新刊。お知らせ。

古典的名著、獅子文六『食味歳時記』中公文庫から復刊。解説を書きました。…クリック地獄

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2016/06/21

書く作業と相対化する作業。

昨日は、14時に大宮駅で待ち合わせ、ジョナサンへ行って獅子文六と『食味歳時記』について話し合った。

考えれば考えるほど、獅子文六はおもしろい。戦前の中産階級の生まれ育ち、つまりは「お坊ちゃん」なのに、その片鱗をほとんどひきずってない。それに明治20年代生まれの文士なのに、文章が、ちっともふるくない。

とくに獅子文六について、詳しく調べたわけではないので、なんともいえないが、これはおれにとっての、「獅子文六のフシギ」だ。

『食味歳時記』が、よくある作家さんたちのうまいものエッセイと異なる点の一つは、全体的な視点があることだろう。「視野が広い」という言い方もできるかもしれないが、それでは少しちがうようだ。

そして、比較し相対化していく思考の作業が、よくやられている。自分自身もシッカリ相対化している。これは「謙虚」という言い方ができるかもしれないが、そういうアマイことではない。

全体的な視点がなければ、比較も相対化もうまくできないのだから、これは一つのことだ。まとめてしまえば、「合理的」ということになるか。それでは、人柄が含まれにくい。

とかく、飲食の分野の話は、細分化してみる傾向が顕著で、全体的な視点を欠きやすい。とうぜん、比較も相対化もうまくいかない、なにより著者である自分を相対化できない。「日本スゴイ」も、そのたぐいだし、関連し近頃の「だし」の話などは、ほとんどそれだ。それのミニ版の「私はスゴイ」は、いたるところにある。そういうことが支配的な「時代」なのだろうか。

「よい」となると一点の曇りもなくよい。普通なら、そんなことはありえないのだが。単純であり、単純なものが好まれる。言い方によっては、「幼稚」とか「大人げない」ってことになるか。

名のある作家が書いた、うまいものエッセイでも、そういうのを見かける。人間として、オトナでなくても、文章は上手に書けるようになるのだから、そういうこともある。そこに共通しているのは、全体的な視点の欠如(構造が把握されてないこともある)と、相対化の作業が欠けたり不足していること。

ようするに獅子文六は、大人なのだ。でも、こういう言い方では、かなりダメだ。もっと魅力的な、人柄も気になる。

そういうことを考えたりした。

それで、ジョナサンでイチオウ仕事の話は終わり、16時ごろだったかな、いづみや本店へ移動。なんと、あの広い空間がうなっているほど大勢の客。

さらに、18時ごろ、三悟晶へ移動。

20時すぎ、彼女は新幹線で帰った。おみやげに新潟の枝豆をもらった。そうそう、獅子文六と『食味歳時記』と枝豆の話だったのだ。獅子文六は、よく対象を観察・鑑賞している、五感のすべてを使って。「鋭い」のではない「よく観察・鑑賞している」のだ。だから書けることがある。

東大宮へもどって、早かったので、移転したガルプキッチンへ寄ってみた。前よりライトな内装で、こっちのほうがよいようだ。

泥酔ヨレヨレ帰宅。

そうそう、先日、福島から出張上京の男が帰りの新幹線に乗る前に大宮(やはり、いづみや)で会った。そのとき県産品の県内消費のモンダイの話になったのだが、昨日も、似たような話しをしていたな。東京市場との関係をどうするか。県産品と県内消費と東京市場に横たわる大きな矛盾だ。

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2016/06/19

ひさしぶりに血液検査を受けることになる成り行き。

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17日の金曜日、打ち合わせのため駒込へ行った。駒込は、すっかりご無沙汰している。その間に、どんどん変わっている。巣鴨のときわ食堂も出店したしね。

それにしても、駒込駅北口から古河庭園のほうへ向かって下っていると見えた銭湯「亀の湯」は、この道を以前に何度か通っているのに、いままで気がつかなかった。

かつてはつながっていたであろう商店街のアーケードが、ここだけ「亀の湯」と一緒に残っている。この残り方はなかなか興味深い。

打ち合わせの結果、とにかく血液検査をして、肝臓のアンバイを見ることになった。それによって、書く内容も変わるだろうドキュメンタリーな進行。

毎年、市から健診をせよとの通知がくる。いつも封も切らずにそのへんに投げておくので、ハテ今年のはあるかなと探したら、先一昨年の分から開封しないままで見つかった。

ついでに見つかった、以前の健診のファイルには、いくつかの健診の結果があった。最後に人間ドックを受けたのは1991年と記憶していたのだが、その結果は見つからない。1987年のものがあったが、その翌年に急性肝炎で入院し、そのときもその後も、1991年までは毎年検診を受けているはずだ。

けっきょく、1997年の血液検査の結果が、最新ということだ。「健診」ではなく血液検査のみ。

肝機能関係の数値は、GOTが130、GPTが108、AL-Pが444、γ-GTPが99で、いずれも平均値より高い、赤字マーク。平均値におさまっているのは、LDHの377だけ。

ほかの赤字マークは、「尿素窒素」という肥料みたいな名前の数値が6で平均以下。

CRPというやつが、4+。

結果の高い数値を鉛筆で丸く囲ったりしたのは、たぶん医者が説明してくれたのだろうけど、覚えていない。でも、そう厳しいことをいわれた記憶はない。

そのときは、いろいろ湿疹が出るので医者にかかったのだが、「ダストアレルギー」と診断された。それ以上検査をすれば、アレルギー物質を特定できる可能性もあったが、「可能性」だし、わかるまでどれぐらい検査費用をとられるかわからないし、そのうち湿疹は出なくなったので、それでオシマイ。

以後、医者には、風邪らしきもので一度かかり、8年前にここ東大宮に越してからは、指の爪の下になにかの菌が入り膿んだのをグサッと退治してもらっただけ。ほかは自覚症状もない。あっても鈍感で気づかないのかもしれないが。

その前もそれからも酒は一日も欠かさず飲んでいるから、こんどの検査でどんな結果がでるか、なんだかたのしみになってきた。

たのしみになって、「健康」ってなんだろう「病気」ってなんだろうと、ほかの仕事を放り出してあれこれ本を見ていると、なかなかおもしろい。チョイと古いがTASC発行・アルシーヴ社制作の『談』1995年51号に、柴田二郎さんが「医療は宗教である」を書いていておもしろかった。

そういえば、「健康」は、「ご神体」みたいなものだなとおもった。「幸福」も、そうか。ま、自分がご神体って日本人が、いちばん多い気がする。「生命体」そのものが「神秘」なわけだけど。

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2016/06/15

『栄養と料理』がおもしろい。

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気がついたら、3月号から6月号まで毎号いただいている『栄養と料理』がおもしろい。前にも書いたが、いろいろ制約があるだろうなかで、したたかで自由自在なつくりを感じる。

「栄養」や「健康」なんて、ウサンクサイうえに辛気臭くて説教臭い押しつけがましい、ケッ、という傾向のあるおれだが、楽しくまるめこまれそうだ。

かといって、もちろんエンターテーメントではない。地味な生活のことだ。そこを、たとえば、最新6月号は、特集が「認知症に向き合うヒント」だが、ともすれば、重くどよよ~んとなりがちなテーマを、じつに軽やかに深く掘り下げる。

「認知症を知ることは、人間とは何かを知ること」という、これは広告ページのタイトルなんだけど、この雑誌全体が、「栄養と料理」を知ることは、人間とは何かを知ること、という姿勢でつくられているのを感じる。

「認知症の人の食事のとらえ方」を読んでいると、人間というのは、こういう「動物」かとおもう。人間である自分自身のことをよく知らない。いつまでたっても。

認知症の人が「食べない理由」が8つまとまっているのだが、それは、裏を返せば人間が食べる理由へとつながる。たとえば理由の7つ目は、「空腹なのかどうかわからない」とある。そんなことがあるのか。あるのだ。

ならば、いまの自分はどうして空腹を覚えたのだろう、どうして食べられるようになったのだろう、アタリマエに食べていると考えたことがない。考えてみて、なるほどなあとおもう。

そして、「介護疲れで倒れないための らくらくパワーチャージごはん」には、おれが汁かけめしの仲間と見るどんぶりやワンプレートのレシピが、どかーんと載っている。これは、介護疲れにならずとも、日々のパワーチャージごはんとして、やってみたくなる。

というぐあいなのだが、今回、とくに食文化的にヒジョーに興味を持ったのは、「減塩時代の食文化を考える」ってことで「『漬物』はどこへ行く?」という読み物特集を組んでいることだ。これは、なかなかしたたかな編集だ。

『栄養と料理』は、ここのところ「減塩キャンペーン」のようなことを続けている。「フードライター白央篤司の減塩日記」という連載もある。

そして「減塩キャンペーン」の一方で、「『漬物』はどこへ行く?」という特集を組む、このバランス感覚。しかも、この筆者のバランスが、こころにくい。

松本仲子「本来の「漬物」はすでに消滅しています」。熊倉功夫「突破口を探し続けることが重要」、これは漬物の伝統を守るためにということ。一方、政安静子「残るも消えるも、時代の必然」。小川聖子「漬物のあり方そのものが変容」。

減塩げんえんとウルサイんだよ、とおもっているおれも、ついつい読みふけり、漬物と塩と日本の食文化の関係について考えてしまうのだった。

おっと、じつは、そのことではなく、おもしろい連載のことを書こうとしたのだった。

それは、「レシピの変遷シリーズ●「栄養と料理カード」をたどる」というもの。

このカードをご存知の方が、どれぐらいいるだろうか。かつて人気だったカード式レシピの付録。

「栄養と料理カード」とは「『栄養と料理』創刊2号から付録としてついた小さな1枚のカード。材料の分量や料理の手順、火加減、加熱時間、コツなど納得のいくまで試作が重ねられ、カードという使いやすい形で掲載されました。ふりかえるとレシピの変遷が見えてきます。」

女子栄養大学香川昇三・綾記念展示室学芸員の三保谷智子さんが執筆されているのだが、これがおもしろい。

3月号が「カツレツ」、4月号が「卵焼き」、5月号が「ポテトサラダ」、そして6月号が「チャーハン」。どーです、読んでみたくなるでしょう。

もちろんレシピの歴史は必ずしも実際の台所の料理の実態を反映しているわけではないけど、時代と志向や嗜好などの移り変わりが見える。それに、レシピからは、産業と生活の両方が見えてくる。

今回のチャーハンでいえば、1936(昭和11)年12月号では「1人分でごはん350g」だけど、1971年(昭和46)年1月号では「1人分でごはん250グラム」になっている。これが意味するところは大きく多い、いろいろなことが浮かぶ。現在から未来まで。

と、まあ、なかなか読みごたえがあるのだが、さらに6月号では、おっ、とおどろくことがあった。

連載の「食の仕事人」が42回目なんだけど、「政治をもっと身近に!」「食べることで政治を知ろう」と活動している団体「食べる政治」が登場しているのだ。

食べることは政治と直結しているのは確かだ。そして、たいがいその政治を避けるように、よく「飲食の場では政治の話は禁止ね」というかんじが日本的なのだけど、これは良記事。

「食べる政治」のサイトは、こちら。食べ歩き談議や美食談議にうつつをぬかしているだけじゃなく、「食べることで政治を知ろう」。
http://taberuseiji.com/

おれの『大衆めし 激動の戦後史』も、食べることで政治を知るのに役立つよ。民主主義は食べることから、ってことさ。

当ブログ関連
2016/02/27
『栄養と料理』で栄養と料理を考えてみる。

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