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2017/10/17

ストーリー(物語)の消費。

いまのように情報がスピーディーに流れていく中では、そのスピードにのった言説や言葉が脚光をあびやすい。それらはたいがい、「鋭い」とか「エッジがきいた」と評価される傾向にある。スピードにのって鋭くエッジをきかせた言葉をはき、すぐ別の話題に移る。

野暮は、そういう食い散らかされた情報のあとをノンビリ眺めていく。そこに野暮の自尊心がある。

なんてことはどーでもよいのだが、一年半ほど前になるか、「ku:nel(クウネル)」のリニューアルのときは、ツイッターでも大騒ぎだった。

リニューアル後のアマゾンのレヴュー欄も、リニューアルされた「クウネル」に対し、なかなか鋭いエッジのきいた文化の香り高い批判というのか批評というのか、そういうものが目立った。

おれのような野暮にとっては、高尚すぎてついていけない話も多く、だいたい、あのあたりの人たちは、普通の労働者庶民とはちがうのだな、という感想がせいぜいだった。

とはいえ、旧クウネルは、労働者庶民の暮らしも視野に入っていたとおもう。しかし、これは野暮の感想にすぎないのだが、「クウネル」のリニューアルを嘆き悲しみ、リニューアル後を酷評した人たちは、労働者庶民の暮らしより、もっと「高度」な文化的なナニカを大切にしたかったのではないかとおもえた。ようするに、リニューアルも、それを嘆き悲しんで騒いだ人たちも、労働者庶民の暮らしなど関係ない、鋭いエッジのきいた見識と意識の持ち主だったのだ。野暮などが口をはさめる余地はなかった。

いまごろになって、この話を持ち出すのは、ずっと「ストーリー(物語)の消費」が気になっていたからだ。「クウネル」のリニューアル騒動のときには、このことについてふれている人は、あるいはいたかもしれないが、いたとしてもごく少数で、おれにはほとんどいなかったようにみえた。

「クウネル」は、表紙に「ストーリーのあるモノと暮らし」という惹句を掲げていた。

これはとても新鮮な印象だったけど、「ストーリーの消費」が、マーケティング業界あたりで話題になりはじめたのは、1990年ごろからだった。

モノの消費からストーリーの消費がいわれ、それが高度消費社会=成熟社会の姿であると、マーケティングリーダーたちが唱えはじめたのだ。

それはもっと生々しい言い方では、「アート」や「文化」もカネになる、という風でもあった。

当時の、セゾングループなどが、その先進だった。

博報堂トレンド研究会著の『コンセプトノート1991』(PHP、1991年)には、「アートの消費、ストーリーの消費」という項がある。

そこでは「「文化」が「モノ」に変換されている「アートの消費」と、「モノ」が「文化」に変換されている「ストーリーの消費」」についてまとめられている。

「一般の商品が「文化」の衣裳をまとって現れてきているのが、「ストーリー」の消費である」

「「文化」を取り込んだ、それなりのストーリーやシナリオを持ち、しかもそれをうまく演出している商品がヒットしている。人々は商品だけでなく、その文化ストーリーを消費し、共感しているのだ」

というわけで、当時より近年ますます、「いい話」「いい物語」を求めて、この手の「ストーリー」が本や雑誌などさまざまなメディアにハンランしている。

これらは、商業主義のマーケティングの結果であるのだが、アート的文化的に優れていると、なぜか商業主義ともマーケティングとも無縁の「作品」とみなされ「商品」とみなされない。商品として取り引きされているにもかかわらず。

なんだか認識の妙な歪みを感じるのだが、「クウネル」のリニューアル騒動のときには、その歪みが噴出したように見えた。

まったく関係ないことだが、ツイッターをチラッとのぞいたら、「男も女も「どんな仕事をしているか」でしか自尊心を持てない社会で子どもが減るのは当然ラジよね」というツイートがあった。なかなか鋭い。

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2017/10/16

牛肉の位(くらい)。

ヨーシ、今日はフンパツして牛肉のしゃぶしゃぶをやろうと思って、おれが毎日のように利用するスーパーへ行っても、しゃぶしゃぶ用の牛肉は売ってない。豚肉は、国産もアメリカ産もタップリある。

そのスーパーはうちから、駅へ行くのと逆方向にある。駅から歩くと20分近くかかるだろう。駅の近くには、二つのスーパーがあって、ここには、しゃぶしゃぶ用の牛肉もある。

スーパーは産業道路と生活道路が交差するあたりにあって、近くに中規模の団地が一つと小規模の団地が2、3あり、周囲は近年たくさんあった空き地がなくなるほど新しい住宅が建っている。新しい住宅は、30坪もあれば大きいほうで、たいがい子持ちの家庭だ。

関西はともかく、関東では牛肉の位が圧倒的に高い。関東というより東日本になるだろうか、よく調べたことがないので正確にはわからないが、とにかく牛肉が食べられたら「中ぐらいの生活」だ。という感覚や意識は、わりと広くあったのではないか。牛肉は中から上の生活の象徴でもあった。

もちろん、その牛肉は、牛丼の牛肉は含まれない。もっとも近頃は安かった牛すじが人気で高くなった。

そのスーパーには、いつもアメリカ産牛カルビが大量に陳列されている。これが牛肉のなかでも安い部類になるだろう。それより少し高めで、アメリカ産ステーキ牛があるが、薄切りより少し厚いていどで、しょうが焼き用豚肉と同じぐらいの厚さだ。

その上の牛肉はグンと高くなる。ほんのわずかしか置いてないが、買ったことがない。

これは、2017/10/11「分断と財政と信頼。「ギリギリ中間層」と善意。」に書いた、「自分はギリギリ中間層で踏みとどまっていると信じたい」と関係するのではないかと考えた。

おれは、なんとか、たまに、牛肉を食べることで、「自分はギリギリ中間層で踏みとどまっていると信じたい」のかもしれない。だいたい、おれにとっては豚肉の方がうまいのだから。

「中間層」なんて興味はないが、肉売場の牛肉と豚肉の格差は、目に入る。「ギリギリ中間層」意識は、アメリカ産牛肉のおかげで保たれているということになりそうだ。

たとえそうだとしても、お客はみな、真剣に、楽しそうに、買い物をしている。

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2017/10/15

情熱が足りない。のか。

世間が選挙で騒いでいるおかげでか、神戸製鋼の検査データ改ざん問題の泥沼状態は、あまり注目されていないようだが、とんでもない泥沼だ。

コレ、日本の大手メーカーがやっていることだなんて信じられないおもいで、すっかり忘れていた東芝粉飾問題を思い出した。

先日このブログで「ポスト・トゥルース」でふれた、「事実を軽視する社会」の実態なのだな。

東芝問題、今年の春でも、「社員19万人の巨大企業はなぜこんなことになったのか」と話題になっていたのに。もう忘れていた、こんどは、神戸製鋼だ。こういう大手名門が次々とやらかしていることが、改ざんなのだ。

最近は、経済指標になる政府データの一部にも改ざんの疑いがあると指摘するニュースもある。

「事実を軽視する社会」は、少しずつやってきて、少しずつになれていくうちに、少しずつが少しずつのさばり、大きく常軌を逸する。それでも、「事実を軽視する社会」では、そんなに大きく常軌を逸しているとはおもわれない、そしてさらに…ということでコンニチになっている。

思い出せば、原発がらみのデータ改ざんもあった。国会議員の政務調査費やら、そうそう、カラ領収書で帳簿をデッチあげたりもあった。

こういうことには「寛容」で、たいしたことではない、みんなやっている、ぐらいの気持もあったのではないか。

身の回りの小さなことから事実を軽視する。そのゆきついたところが、東芝問題、神戸製鋼問題、これは発覚露出したことだけにすぎないのだろうが。

ツイッターに、こんなツイートがあった。

「東芝、神戸製鋼とかいう企業がこれを実践した結果…」というコメントがついて、どこかの社内のポスターの写真が一枚。

できない病にかかってない?
「○○だからできないではなくて」

ヒト 人がいないからできない
モノ 設備や商品がないからできない
カネ 予算がないからできない
ジカン 時間がないからできない
        ↓
「どうすればできるのか?」知恵を出すのがあなたの仕事!

これを見て、バブル崩壊のころからの「ポジティブシンキング」の流行を思い出した。

批判や不平不満は、すべて「ネガティブ」との烙印を押され、事実関係の検討もせずに、「ポジティブにやろう」とワッショイワッショイ。そのうちに、「おかしい」と思ったことも口に出しにくくなる。つらくても泣き言もいえない。

そうそう、東芝や神戸製鋼だけではない、電通やNHKの社員の過労死問題、こういうことが、大きな会社でおきている。大きな会社だから話題になるが、それだって、忘れられるのを待つように、ムニャムニャに流される。

きのうパラパラ見ていた日本有数の企業が発行する冊子に、高名な作家が、こんなことを書いていた。「情熱をもって事に当たれば、人を動かし、現実を動かすことができる」「どのような状況でもこちらに情熱があることを示せば人を動かせる」

こういうことをふりまくメディアやモノカキが少なくない。まったくもって無責任だ。こういう言葉に苦しめられている人たちを想像する力もないのだろう。

「情熱」は、たとえば「根性」「勇気」「愛情」「誠意」など、いろいろ置き換え可能だし、変わりうる。このような語りの形式と言葉を用いるようになったら、「事実を軽視する社会」の体制の加担者といえる。一方に、こんな話をよろこぶ人たちも少なくない。そこに「いい仕事」が成り立つ面もあるようだ。

なんでも「自己責任」にされる社会は「事実を軽視する社会」であり、「精神」や「気持」や「姿勢」などで片づけようとする。そういうことになれてしまいたくないね。事実を大切にする社会へ、情熱を燃やそう。

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«必要とされてないこと、必要なこと。