、車座ディスカッションで、『復興に抗する』の「第四章 「風評被害」の加害者たち」を執筆した原山浩介さんが、いま読んでいるところだがと『原発事故と「食」』を参加者に見せ、「著者の五十嵐さんとはスタンスは違うけど、結論は同じようで、ようするに、こういうことが(ふりかえって)書けるようになったということでしょう」というようなことを言っていたのが、すべてだろうと思う。

ふりかえり、もう一度、おきたことあったことの自分のことだけではなく全体を見直し、自分の考えや行いはどうだったか検討し、これからをどう生きるか、これからのコミュニティづくりを考える。

ディスカッション参加者(*印は『復興に抗する』執筆者)は、

中田英樹*(社会理論・動態研究所所員)/髙村竜平*(秋田大学准教授)/猪瀬浩平*(NPO法人のらんど代表理事)/友澤悠季*(長崎大学准教授)/原山浩介*(国立歴史民俗博物館准教授)

越川道夫(映画監督。震災後の福島を舞台にした「二十六夜待ち」などの作品がある)/冨原祐子(会社員。2012年4月から岩手県陸前高田市でのボランティア活動を開始。2014年9月には同地へ移住して一般社団法人で働くかたわら、「けんか七夕」の運営にも携わった)/柳島かなた(農文協東北支部職員。2014年から東北支部に所属、農村で農家や農協・役場の人々に書籍販売営業の立場で話を聞き、共感したり、反発したり、励まされたりしている)
狩野俊(「本が育てる街・高円寺」代表。「資本主義から知本主義へ」を合い言葉に、本で人々を繋ぐ新しいコミュニティづくりを高円寺で実践している)/永滝稔(『復興に抗する』の版元である有志舎の編集者)

トークが始まってからわかったのだが、この集まりは「本が育てる街・高円寺」も共催で、代表のコクテイルの狩野俊さんが、出席し発言していた。「本が育てる街・高円寺」のことは知らなかった。この活動は、いわゆる「本好き」の趣味のコミュニティとは違うようで、興味が湧いた。

『復興に抗する』は、カバー写真に、友澤悠季さん撮影の陸前高田の復興事業を象徴する、「かさ上げ工事のための土砂を運ぶベルトコンベア」を使用している。その写真を採用するにいたるトークは、生々しく、「第一章 ここはここのやり方しかない 陸前高田市「広田湾問題」をめぐる人びとの記憶」(執筆者、友澤悠季)や、災害と「復興」をめぐり起きていることにたいする理解を深めた。

記憶と記録。

トークは16時半ごろ終わり、コクテイルに移動して、懇親会になった。20人ぐらいの参加だったか。トークのときから、猪瀬浩平さん以外は初対面の方ばかりだった。前日と違うのは、ほとんど「学術系」の方たちだったこと。ただ、フィールドワークの経験が豊富で、本書もそうだが、そこに何があったか、そこに生きる人びとのことを掘り起こしている。というわけで、「コミュニティ」といわれたりする「地域」について、いろいろ考えることが多かった。

面白かったのは、水俣へ行っても、誰の紹介で歩くかによって地域の見え方は違ってくること、震災にしても原発災害にしても、そもそも地域は多様な文脈で成り立っているのだから、どこからどうアプローチするかによって、まったく違って見えることだ。

「反原発」も「原発推進」も地域では単純ではない。「左派」や「右派」といった中央の観念的な分類では、見えないこともある。『復興に抗する』には、そのへんの事情がよく描かれている。

地域に入っていく場合、言葉の使い方ひとつで、地域の人たちに判断され、対応が変わってしまう。といった話もあって、おれも経験していることで『理解フノー』の「「文芸的」問題」にも書いたりしたが、地域とは、なかなか一筋縄ではいかない。なのに、単純に短絡して考えるのが、「中央」なのだ。それで「知った」気になる。

と、大いに飲みながら、コクテイルでは、若い農村社会学者と、「食文化」と「料理文化」、「消費文化」と「生活文化」などについて、けっこう話し込み、前夜の疲れの残りもあり泥酔ヨロヨロ帰宅だった。

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2018/04/13

『dancyu』5月号「美味下町」ではやふね食堂を取材した。

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去る6日発売の『dancyu』5月号は「美味下町」という特集で、おれは森下の「はやふね食堂」を取材して書いている。森下は、もとは深川区だから深川と言ったほうが通りがよいかも。

1991年ごろ初めて行った食堂で、おれの最初の著書95年発行の『大衆食堂の研究』には、はやふね食堂について「昭和の初めのころには、 当時の東京市内の飯屋の一五パーセントは深川にあったのだそうな 。だけど戦争をさかいに、 田舎の世田谷区や杉並区の方に移住するひとも多く、激減。で、 伝統あるこの地で、食堂といえば、ここだね。」と書いてある。

森下3丁目といえば「ドヤ」というイメージは80年代ごろから次第に薄れていったけど、戦前から屈指のドヤ街だった。はやふね食堂の裏はドヤが並び、この界隈には、ほかに3軒ほど食堂があったらしい。いまはその面影もない。住宅と小さな町工場が入り混じってひしめきあっている。

すぐ前に深川小学校があり、はやふねのご主人は昭和19年早生まれで、昭和18年遅生まれのおれとは同学年になるのだけど、ここで生まれた。深川一帯が空襲で焼け野原になったときは、長野へ疎開していて難は逃れた。

その焼け野原にもどってきた一家の母が、焼き芋やかき氷を売る店を始めた。それが食堂へ「進化」した。

築地が近いので魚は築地へ買い出しに行く。「野菜は?」と聞いたら、「引き売りと、近所のスーパー」と。「え、このへんまだ引き売りが来るんですか」と聞くと、「トラックでね」。昔の「引き売り」という言葉をそのまま使っているが、そのトラックは、朝のうちに葛西方面の農家で直接仕入れ、売ってまわるのだそうだ。いかにも東京の東の下町らしい話だ。

深川で生きた母の手料理が引きつがれている食堂。「特別の食材は使っていないし特別のことはしてないと言う」だけど「ありふれたものをおいしくつくる熟練の味」がある。

この前の見開きページを、山本益博さんが書いている。門前仲町の「ふく庵」の天ぷらだ。山本さんは「私は特価品には興味はなく、いつも心がけていることは特上品の批評である」と、いかにも彼らしいことを述べている。

で、そのページをめくると、「特価品」ではないが「特上品」でもない普通の食事のはやふね食堂になるというわけで、下町の懐の深さを感じますね。

写真は、「料理写真界のキムタク」こと木村拓さん。

また今号の写真には、久しぶりに、久家靖秀さんが登場。浅草の「鮨一新」を撮影している。

ま、手にとって見て下さい。

最後の写真は、はやふね食堂の40年の糠床。

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