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2017/06/23

「チャン」の構造学。

おれが自民の代議士や秘書たちと付き合いはじめたのは、昨日書いた1974年夏の参議院選挙より前、その前年に東京都議会選挙があったのだが、その仕事がらみからだった。

都議会選挙だが、都連の幹部は代議士であり、それで都連の事務所や議員会館に出入りするようになった。

最初、すごい違和感を感じたのは、「チャン」だった。

彼ら国会議員やその秘書やとりまきのあいだでは、「なんとかチャン」と呼び合う関係があるのだ。その薄気味悪さったらなかった。

イチオウ恰幅もよく、国会議員らしく脂ぎった腹黒そうな顔をした人たちが、「チャン」づけで呼びあうのだ。当時の田中とか、大平とか、福田や三木といった派閥ボスを思い出して見て下さい、どう考えても気持ち悪いよね。

最近、加計学園疑惑で、安倍総理夫人が「男たちの悪巧み・・・(?)」というコメント付きでフェイスブックにアップした写真が取り沙汰されたけど、そこに写っている安倍首相と加計孝太郎らを見て、おれは、こいつら絶対「チャン」で呼び合っているな、と思った。

すると、森友のほうはどうか。どうも森友と安倍は「チャン」の関係まではいってなかったのではないかと思われる。ま、「チャン」をめぐり、そんな風に見ることもできそうだ。

いまではどうかしらないが、「チャン」は上下の序列関係がうるさいあの世界で、特別な関係を意味した。意味深長な、「友達」「仲間」あるいは「同士」が「チャン」なのだ。

たとえば、おれは「えんチャン」と呼ばれたが、おれを「えんチャン」と呼ぶのは、議員か中堅以上の秘書で、おれはかれらをチャンづけで呼ぶことはなかった。

おれは仕事を受注した会社の一社員だったこともあり、「チャン」付けで呼ぶような関係はなかった。しかし、おれの上司の、政治好きの取締役は、大臣秘書クラスまでは「チャン」と呼び合っていた。某派閥のブレーンだったのだ。そういうこともあって、選挙の仕事などを受注していたのだ。

彼らが「チャン」と呼び合いながら話しているときに「オヤジ」という言葉が出てくる。これは派閥のボスのことで、つまり彼らは、同じ「オヤジ」のもとでの「チャン」の間柄なのだ。

そこにおれのような「チャン」の関係でないものがいても、向こうから話しかけられないかぎり、自分から話しに口をはさむようなことはしないし、聞いた話もよそで口外しない、という、暗黙のバリアのような了解のようなものがあった。

いまはどうか知らないが、当時は、一年生議員と経験年数によって「格」の違いがあり、議員のあいだでも片方は「チャン」と呼び片方は「先生」と呼んでいる場面もあった。経験の浅い議員は、すぐには「チャン」の関係になれないようだった。

秘書たちのあいだも「チャン」と「サン」や「クン」が使い分けられていた。

人前で「チャン」「チャン」呼び合うときは、おれはこの人と「チャン」の関係なんだぞ、ということを誇示する意味合いもあった。まあ、権力や権威を利用しあいながらのしあがる業界だからねえ。

そのへんをわかっていないらしい、あまり空気を読めない、おれは社長だけんねという感じの社長さんが、大臣秘書などを囲む飲み会で、自分は「チャン」とは呼ばれていないのだが、みな「チャン」付けで呼び合っているのを見て、いきなり大臣秘書を「チャン」付けで呼んでいたことがあった。

おれは、ドキッとしたが、あとでやっぱり、あれはナンダという話が出ていた。ま、でも、カネになる社長さんならよいのですがね。ただ大臣と近づきになりたくて、おれは大物と友達なんだぜと思いたかったり、見せつけたくて、「チャン」を使ってしまう人もいる。

本人に面と向かって言えないから、誰かの前で自分を誇示したいときに、「ああ、なんとかチャンね」とか言う。すると、あの議員や秘書とはゴルフ友達だとか、飲み友達だとかという話が真実味をおびるというわけなのだ。

そういう世界が、今はどうなっているか知らないけど。

しかし、ほんと、それなりの権力を持った大の男が、「チャン」「チャン」呼び合っている景色は、じつに妙な感じだった。

でも、そんな風に、重要案件が話し合われていたりするのだな。

この「チャン」の構造、出版業界は必ずしも「チャン」ではなく「愛称」のことも少なくないが、似たものを感じる。前にも書いたが、政界と出版界は似ているところがある。それは権力や権威と深く関係しているからだろう。

哀しみと滑稽の狂騒曲といったところか。

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2017/06/22

都議選。

おれは都民じゃないが、知り合いの都民が都議選のために忙しい思いをしている。選挙活動をしているわけじゃなく、本人の会社の仕事が、選挙になると忙しくなるのだ。ご苦労さま。選挙で儲けてください。

いつの都議選も政局と無関係ではないが、今回は、「ここで自民党が大敗すれば、安倍辞任の可能性があります」といったことを言っている人たちがいるように、かなり政局がらみではある。

「自民党が大敗すれば」というのは、どのていどの議席数が基準なのかわからないし、それを条件に「安倍辞任の可能性があります」と言われたところで、あまりピンとこない。

政局がらみではあるが、安倍辞任に追い込める可能性は、かなり低いのではないかと思う。

だから反安倍勢力を支持しても仕方がないという話ではないが、選挙は勝敗の結果だけであるにも関わらず、反安倍勢力が彼我の力関係を読み切った戦略を持っているようには見えない。

その戦略のなさ、あるいは戦略のマズさについては、森友問題でツイッター世間が騒がしいときに、このようにツイートしたことがある。森友問題については、これだけしかツイートしてない。加計問題についても同様だから、ツイッターでふれたことはない。

逃げ切ろうとする側の絵は見えてきたが、追い詰める側の詰めの絵は見えない。
0:50 - 2017年2月25日
https://twitter.com/entetsu_yabo/status/835155051702276096

「アッキード事件」なんて言い方していて、詰め切れるのかなあ。
21:45 - 2017年3月2日
https://twitter.com/entetsu_yabo/status/837282725136498688

ざっと思いつくだけでも、甘利の不正、防衛省日報問題、森友、加計など、安倍政権に不利な大きなジケンが続いても、安倍政権を詰め切れず逃げられてきた。最近、内閣支持率が下がっているが、その文脈と反安倍が支持を得るための文脈は違うはずだ。

ツイッターなど見ていると、この文脈の違いをわかっていない反安倍が多く、これまで何度も繰り返したように、最後は浮動票頼みの投票率アップ運動で終わるのではないか。

彼我の力関係を読み切らず、ツイッターなどネットに期待をかけすぎのようでもある。

四月と十月文庫『理解フノー』の「右と左」には、おれが関係した、1974年夏の「保革伯仲」下での参議院選挙のことを書いて、「熱い夏だった。この夏に保革逆転を許さなかった自民と、逆転できなかった「革新」の「差」は大きく、いまでも続いているようだ」と結んでいる。

そこには書いてないが、その選挙後も1980年に大平正芳が急逝する頃まで、いろいろ自民がらみの仕事をした。

その「差」は、依然として残っている。それは、一度自民党が下野して返り咲いたことで、さらに大きくなったようにも見える。

よほどの「想定外」のことがないかぎり、自民党が大敗し安倍辞任ということにならないだろう。現在のところ、そういう筋書きは、どこにも見えてない。

それにもかかわらず、「ここで自民党が大敗すれば、安倍辞任の可能性があります」というようなことを言っているようでは、いかにも苦しい。自信がないのだな、と、おれは思ってしまうね。

反安倍は、「アンチ」として存在していればマンゾクなのか。

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2017/06/21

働く人の店。

「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」には、秋葉原の「かんだ食堂」が登場する。

そこにも書いたが、かんだ食堂の店主は、じつにキッパリとした口調で、「ここは、アキバで働く人の店」と言った。歯切れのよい爽やか口調だった。潔さが感じられた。

昨日書いた「作品」だろうと「商品」だろうと、「誰のために」というのがモンダイだろう。

本音をいえば「自分愛のため」というのは論外として、多くは「お客のため」というが、その「客」は誰か。たいがい多くは「働く人」ではないか。だが、そうはいわない。

「公共のため」という言い方もある。

昨年の『dancyu』2月号ラーメン特集で、おれは笹塚の「福寿」を取材したが、店主の「公共的な仕事をしていると思ってやっていた」という言葉を紹介し、「おれは驚いた。「ラーメンは芸術」より崇高な精神にふれたと思った。」と書いた。

「働く人の店」とか「公共的な仕事」など、飲食店の店主がポンと言うことなど、あまりない。

ま、取材する方のモンダイもあるのだが、出版の構造が「階級社会が固定化すると、底辺の人は知にアクセスできなくなってしまっている」という現状追認のもとで、売れるターゲットのために書き、市場で自分のイスを確保するために書く、ということになっているなかでは、仕方ないかなあという感じもある。

たいがいヒエラルキーに寄りかかって、エラそうな雛段を昇るしか道が見えない人たちもいる。バブルの頃からそうだけど、「いいものさえつくれば売れる」というのだけど、そういうあまり根拠のない全体像は根深く続いている。

ようするに、こういう現状追認のなかで、最初から「労働者」などの「底辺」は捨てられているのだ。

だけど、飲食業は、そうとは限らないのだなあ。

名のあるメディアに名をつらねる人たちに比べたら「しがない」存在と見られがちな、まちの飲食店の店主のこういう言葉は清々しいだけじゃなく、出版に関わるものも、どうしてこういう風に考えられないのかなと思う。

が、しかし、そうは簡単ではない。

おれは四月と十月文庫『理解フノー』の「気取るな! 力強くめしを食え!」に、「どのみち私は、労働者を貶めたり視野の外におく文化には、関わる気はないのだが」と書いていても、そのように生き抜くことが容易でないことは十分承知している。

それはともかく、今日、ネットで消費の全体像に関わる、おもしろい漫画を見た。

香山哲さんkayamatetsu.comの「紀行まんが」だが、その「(3)魚介類ですか」にあった。このまんが自体の世界もおもしろいのだが。

「どんな所得の人々が、どんなスピード、流量の消費をしてるか、そういう社会の設計の特徴がすごしやすさを決めている」と、絵で三つのパターンをあげている。
http://kayamatetsu.com/pagework/w13/p3.html

ターゲットが~とか、いいものつくっていれば~、などばかり言ってないで、もっと消費の全体像を考えながら、選択をしたいものだ。

やっぱり、自分もその一人である圧倒的多数の働く人たちの「すごしやすい」社会が必要だろう。そこに「読書」や本のマーケットが位置するとき、読書や本の未来が開けるのだと思う。そのためにコツコツやろう。

捨ててしまったら(視野の外においてしまったら)、捨てられた人は近づいてはこない。

当ブログ関連
2017/06/07
「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」
2016/01/15
発売中の『dancyu』2月号ラーメン特集に書きました。

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«「時代」ってなんですかね。