新刊。お知らせ。

001003_2発売中、鎌倉のインディーズ出版社・港の人から四月と十月文庫7『理解フノー』…クリック地獄

古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

◆HP「ザ大衆食」はこちら…クリック地獄
◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄
◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄
004005◆『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』ちくま新書から発売中。よろしく~。もくじなどはこちら…クリック地獄
◆好評『SYNODOS-シノドス-』――『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている 五十嵐泰正×遠藤哲夫は、こちらでご覧いただける。…クリック地獄

通常のエントリーは、この下↓からになります。

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2018/10/15

画家のノート『四月と十月』39号、「理解フノー」連載21回目。

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今月は10月だから、美術同人誌『四月と十月』39号が発行になった。同人ではないおれの連載「理解フノー」は21回目で、「言葉を使う」のタイトル。

呼吸をするように言葉を使っているけど、それだけに、馴れきってしまい、使う言葉については考えることがあっても、言葉を使うってどういうことかについては考えない。けっこう惰性なのだな。ってことにブチあたることがあって、「本当に言葉を使って考えているのか」と考えてしまった。ってことを書いた。

今号から連載陣に中原蒼二さんが加わった。「料理」というテーマで、今回は「包丁論 一」だ。中原さんは料理人ではないが、包丁を使って魚をおろしたりするのは得意だ。見たこともある。立ち飲みの「ヒグラシ文庫」の店主であり、最近、『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』(星羊社)を著している。

連載は、全部で15本になった。蝦名則さんの「美術の本」は見開きだが、ほかは一人1ページだから、本文60ぺーじのうち、16ページを占める。同人のみなさんの作品(必ずしも完成品ということではなく)と文が、一人一見開きずつ載る「アトリエから」というページは、今回は20人だから40ページ。

毎回のことだが、同人のみなさんの文章が、よいのだなあ。うまいっ。感心しちゃうのだ。

それにひきかえ、ライター稼業のおれは…とは考えないのだが、自分の文章にはライター稼業の悪癖が出てきたなと気づくことはある。

前号から連載陣に、ライター稼業の、岡崎武志さんが「彫刻」のテーマで、木村衣有子さんが「玩具」のテーマで加わった。

それでチョイと気が付いたことがあったのだが、今回で、少し見えてきた気がする。

同人のみなさんの文章には、既視感のようなものや類型がない。ライター稼業をしていると、どうも既視感のようなものや類型が出やすくなるのではないか。という仮説。

でも、中原さんの文章にも類型が見られるし、「東京風景」を連載の鈴木伸子さんはライター稼業の人だけど既視感のようなものも類型も見られない。

これはオモシロイな、と思った。

おれなんか出版業界と業界的な付き合いはしてないほうだが、知らず知らずに、クセのようなものがつく。いや、知らず知らずだから、「クセ」というのか。それを「悪癖」と見るかどうかは、文化的な価値観も関わるから、それぞれのことであり、なんともいえない。

とにかく、これまでおれは「私」で書いてきたが、今回から「おれ」にした。今回は一か所でしか使ってない。ほかのひとにとってはどうでもよいことだろうし、たぶんほとんどのひとは気づかないにちがいない。

最近、同人も連載陣も新しい方が加わり、『四月と十月』、どこへ行くのだろう。ひょっこりひょうたん島か。

そうそう、今回の同人の方の文の中に、おれにとっては貴重なオコトバがあった。

瓜生美雪さんの文は、「気持ちをうすく閉じ込める」のタイトルで、これにも気持がひっかかったが、後半「コラージュは楽しい」という話をして、最後にこう書いている。

「大事なことは、仕上げる時に、自分が普段出せない奥のほうの感情が入っていればそれでいい」

下の写真は、瓜生さんのページ。

表紙作品は、同人の扉野良人さん。

四月と十月のサイトはこちら。
http://4-10.sub.jp/

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2018/10/09

ワシらにも愛をくだせぇ~っ!!

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ブッ。クラエ!

東陽片岡さんの新刊。青林堂工藝舎2018年9月。

あの、山下則夫が!

ごめんね。これから読むの。

でも、表紙と目次だけでも、あの、あの、あの、山下則夫が、ががががが。

昨夜は、ほぼ泥酔状態で、ここまで書いて寝てしまった。本日(10日)、以下に追記というか、修正版というか。

『ワシらにも愛をくだせぇ~っ!!』

東陽片岡さんの新刊。青林堂工藝舎2018年9月。
お東陽片岡先生6年ぶりの新刊、とのこと。

ただただ
社会の片隅で
ひたすら愛を求めながら
生き抜いてきた
意識低い系の
おファンタジーライフ!!

と帯に謳う。

前半は山下則夫ワールドだが、いつもの哀愁にみちた人たちが繰り広げるダメ人間ぶり哀愁哀愁また哀愁の笑いが、気取った世間の上っ面をひっぺがし、「生」の根っこに肉薄する。「愛」だああああ。

今回は、一発画が数点入ったり、東陽さんのおスナック・マスター生活の話も登場など、バラエティに富んでいる。東陽さんがモデルの写真も多い(脱いでいないのが残念だが)。

数年前だったかな、ワシら野暮たちが朝まで過ごした四谷3丁目のおスナックも出てくる。あの朝まで営業のおスナックのソファで眠りこけるサラリーマンたちの実写写真まで載っている。

「畳画職人」の異名をとる東陽さん、濃密な線はあいかわらずだ。もうトシだから、けっこう疲れるんじゃないのかねえ。なんて、思ったりして。

オレにも愛をくだせえ~っ!! ツーの。

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2018/10/08

これが間違えられた「普通」の実態か。

昨日のエントリーの続きになるが。

今日たまたま、ネットでこんな見出しが目にとまった。
「自閉症児と母の17年を追って学んだこと 「普通」を捨てて、我が子のために人生の目標を設定する  心と体の性が一致しない次女、ヒカリと私に与えてくれた希望」
https://www.buzzfeed.com/jp/tadashimatsunaga/yuta-hikari?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter&utm_term=.ng3v7B46X

性同一性障害の子を持つ母親で医師をしているひとが書いている。「普通」という言葉がどう使われているか、つまんでみると、こんなぐあいだ。

自閉症の子(勇太)の「母は自分の親から英才教育を受けて育ったため、勇太君にも英才教育を施していました。勉強ができて、いい学校に行って、いい会社に入って、いい家庭を築くことは、母にとっての夢だったのです」「しかしこの夢はよく考えてみれば、私たちの誰もが頭の中に描く夢です。そういう意味では「普通」の夢です」「親は子どもに「普通」の夢を抱きがちだ」

「私は聞き書きを進めるうちに、知的障害のある自閉症児を受容し育てるということには、健常児の子育てにつながる課題があることが見えてきました」

「個人的な話になりますが、私の子どもも「普通」の道を歩んでいません」

これがまあ、実態ということなのだろう。

しかし、この著者や「母」が受けた「普通」からの抑圧は、酷いし根が深いと思う。

「末は大臣か博士か…」という言葉がある。近代が始まった明治からの立身出世思想を象徴するものだ。政治家か学者がだめなら軍人、それがだめなら新聞記者…というぐあい。森鴎外は軍人だったし、夏目漱石などは新聞社の社員として新聞に小説を発表していた。彼らの引き立てで、出世(世に出た)作家も少なくなく、現代の「文芸」はその上に成り立ってきたといっても過言ではないだろう。おれは新聞記者に「作家」も含めてよいのではないかと思っている。

こういう職業序列の価値観や優劣観があり、その構造のもとで「上」をめざすのが「普通」で、そこからはずれたら普通以下、というかんじの社会が続いていた。

戦後「民主主義」とやらの社会になって、大衆社会が出現し、戦前のこういう「序列の価値観」が根本にありながら、職業の序列に新たなものが加わったりしたが、「いい学校に行って、いい会社に入って、いい家庭を築く」が「「普通」の夢」となった。

高度経済成長から70年代ぐらいまで、その「普通」は「人並み」といわれたりした。

そういう見えない抑圧は強く働いていて、それに慣らされてしまった「普通」が蔓延する一方で、さまざまな「障害」を抱えることは「普通」をあきらめなくてはならないかのような苦しみを与え続けている。

間違っているのだ、その「普通」は。抑圧で歪んでしまっている。

今日ツイッターで知ったのだが、このあいだからの『新潮45』の差別発言と休刊をめぐり、同じ新潮社の『新潮』編集長・矢野優というひとが編集後記でコメントを出したとのことだ。

「言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます」

その最後は、「「新潮45」は休刊となりました。しかし、文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います」とある。

なんだか、アマイなあ、あいかわらず「文芸」ってのはエラそうだなあ、と思った。

差別的表現を生む根底にあること、そこに「文芸」とやらの、あの漱石や鴎外の時代からの、権威主義にまみれた文芸優越思想は関係ないと言えないだろう。そのことについて、どれぐらい考えているのだろうか。

何が「文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います」だ。ケッ、ヘッ、ブッ。

差別にいたる、いわれのない抑圧に加担してないか。メディアに関わっているものは、とくに考え続けなくてはならないと思う。当たり前の普通のために。

ま、「普通」以下のフリーライターのたわごとですが。

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«なぜだ~、「普通」と「均一化」。