新刊。お知らせ。

古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

◆HP「ザ大衆食」はこちら…クリック地獄
◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄
◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄
004005◆『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』ちくま新書から発売中。よろしく~。もくじなどはこちら…クリック地獄
◆『大衆食堂パラダイス!』ちくま文庫も、よろしく~。…クリック地獄
Dscn0382a_2

◆好評『SYNODOS-シノドス-』――『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている 五十嵐泰正×遠藤哲夫は、こちらでご覧いただける。…クリック地獄

通常のエントリーは、この下↓からになります。

|

2016/05/26

東京新聞「大衆食堂ランチ」43回目、北浦和 キムラヤ。

Photo

先週の20日は、第3金曜日で、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だった。すでに東京新聞Webサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2016052002000185.html

今回は、おれがここ東大宮に越してくる前に約10年間住んでいた、ほぼ地元の京浜線北浦和の駅近くにある「キムラヤ」だ。食べたのは、生姜焼肉定食。

箸袋には「喫茶・洋食・中華そば」とある。このスタイルは少なくなったが、大衆食つまり近代日本食のスタンダードを考えるとき、重要な位置を占めるのではないかと思っている。ということを、あらためて感じた。

本文には、「かつてのハイカラ時代を感じさせる「キムラヤ」のロゴに、もしやと思ったら、初代はパンのキムラヤで修業したのち、パンと喫茶などの店を営み、昭和20年代に北浦和に落ち着いた。いまは3代目だが、現在の店は昭和30年代から。看板のロゴの趣が、店の空気でもある」と書いたが、「ハイカラ」とは「昭和モダン」だの「大正モダン」だのといわれる、いわゆるモダニズムの影響が、太平洋戦争などで中断しながらも、戦後に続いてきた大衆文化を指している。

この店の看板のロゴや店舗のデザイン、そしてメニューに、その影響を強く感じた。

初代は銀座のパンのキムラヤで修業のち、都内にパンと喫茶の店を開業した。まさにモダニズムの時代だ。そして、昭和大恐慌の荒波の中で破たん、再建するが戦災で、またも店を失い、戦後北浦和駅そばのマーケットの一角で開業、昭和30年代に現在の場所へ移転。モダニズムの影響下の大衆文化を地で歩いてきたといえる。

モダニズムの影響は、美術や建築については多く語られてきたが、食文化の分野でのことは、「和洋折衷」という言葉で、ときたま語られるていどで、文化や産業や生活の構造として語られることはあまりない。その割には、パンや洋食や中華についてのオシャベリは、にぎやかなのだが。

拙著『大衆めし 激動の戦後史』の、とくに「第6章、生活料理と「野菜炒め」考」では、「モダニズム」や「モダン」という言葉は使っていないが、この時代から大衆的に普及し始め、戦後に一般化した、ガスとフライパンと野菜炒めの関係についてふれている。野菜炒めは、モダニズムの時代を経た近代日本食を象徴する料理だと思う。

この「キムラヤ」のように、洋食と中華と喫茶のメニューはあるが「和食」はない。という食堂がある。「レストラン」と呼ばれることも多かった。

とくに洋食と中華が一緒というのは、日本独特ではないかと思うが、これには「ブイヨン」が関係しているのではないかと思う。洋食にも中華にも、おなじブイヨンベース(スープストック)を使う料理法は、西洋でもない中国でもない日本だから可能だったのだろう。

そのあたりから日本の「モダン」や「ポップカルチャー」を考えてみるのは、面白いのではないかと思っている。

001001

002002

007001

009

|

2016/05/23

アヤシイ予兆やテンプクごろごろ。

都内へ行くのは億劫だし疲れるからと、打ち合わせに大宮まで来てもらいながら、やはりたまには東京へ行ってみようかという気分になったら、先週の18日(水)は中野、21日(土)は小岩の野暮酒場、昨日22日は雑司ヶ谷と、一週間のうちに3日も都内へ行ってしまった。

ま、行けば、けっこう面白いことがあるのだが、ようするに飲み過ぎで疲れるのだな。

18日は、「マージャー」を渡すため、中野駅で17時に待ち合わせだった。早く飲みはじめて、少しでも早く帰れるようにと、この時間にしたのだが。

中野は、行くたびに、激しく変わっている。やはり、キリン本社や大学が移転してきた影響か、駅周辺はドンドン集積化がすすむ一方、駅から少し離れて薄暗い街だった昭和通りなどは、小さな古い建物をリューアルしての飲食店の出店が続き、明るくにぎやかに変身中。まずは、その昭和通りの新しい店に入った。

「マージャー」を渡し、あとのことや、葬式の様子や、Nの思い出などあれこれ。とはいえ、生きているものにとっては、現実がある。ちょうど「インバウンド」関係の新しい情報が入ったこともあって、ひさしぶりに飲み~ティングという感じになった。

東京オリンピックまでは、部分的なバブルが一本調子で行くかと思ったが、どうもそうはいかないようなアヤシイ予兆。まあ、日本はけっこうガタがきているのだから当然だろうし、あいかわらず「国際化」についていけてない、その跳ね返りでもあるか。あれやこれや検討を加えたり、確認したり。

前のバブルのときも、「時代がおれに追いついてきた」なーんて、鼻を上に向け肩で風を切っていた連中がいたのだけど、いままた、そういう連中が闊歩しているから、オカシイ。「時代がおれに追いついてきた」なんていう言い方そのものからして、状況認識も自己認識もできてない、お笑い草な表現だけど、調子にのっている連中は、本気でそう思っちゃうのだからねえ。いいオトナが。

ま、そういうやつのまわりに近づいたり、そういう連中を近づけないようにするのも、アンガイ大事になっているわけだ。すり寄りもせず、すり寄られもせず。

しかし、どうして「おれスゴイ」病や、「日本スゴイ」病が、こうもハヤルのか。

で、けっきょく、もう一軒行って、いちおう22時すぎぐらいには、中野駅を出たような気がするけど、赤羽に着いたら、京浜東北線蕨駅での人身事故で宇都宮線がストップ、約1時間遅れの泥酔帰宅になったのだった。

21日(土)は小岩の野暮酒場は、ひさしぶりだった。最近は、店主が忙しいようで、月イチぐらいの営業になっているし、「川の東京学」のほうは、推進役の2人とも身内に不幸があったり病気があったりで、4月の予定は先延ばしになっている。

でもまあ、自分でも行きながらなんだけど、よくまあこの不便な場所に来るなあと思うぐらい、にぎやかだった。ただ飲んだだけ。

昨日22日は、わめぞ一味の鬼子母神通りみちくさ市だった。みちくさ市連続講座「『作品と商品』のあいだ」のゲストが、高橋靖子さんだったので、ぜひ聞きたかったが、東京へ出かけるついでに13時から上野で打ち合わせを入れた。でも、16時ぐらいまでにトークの会場に着けば、後半1時間ぐらいは聴けるだろうと思って、朝、その旨連絡したら、なんと今回のトークは13時半から15時半まで。残念。もう高橋靖子さんの話を聞くチャンスはないかもねえ。

上野では、また「時代がおれに追いついてきた」をネタに大笑い、いい企画になった感じだ。

みちくさ市古本フリマには、「川の東京学」散歩に参加の女性が、前回から出店していて、今回もまた。柏の地元ワカゾー野菜市も出店していて、五十嵐さんともおしゃべり。名前を何度聞いても忘れてしまう、ポルトガル語の野菜をいただいた。

で、まいどのごとく、打ち上げが始まる18時まで、清龍で飲んで時間をつぶし、東池袋のいつもの居酒屋へ。ようするに、飲んだ。わめぞの打ち上げ飲みは楽しい。雑多が、いいのだな。だから、よく飲むし、酔いががまわる。

酔ったあたまで、マジメに「テンプク」を語り合っていたな。「テンプクトリオ」ってのがあったけど、テンプクは、なかなかおもしろいが難しい。とりあえず、帰り、店の外へ出てから、テンプクダンスをやったようだ。ストリートダンサーに転向して、テンプクの展開を図るか。今日、落武者から画像が届くまで、こんなことしていたのも忘れていた。いやはや。

昨日も打ち上げに来ていたけど、ニューアルバム「わたしのライオン」が好評驀進中の北村早樹子さん、大バンド編成で6月11日(土)赤坂グラフィティにて。行きましょうね。

はあ、疲れた。

6lekph8_jpg_large

Dvl2nxbjpg_large_2

|

2016/05/18

ツナ・サンドと「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」。

ツナ・サンドを食べるときは、「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」を思い出すし、「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」を思い出すと、ツナ・サンドが食べたくなる。

「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」は、レイモンド・カーヴァーの短編だが、中公文庫の村上春樹訳の『Carver's Dozen レイモンド・カーヴァー傑作選』で読んだ。2004年6月の6刷のやつだ。そのころ新刊で買って読んだのだ。

そのときから、いまごろの季節になると、この小説を思い出しツナ・サンドを食べたくなるか、ツナ・サンドを食べたくなって、この小説を思い出すようになった。

だけど、この小説には、「ツナのサンドイッチ」についての詳しい描写があるわけではない。

主人公の少年が、仮病をつかって学校を休んだ朝、弟が学校へ行き、両親が仕事へ行き一人になると、まずはマスターベーションを一発決めたのち、釣りへ行くことにする。

彼は、釣りに出かける前に「ツナのサンドイッチを二つ作り」、「一個食べ、ミルクを一杯飲んだ」。そしてバーチ・クリークという川に着いて、釣りを始める前に「サンドイッチの残りのもう一個」を食べた。これだけなのだ。ほかに、ツナ・サンドについては、なんの話もない。

だけど、最初、これを読んだとき、ツナ缶からツナを出して食パンにのせ、はさんで、ガブッと齧りつきたくなった。

それ以来、その逆も含めて、何度もある。とくに、暑くなると。

この小説は、ツナのサンドイッチのことより、夫婦仲がこわれそうな家庭の少年が、性妄想を逞しくし、何度も硬くなるチンポをマスターベーションで収めるところや、大きな夏にじますと格闘する場面のほうが、はるかに多い。

ツナ・サンドといい、精液とにじますで、なんともナマグサイ話のようだが、ナマグサイ臭いはしない。だが、なぜか、ツナ・サンドが似合う。

このように、とくに食物のことを詳しく書いているわけじゃないのに、「うまそう」と思わせるような描写があるわけじゃないのに、食物が魅力的であるのは、なぜだろう。

いわゆる「グルメ」な読み物でなくても、こういうことがあるのは、食物は生活についてまわるものだからだろう。そこを、どう見るか。ツナ・サンドを作って食べながら、考えてみるかね。

おれのツナ・サンドは、食パンを軽くあぶって、ツナをのせてはさむだけだ。ほかに調味料などは使わない、プレーンだね。ごくたまに、タマネギやトマトも切ってはさむ。ビールがあれば、なおよい。

|

«「マージャー」