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2017/05/20

東京新聞「大衆食堂ランチ」54回目、葛飾区・ときわ食堂金町。

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今月の掲載は昨日だったのだが、まだ先月の分もここにアップしてなかったと気づき、とりあえず先月21日の朝刊に掲載の分を。

東京新聞のサイトは、すでに掲載していて本文をご覧いただける。たいがい当日のうちにアップされているようだ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2017042102000180.html

ときわ食堂は今回で6店目。

葛飾区には、ときわ食堂が多いような気がする。金町は常磐線沿線であり、この沿線からは以前、亀有のときわ食堂を取り上げている。亀有には、ときわ食堂とは関係ない常磐仙食堂もあり、「常磐仙」は「じょうばんせん」と読むが、ここも以前取り上げている。

葛飾区の北域を走る常磐線には、綾瀬、亀有、金町と大きな町が続いている。それぞれ個性があっておもしろい。綾瀬の駅北側は足立区であり、亀有の北側はいくらか葛飾があって足立と隣接している、金町はそっくり葛飾だが常磐線の次の駅は江戸川を渡り千葉県松戸になる、という地理も関係しているようだ。

金町に野暮な女がいて、小岩に野暮な男がいて、彼らは、小岩も総武線の次の駅は江戸川を渡り千葉県市川になるから、金町も小岩も「国境の町」だと言った。なるほど独特の情緒がある。

ふりかえって見ると、成増の食堂を取り上げたときも、ちょっと独特な空気を感じ、「成増は池袋から東武東上線準急で10分ほどだが、都心とも郊外とも違う独自のカラーを感じる町だ」と書いている。

成増の次は埼玉県和光になる。川は渡らないが、「国境の町」だ。成増も小岩も金町も、独立の「地方都市」という感じがするのだ。

ほかの「国境の町」も気になるのだが、それはともかく、ときわ食堂金町は、おそらく東京の最東北に位置するときわ食堂になるのではないかと思う。

ま、本文を読んでください。

008001ときわ食堂の前には自転車が一台とまっていた。前にちょろっと書いたと思うが、大衆食堂の前の自転車は、なんだか意味がありそうだ。地元に愛されている「安心」のしるしとして見ることができるかもしれない。

しかし、大衆食堂と自転車の関係には、もっとナニカありそうだと思ったのは、最近、昭和の初めの頃の、大衆食堂の原型ともいえる東京都の公衆食堂に関する資料を調べていたときだ。

それは当時の新聞記者が公衆食堂で食べて書いたものだが、「「自転車に気をつけて下さい」の掲示が自転車に乗ってくる階級の多い事を如実に示している」と書いているのだ。いうまもでなく、当時は、いまよりはっきりした階級社会だった。ゆとりある知識階級の記者が、このような階級的現象に眼をとめるぐらい、階級社会だった。いまはどうだろう。

大衆食堂と自転車の関係は、大衆食堂の勃興の頃からだった。

この連載の食堂の外観写真にも、けっこう自転車が写っている。

気になっている。

それはそうと、野暮な人たちが言っていた「国境の町」という表現は、この金町では使わず、昨日掲載の小岩の「ラーメン餃子三平」で、小岩を「国境の町」として書かせてもらった。

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2017/04/16

30年前のままの駅前酒場@綾瀬の短冊メニュー。

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先日、綾瀬駅前の「駅前酒場」で飲んだ。野暮に連れられて初めて入った、コの字カウンターのみの酒場だ。

飲んでいるうちに、反対側のカウンターの壁に貼ってある、油汚れや変色の壁に同化して渋紙色を通り越した、やっと文字が読める状態の短冊メニューに気がついた。

「梅きゅう ¥300」と読める。

カウンターの中のおねえさんに写真撮ってもよいかと聞くと、よいと言う。

何年前のものだと聞くと、30年前の開店のときからだと言う。もとは駅の反対側の別の場所にあったのだが、移転しなくてはならなくなり、ここに移った、そのときからのものだと。

綾瀬といえば、駅の反対側の高架下に「三幸酒場」という、間口の広いカウンターだけのいい酒場があった。『続・下町酒場巡礼』(四谷ラウンド、2000年)で知ったのだ。

かつて南陀楼綾繁さんが『酒とつまみ』に「古本屋発、居酒屋行き」という連載をしていて、その取材におれはいつも同行しタダ酒を飲ませてもらっていたのだが、それで初めて行った。それから何度か行っているうちに閉店になってしまった。

いま調べたら、その「古本屋発、居酒屋行き」は、2004年6月発行の『酒とつまみ』第5号に載っている。連載の一回目だったのだ。

ついでに『続・下町酒場巡礼』も見た。

なんと、「三幸酒場」のところに、「目指すは「駅前酒場」。文字通り、駅から側道を入り、高架線のわきに「看板」があった。ただシャッターが降りていて、「暫く休業させて頂きます。」の貼り紙。小さな字で「会員の方は会長宅に電話して下さい」と添え書きもあった」とあるではないか。

続いて著者は閉店してしまったと思ったような書き方をしているが、たぶんこれは現在の店のことのようだから、何かの事情で「暫く休業」だったのだろう。

とにかく、この短冊メニューの醸す味わいは、その歳月がなければ出来ないものだ。それは、ここに集った人たちの人生のひとコマひとコマが、積もったり溶けたりしながら過ぎたものとも読める。

三幸酒場は、JRの再開発のためなくなってしまったが、同じような「駅前酒場」が残っていることは、うれしかったしありがたかった。というわけで、ここに来る前にもけっこう飲んでいたが、さらにボールを重ね泥酔帰宅だった。

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2017/04/15

「批評」と「品定め」「目利き」。

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前にも書いたが、周期的にテレビ出演の話がくる。それも、なぜか1社だけということはない。今回も2社からあった。全国ネットの番組だ。なにしろ全国ネットの番組の影響力は段違いに大きいから、売れないフリーライターのおれとしては、いつも何か接点があれば出演する気はある。なので、いちおう話は聞くのだが、ずっと断り続けだった。今回も、また。

それより、チョイとコーフンする面白いことがあった。

某誌の編集さんが、以前このブログに書いたことを見て、メールをくれたのだ。もう書いたことすら忘れていたのだが、編集さんはあるテーマを追いかけて、このエントリーを「発掘」したのだった。

それは、2008/02/15「「宮沢賢治の詩の世界」と「大衆食堂の研究」の出会い。」だ。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2008/02/post_b58c.html

これは宮沢賢治の「東京ノート」に記されている、「公衆食堂(須田町)」がどこかということをめぐるアレコレだ。

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公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり
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016このエントリーを書いた段階では、「公衆食堂(須田町)」について、インターネット上にふたつの説があった。

ひとつは、現在の「聚楽(じゅらく)」の前身である須田町食堂とする説と、もうひとつは、このエントリーのリンク先のブログ「宮沢賢治の詩の世界」の方による、詩の内容と書かれた年を考えると須田町食堂はありえないという説だ。

このおれのエントリーでは、須田町食堂ではありえないほうをとっている。

それならば、「公衆食堂(須田町)」は、どういうことなのだ、どこなのだ、というモンダイが残る。「宮沢賢治の詩の世界」では、そのあたりまで突っ込んで、宮沢賢治が上京した当時の資料を駆使して、「ここではないか」というところをあげている。

これは、そういう可能性も濃いけど、それと「公衆食堂(須田町)」を結び付ける条件がヨワイ感じだった。

おれは、そのまま忘れていた。そのことを編集さんが思い出させてくれたのだ。

そこで、もう一度資料をひっくりかえし、新たな資料も見つけ、ああでもないこうでもない考えていたのだが、ついに、最も「ありうる」食堂にたどりついたのだ。

それは、ほんのちょっと視点を変えるだけでポッと浮かびあがったのだが、とかくひとの思考というのは、自由のようでいて、けっこう自ら縊路にはまちゃうものだなと思った。やっぱり、こだわってはいけない。

とにかく、取材もあったので、ついでにその「現場」周辺を歩いてみて、その「ありうる」食堂があったであろうあたりを確かめてみた。すると、大いに、ありうるのだなあ。

まだよく調べなくてはならないことが残っているが、とにかく、こういうことがあると思考力や精神までイキイキと解放された感じで、ヒジョーに気分がよい。やっぱり、自由が大事だよ。

それに、大正から昭和の初めの資料をたどっているうちに、ほかにも面白いことがあった。

それは「批評」と「品定め」と「目利き」についてだ。

いまにつながる大衆的規模の「食べ歩き」、つまり大勢の人たちが利用する飲食店などを食べ歩き、その食べ物や飲み物や店のたたずまいや雰囲気、人や仕事や技術といったものを評価し書くといったことは、関東大震災以後、昭和の初めごろから盛んになったのだが、その発端と影響は当時の新聞社の記者が書いたものだといえる。

それがいまでは大きな流れになっているわけだけど、それは「批評」というより「品定め」「目利き」であるということだ。そして、「品定め」「目利き」をしているのに「批評」や「評論」とカンチガイしている傾向も、すごく多いように思う。

昭和の初めの「食べ歩き」の記者たちは、そういうカンチガイはしてない。自分たちは、「上」の人間であり、そこから「品定め」をし、「品定め」することによって「善導」しているのだという、すごい高い意識を持っている。いまでも、かっこよく「批評」しているつもりの、こういう人たちがいるね。

最初に書いた、おれがテレビに出たくない理由のひとつは、その番組のつくりかたが、「品定めに、かれこれ興じあうて」いるからだ。これでは接点がない、と言えるのだな。

「批評」と、「品定め」「目利き」の違い、どれだけ理解されているのだろう。

「公衆食堂(須田町)」については、これからまだ取材し原稿を書くことになっているので、掲載の本誌が出たあと、このブログにも詳しく書くツモリ。ま、この食堂を特定したからといって、それ自体はどうってことないのだが、視点が変わることによって見えることが違ってくるというところが面白いのだな。

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