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2019/09/15

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」83回目、高円寺・タブチ。

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ボーとしていても月日は過ぎる、それが年を取るほど速くなるというが、その通りだ。加速度的。この勢いは止められない。気が付いたら、人間の海で溺れ死んでいるのだろうか。

もう9月15日だ、まもなくおれは76歳になる。先月30日、池内紀(いけうち・おさむ)が亡くなった。その活躍ぶりからしても、おれより一回り以上は年上と思っていたのに、まだ79歳だった。75を過ぎたら、四捨五入してもしなくても80代とかわらない感じになる。感覚的に、年齢差がなくなっていくのだ。

どんどん死んでいく人たち。おもしろいぐらい死んでいく。おれより6歳も若い中原蒼二さんも死んじゃったしなあ。ようするに人間も生物だから死ぬのだ。死ぬまで食って排泄するのだ。

東京新聞、先月16日の朝刊に掲載のものだ。すでにWEBサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019081602000174.html

おれの周囲では、高円寺のタブチは有名店だ。おれの知り合いには、貧乏ぐらしをしていたか、している連中が多いからかもしれない。

看板からするとカレーとラーメンが売りのようだが、定食を食べている人たちも多い。

おれにとって、ここのカレー、とくに辛口は、特別だ。というのも、1962年に上京して、初めて、家庭や大衆食堂の黄色いカレーではないカレーを食べたときの、その味覚が、タブチの辛口カレーに「同じ」と言いたいぐらい似ているからだ。

味覚の記憶なんてあまりあてにならないが、色合いは、目に焼き付いている。なにしろ、黄色くない、黒に近い深い焦げ茶色のカレーを見たのも食べたのも初めてだった。

当時は、まだ黒ビールを飲んだことがなく、かなり歳月がすぎてから、初めて黒ビールを飲んだとき、あれっ、これは、あの黒っぽいカレーと似ているなと思った。その記憶が残っていた。

おれが、このカレーを食べたのは、飯田橋にあった「カレーの南海」というチェーン店でだった。

タブチのカレーは黄色いカレーと同じようにじゃがいもなどがゴロッと入っているが、記憶では、カレーの南海のカレーはじゃがいもは入っていなかったような気がする。それは、それまで食べてきた黄色いカレーより、「もっと洋風」な感じがした。

インド風だかネパール風だか、あるいはいまどきのスパイシーなカレーとか、そちらから見れば、タブチのカレーは「日本の昔のカレー」寄りになるのかも知れない。

が、これは「タブチ風カレー」なのであり、カレーの面白さと可能性は、「各人風」「各店風」が一緒に存在していることだろう。そういう「カレー環境」こそ「文化」や「社会」と言えるものではないか、と、近頃、そういう思いが、ますます深まるのであった。

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2019/08/31

地味で話題になりにくい、燃料と台所のこと。

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前のエントリーの早川でのことだが、かつて燃料店だったのではないかと思われる建物があった。青木食堂やうおよしがある、もはや商店街らしいカタチは失われた通りにあった。前回2006年4月25日に行ったときには、気にもとめなかったのか、青木食堂とうおよしの写真はあったが、ここの写真は撮ってなかった。

だから、どういう状態だったか、記憶の手掛かりがないのだが、たしか、店は開いていて、ほそぼそと何かを売っていたような気がする。

とにかく、今回は、立ち止まって、しっかり見て写真を撮った。

コンクリートの壁の、ESSOのロゴと灯油の文字の看板は、かなり古い。このようなカタチで灯油が売られていたのは、家庭の台所の火が、薪や炭から灯油に替わるころで、かつまだガソリンスタンドが普及する前のはずだから、1950年前半頃のものだろうか。

塩の専売もしていたようで、それを示すホウロウの小さなサインも軒下にあった。1945年の敗戦後は、しばらく薪も炭も販売店は登録制だったはずで、塩の専売も含め、この地域の食生活の要の位置にあったにちがいない。

建物も、屋根のそりぐあいまで、なかなか凝った造りだ。

燃料と料理の関係は、生活と密接にも関わらず、一般的には関心が低い。『大衆めし 激動の戦後史』に収録の「生活料理と「野菜炒め」考」では、戦後のおれの生活体験も交えて、野菜炒めを例に燃料と料理の関係を書いた。もちろん、あまり興味を持たれてないようだ。

二つばかりのテレビ番組から、おれを「野菜炒め研究家」と誤認識したらしく、おいしい野菜炒めが食べられる店だのおいしいつくり方だのの問い合わせがあった。いかにも、いまどきの偏った関心の示し方で、エンターテイメントな面白いネタになる料理と味覚、それも外食店のことばかり、生活の中の家庭の台所や燃料など地味だから眼中にない。

と、考えてみると、おれもまあ、ふだん何気なく過ごしていると、同じような状態だということに気づく。そういうビョーキが、かなりマンエンしている。と、気づくだけでもヨシとしよう。

戦後の薪や炭を使っていた頃、おれのうちが利用していた燃料店が、町のどこにあったか、もう思い出せないのだ。炭は炭俵で配達された。「薪」は、柴木と、いわゆる薪であり、これは父がリヤカーを引いて買いに行っていた記憶がある。柴木は長いから鉈で切り、薪は太いから鉈やまさかりで割って、かまどの近くの軒下に積み重ねた。その手伝いをさせられたことは覚えている。柴木はうちから見える近くの山でも採れたが、炭は奥の山で焼いていた。

ということを思い出そうとしているうちに、燃料店の歴史を知りたくなってネットで調べたのだが、「燃料店」レベルで、ちゃんとまとまったものがない。ますます気になる。

検索していたら、「江戸時代の資源・エネルギー」というPDFがあった。
https://www.enecho.meti.go.jp/category/others/tyousakouhou/kyouikuhukyu/modeling/pdf_cshs/04.pdf

学習指導要綱らしきもので、中学2年を対象学年とした社会教科だ。

………………………………………………

消費社会から循環型社会への転換が求められる現在、具体的な循環型社会への転換方法を考え、互いに自分の意見をまとめ、他者へ伝え、相手を納得させていく事により問題意識を高めていく。

32単元における視点●展開例の趣旨鎖国状態であった江戸時代の庶民の生活を知ることで、当時の人々が循環型社会を形成し、資源・エネルギーを自給自足していた社会を確認する。衣食住全ての分野でリサイクルが基本となっていた当時の状況を確認し、現在と比較することでこれから先、我々が出来ることを考えていく。●単元における展開例の位置づけ歴史的視点を持ちながら、現在の社会への置き換えを行うことで、資源・エネルギー問題を自分のこととして考える力を養っていく。

………………………………………………

とかいうもので、江戸時代が、モデルになる「循環型社会」だったかのように書かれている。

へえ~。

そういう炭と薪の生活が、それは井戸水や汲み取り便所と共にあったのだが、都会地はともかく、当時は人口も多かった田舎町では普通だった。普通の家庭の台所では、江戸時代が続いていたのだ。

あのまま続いていたら、周辺の山はハゲ山になり、燃料のために木を伐りすぎて文明が滅びたともいわれるギリシャ文明の末路みたいになったかもしれない。

いまの消費社会は、かなり歪んでいるから何らかの転換が必要だとは思うが、それが江戸時代をモデルにした「循環型」とは、どうなんだろう。

それに、猪瀬浩平『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』(写真=森田友希、生活書院2019年3月)と藤原辰史『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社2019年7月)を読んだあとのおれは、そうは簡単に「循環型」になびかない。

早川で出あった、昔の燃料店らしい建物から、あれこれ考えるのだった。

身近な燃料と台所は、文明と密接な関係があるわけだ。というか、文明そのものだね。そのことを忘れさせる消費社会に生きている。

当ブログ関連
2018/11/12
大革命。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2018/11/post-743c.html

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2019/08/29

根府川、早川-小田原漁港。

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東海道線根府川駅は、近頃「ホームから海が見える」ということで売り出しているようだ。熱海や伊豆方面に行くとき、車窓から見える景色が印象に残っているから、じゃあ行ってみるかと出かけた。

ここ東大宮からは熱海行の直通があるので、乗り換えなしで行ける。10時16分発の電車に乗り、約2時間、飲み食いしているうちに着いた。

出かける前から、根府川からの帰りは、一つ手前の早川で降りて小田原漁港へも行ってみるつもりだった。小田原漁港へは、以前に行ったことがあり、早川駅から漁港までの途中にあった食堂や魚屋も健在かどうか気になる。

あいにくの曇天で、海は曇り空に溶け込んでしまったような、少し残念な眺めだった。めったに海を見ない埼玉県人としては、単純に「青い海」を期待しているのだ。

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根府川駅のある場所は、平地がなく、駅舎は崖の中腹にある。周辺には、休憩できる飲食店もない。そこから海岸線まで降りてみようかと思ったが、地図で確かめると、かなり遠回りしなくてはならない。この天気では、そこまでやることはないだろう、早川へ行けば海岸線を歩ける。1時間も滞在しないで、上り電車で一駅引き返した。

この前早川駅に降り立ったのは、2006年4月25日だった。と、このブログを調べてわかった。前日に牧野伊三夫さんに誘われ、横須賀での「風呂会」に参加し(そこで初めて瀬尾幸子さんに紹介された)、銭湯のちよく飲み泥酔し、おれだけ当時北鎌倉にあった牧野さん宅に泊まり、翌朝まっすぐ帰宅するつもりが、途中で気分が変わり、早川の小田原漁港のあと熱海まで行って温泉に入り帰宅するということをやった。
2006/04/26
横須賀風呂会泥酔鎌倉泊熱海よれよれ中野の夜
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2006/04/post_546b.html

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早川駅は、そのときとまったく同じ佇まいだった。食堂、名前を忘れていたが「青木食堂」も、10年以上の歳月を感じさせな佇まいで、健在だった。その筋向いの魚屋「うおよし」も、そのまま、あった。

うおよしの店頭のアジが、前回は午前中だったから、全身の鱗が金色に光っている状態でたくさんあったが、今回は午後のせいかその量は少なく、それでもゼイゴにそって金色の光が残っていた。それだけでも、東大宮の近所のスーパーのアジでは見られない輝きだ。

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青木食堂に入った。今回気がついたが、ここは洋食中心で、魚料理が食べたいと思っても刺身定食しかないのだった。すじ向かいのうおよしには、焼魚で食べたらうまそうな魚が並んでいるのに、たぶん食堂の客は近隣や漁港関係の人たちばかりで、となれば、魚より洋食なのだろう。

あまり腹も空いていないから、2人で刺身定食2人前はいらない、刺身定食一人前に刺身単品一人前にし、ビールを頼んだ。

刺身は、定食も単品も同じものだった。アジとマグロで、さすがに、アジは新鮮すぎるほど新鮮だった。

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腹ごなしに、漁港と周辺を歩いた。朝早く出かけたであろう、釣り客を乗せた船が帰港する時間のようで、けっこうにぎわっていた。

漁港の周辺には、蒲鉾づくりの店や、ひものづくりの店があり販売もしている。アジやイワシなどを店頭で干している店もある。

ここ埼玉にはない漁港の空気をたっぷり吸って帰って来た。

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