新刊。お知らせ。

001003_210月3日新発売、鎌倉のインディーズ出版社・港の人から四月と十月文庫7『理解フノー』…クリック地獄

古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

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◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄
◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄
004005◆『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』ちくま新書から発売中。よろしく~。もくじなどはこちら…クリック地獄
◆好評『SYNODOS-シノドス-』――『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている 五十嵐泰正×遠藤哲夫は、こちらでご覧いただける。…クリック地獄

通常のエントリーは、この下↓からになります。

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2018/07/19

「高級化」と「大衆化」。

前のエントリーでは、最後のほうで、『美食の文化史』からの引用がある。

「何世紀にもわたって綴られるガストロノミーの連続ドラマの粗筋は、料理上手なおかみさんと、考えるプロの料理人の間の絶えざる闘いだ。この痴話げんかは、よくできた冒険小説と同じく、さんざん仲違いしたあとはめでたく結婚して幕、というわけだ」

これは、日本のばあい、それほどうまくいっているわけではない。というのも、日本では、圧倒的に、支配階級に隷属するプロの料理人が力を持ち、それは残っている文献によくあらわれているが、日本の「料理上手なおかみさん」たちはフランスやイギリスのように料理に関する書き物を残す力もなかった。

そういう意味では、「絶えざる闘い」は、やっと近年になって「日常的」になったといえる。「おかみさん」たちだけに限らず、「料理上手」のシロウトたちは、プロの料理人のご託宣から解放されつつある。そして、プロの料理人がめざす方向は、かつて圧倒的な力を持っていたプロの日本料理・フランス料理・中国料理に縛られない。

その前哨戦とまではいえないかもしれないが、大正期には、飲食店を舞台に、高級化と大衆化が入り乱れた。

明治期には下賤の者には手が届かなかった西洋料理などの高級料理は、大正期に大衆化し普及定着する。いわゆる「洋食」などがそうだ。

一方で、もっぱら屋台営業で普及し下賤の者の食べ物だった、蕎麦や寿しや天ぷらは、大正期には「座敷料理」として高級化し、いつのまにやら「日本料理」の伝統のような顔をするようになった。

生まれたばかりの昭和初期の大衆食堂では、この高級化と大衆化の舞台になった。つまり、「和洋中なんでもあり」のスタイルができあがった。

そこにどのような「絶えざる闘い」あったかは、まだ十分に解明されていないが、昭和初期の文献を見ると、少しは察しがつく。とにかく、サラリーマンを含めた、とくに都市部の新しい民衆である大衆が、その受け皿になって、「高級化」と「大衆化」が進んだ。

昨今、「高級化」と「大衆化」それから「絶えざる闘い」は、新しい段階に入りつつあるようにおもう。

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2018/07/17

100年‐大正期‐ベルクソン‐美味の文化。

今から100年前は1918年で、大正7年。この年は、第一次世界大戦が終わった年でもあり、東京や大阪や地方都市に公営の簡易食堂が生まれた年でもある。

簡易食堂は「苦学生」や労働者を主な対象にしたもので、これが設立された背景には、やがて「大衆」という言葉が生まれ、それが昭和の初めには流行語にまでなるような、都市の新しい民衆の急増がある。そして、昭和初期の「大衆食堂」の誕生につながる。

それは明治の日露戦争からのちの都市の工業化と農村の疲弊が、第一次世界大戦でさらに進行したことによる。つまりは、民衆レベルの「近代化」は、この頃が一つの転換点だといえるだろう。大正12年の関東大震災は、東京の江戸の名残りを一掃する破壊力があって、生活や風俗も含めあらゆる面で「近代化」が進行したのだ。

とにかく、「大正」というと「デモクラシー」であり「モダニズム」だ。民衆史としては、明治維新より大正に注目したい。ってことで、去年あたりから、「大正」が気になっている。気になって、いろいろ調べているうちに、いろいろおもしろい発見があるのだった。

松崎天民さんという人がいた。食通史や食文化史に関心がある人ならたいがい知っているだろうが、京阪や東京などの「食べある記」シリーズで有名だが、もともとは新聞記者で、時事や世相について、いろいろ書き残している。

雑誌『新日本』大正4年11月号に「大正世相私観」を寄稿していて、これがおもしろい。大正になってからの新しい動きと、展望についてふれている。「カチューシャの唄」「寄席芸衰退の現象」「活動写真と連鎖劇」「新傾向と新流行」「大正芸妓が生まれた」「出版界の暗遷黙移」「野次馬政治の傾向」「科学方面の新消息」といったぐあいだ。

どれも現代に通じることがあっておもしろいのだが、「カチューシャの唄」で、このようなことを書いている。

「政治家は大正第一次の政変を以て、「大正史」の巻頭を飾るであろう。思想家はオイケンやベルグソンの輸入を以て、「大正史」の第一ページを彩るであろう。法曹界は海軍収賄事件を以て、「大正史」の劈頭に置くであろう。その他、桜島の噴煙と云ひ、秋田の震災と云ひ、桂公の薨去と云ひ、大正に入ってから僅に四年、過ぎ行く月日は短くても、此の四年間には種々の問題や出来事が、私達の日常生活にまでも、非常な勢力で湖の様に漲り寄せて来た」

いま「大正政変」を語る人は少ない。海軍収賄事件、桜島噴火、秋田の震災、いまでも同じようなことが続々と起きているが、対応に改善が見られないのは、やっぱり日本人は忘れるなといいながら忘れやすいのか。

知見の積み重ねは、どこへやら、いつもゼロからのスタート。まあ、だいたい、知見なんか大事にしてないねえ。たかだか自分の好き嫌いは大事にするけど。

それで、「思想家はオイケンやベルグソンの輸入を以て、「大正史」の第一ページを彩るであろう」におどろいた。そうか、ベルクソンは、そうだったのか。この知見、忘れるわけにはいくめえ。

『美食の文化史』(ジャン=フランソワ・ルヴェル著、福永淑子・鈴木晶訳、筑摩書房1989年)には、ベルクソンの著書から巧みな引用がある。

著者は「メニューはどれも修辞学の演習」と述べたりしているのだが、メニューや料理書や文献などに見られる美味の感覚と言葉の機能などに関して述べているところに、それはある。

ベルクソンは、代表的な著作『時間と自由』第二章(1888年)に、「言語が感覚に及ぼす影響は、人々が一般に考えるよりもずっと深い。言語は我々に感覚の不変性を信じさせるのみならず、時折、経験済みの感覚の特性を誤らせもするだろう。かくして、私が美味だと評判の料理を食するとき、人々が表明する称賛に満ちたその名称が私の感覚と意識の間に入りこんでしまいその料理が好きだと思いそうになる。ちょっと注意すれば、その反対であることがわかるであろうに」と書いているのだそうだ。

いやあ、好き嫌い大事な人たちは気をつけよう、ね。

そして、著者は、この引用のあと、こう書いている。

「ベルクソンは、「美味なりと評判の料理」がありふれた味、あるいはいかなる風味もないことさえあるケースをとり上げている。そういうとき、人は仕方なく、その「繊細さ」、「軽さ」を称賛するだろう」

あははは、「繊細」や「軽さ」をほめ言葉と思い込んでいると、とんだことになりそうだ。

で、ここで著者は、「華麗な料理のことばの扉の後にある名もない大衆の料理」を見つけることの難しさや、「普通の料理、「草の根」の料理芸術」にふれながら、こう結ぶ。

「何世紀にもわたって綴られるガストロノミーの連続ドラマの粗筋は、料理上手なおかみさんと、考えるプロの料理人の間の絶えざる闘いだ。この痴話げんかは、よくできた冒険小説と同じく、さんざん仲違いしたあとはめでたく結婚して幕、というわけだ」

この本の邦訳タイトルは『美食の文化史』だけど、おれは「美味の文化史」のほうがよいような気がしている。

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2018/07/13

「芥川賞候補作盗作疑惑騒動」ってやつ。

こういうことに、あまり関心はないのだが、ちょっと気になったこと。

先月の18日に、文藝春秋社が主催する『第159回芥川龍之介賞』の候補作として、北条裕子の小説『美しい顔』を選出してから、どうやら、騒ぎになったらしい。

この作品に、「東日本大震災から半年後の2011年11月に出版されたノンフィクション作家・石井光太氏の『遺体 震災、津波の果てに』に似た部分が複数ある」というのだ。

それで、ほかの作品との類似もあるとかないとかの話も湧きだし、「専門家」な人たちがアーダコーダ言って、ま、出版界というのか文学界というのか、そのあたりでにぎやかなことになっている。

おれは、文芸趣味はないし、出版界とはビジネスで付き合いがあるが、それ以上のものはない。この問題で誰かと話し合うようなこともなかった。問題をちゃんと追いかけているわけじゃない。そういう低いレベルでザッと眺めていると、それなりにおもしろいこともある。

ひとつは、東京スポーツのサイトに、7月11日の掲載で、「【芥川賞候補作盗作疑惑騒動】北条裕子さん謝罪も…専門家は「新人賞取り消しだ」 」とあったことだ。
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/1059466/

見出しから煽っていておもしろいが、いまやスポーツ誌の扱う分野は、芥川賞のようなハイカルチャーにまで及んでいるのかとおもった。

いつごろからか、1990年代になって顕著になってきたような気がするのだが、スポーツ紙と一般紙の境が、とくにスポーツ紙側からの越境で、混ざり合うようになってきた。

スポーツ紙独特の、スキャンダルな視点や野次馬的な切り口は、気取った対象を丸裸にするような勢いがあって、なかなかおもしろい。

そして、今回の問題そのもののおもしろさは、そういうスポーツ紙のネタとしても耐えられるおもしろさがあるということだろう。

まさに「騒動」であって、レベルの高い議論にならない、出版界や文芸界の土壌というものが、誰かがもっともらしいことをいうたびに、あるいは関係する出版社が何かをするたびに、あきらかになっていく。

それぞれ、この問題をネタに出版や文芸あたりの業界内で、いいポジションをとるのに一生懸命という感じが、よく見えてきた。

「小説とは何かを巡る議論へと進展か」なーんて話もあるけど、けっきょくそのレベルの範囲のことなんだな。ようするに日頃から、「オリジナルとは」「クリエィティブとは」とか「真実とは」といったことに対しては、関心が低いのだ。

これは、いわゆる「福島」と「放射能」をめぐる「騒動」にも共通していて、お互いに議論を通して現在のレベルより高いレベルに到達しよう(つまり成熟していこう)という、「意欲」というのかな、たぶん「思想」が、ない。

ただただ業界内的な自分の立場の「正しさ」に拘泥する。その「正しさ」を強化するチャンスでしかない。

ま、おれの印象としては、例外もあるが、大勢は、そんな感じなのだ。東京スポーツが「芥川賞候補作盗作疑惑騒動」とやったのは、わりとトゥルースかもよ、と、ポスト・トゥルースの時代をかみしめる。

そして、やっぱり、ノンフィクションにせよフィクションにせよ、無名の民というのは、普通に生きているうちは「個」として見てもらえず、災害などにあってひどい目にあって初めて、文芸界隈から恰好のネタとして関心を持ってもらえる存在にすぎないのだな、ということを、またまたかみしめるのだった。

弱い立場の「当事者」は、メディアで発言したり本を出版したりできる「特権」を持った人たちの「人質」にとられながら、いいように利用される存在なのだ。

おれに見えてきたのは、そういう景色だった。

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«ボロボロ崩れる規範、ピラミッド。虚と実のあいだ(日常)をゆく料理本。