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2020/11/27

『dancyu』と「男の料理」。

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たまーに『dancyu』に書いたこともあってか、毎号送られてくるので恐縮している。

今月6日発行の12月号は「創刊30周年記念大特集「おいしい店」100軒」であり、予告によれば12月発行の1月号も30周年特集だそうだ。

30周年記念特集を組むにあたり、編集部では「30周年記念アンケート」を行い、おれにも回答の依頼があったのだが、辞退させてもらった。体調があまりよくなく、モノグサなうえに考えるのも面倒な気分だったこともある。毎号お送りいただきながら付き合いの悪いことで、こういうことだから、出版社との関係もドンドン切れていく。もともと「業界人」の自覚が低いし。

それはともかく、この特集に、「創刊30年分の座談会」というのがあって、創刊の頃を語っている。座談会のメンバー4人の中に、創刊当時からの編集部員が2人いて、5代目編集長の里見美香さん(現在も編集部員で、おれも一緒に仕事をしたことがある)と6代目編集長の町田成一さんだ。他の2人は現在の編集長の植野広生さん(創刊当時はライターとして執筆)と1997年に発行元のプレジデント社入社の藤岡郷子さん(2度ほどだったかな?一緒に仕事をした)。

「創刊号が発売されたのは1990年の12月6日。当時はバブル真っ盛りで、男性の趣味の雑誌をつくろうというのが、そもそも発端だったと聞きました」と里見さん。

そうそう、幹部ビジネスマン相手の『プレジデント』を発行する出版社が、読者の余暇利用をねらって出したというような話を聞いたことがあると、おれは当時を思い出した。

どこかに書いたと思うが、1977年11月に「男子厨房に入ろう会」というのが発足し、その略称が「だんちゅう会」だった。それとの直接の関係は知らないし、座談会でもその会のことは語られてない。

「だんちゅう会」については、発足当時、食品メーカーのPR誌の編集をしていた知り合いが取材して、割とカタイ会社の管理職が多いというような話を聞いた覚えがある。

「だんちゅう会」の発足のあと翌年か翌々年に、「男子厨房に入ろう」を押し進めるように、『週刊ポスト』の「男の料理」の連載が始まった。巻末カラーグラビア。それが大当たりして続いた。

「だんちゅう会」は、料理店の料理人に料理の「作り方(レシピ含み)」を教わることをしていたし、『週刊ポスト』の「男の料理」も同じようなことをし、かつ作家の手料理なども紹介していた。ようするに単なるお店紹介ではなく、男が趣味の時間を使って作る料理、ということをタテマエにしていたといえる。

『dancyu』も、そういうセンだったと思う。座談会で藤岡さんは「創刊から読み返していたんですが、創刊3~4年はだいたいお店で料理を習って、店紹介がその後にちょぼちょぼと続く感じ」といっている。

『dancyu』には何回か登場し、この特集にも登場するある店を取材したことがあるが、昔は取材の時には「謝礼」をもらった、と、お店の方がいっていた。金額も聞いたけど、悪くない額だった。それが当然といえば当然だろうけど、いつごろからか「立場」が変わってしまった。

70年代後半、高度経済成長後の日本は「レジャー(余暇利用)」がブームになり様々な展開を見せていたが、『週刊ポスト』は、そこへ「男の料理」を持ち込んで広げた。キャッチーな言葉だった。発行部数からしても、別冊や単行本も売れたことからも、その影響は大きかったと思うが、では、どれぐらいの男たちが実際に台所に立ったかというと、こころもとない。ましてや「男の料理」という概念は問題ないかといえば問題大いにありそうだし、実態は別の動きをしていて、それとのギャップが大きいと思う。

ま、出版やメディアの表層と実態はギャップがあるものなので、そこをぬきに議論をすすめるとおかしなことになるのは、「男の料理」も同じ。読んで見てオシャベリして楽しんでオワリ、というのが料理や飲食に関しては珍しくない。

以前に、書評のメルマガで「食の本つまみぐい」を連載していたとき、津村喬の『ひとり暮らし料理の技術』(野草社1980年7月)を紹介した。この本の最初の出版は「男子厨房に入ろう会」の発足と同じ1977年だが、「男の料理」ではなく「ひとり暮らし」としたところに、真実性がある。趣味ではなく生活のことだった。

けっこう話題になり売れたのは、著者は、いわゆる「団塊世代」で、かつ当時の同じ世代の「カウンターカルチャー」系の若者から支持があったことが関係していると思われる。この本の読者は、余裕の趣味のために読んで楽しんでオワリというのとは傾向が違い、生活実践の思想と技術として、活用した可能性が大きい。

「戦後民主主義」の標本のように見られる「団塊世代」、それから「カウンターカルチャー」系にしても、料理や台所に立つということについては、簡単ではなかったはずだ。日々の料理や台所は「女」が担うものという「習慣」は根強く、戦前そのままの思想が70年代でも主流だった。

だからこそ「男の料理」がキャッチーであり、話題になったともいえる。

「男」が自然に台所に立ち料理をするようになるのは、学校の家庭科教育が「男」も「女」も「人として」同じように扱うようになってからといえるのではないか。

そこへ学校教育が向かったのは、いつからだろう?調べてみたことはないが、「男女共同社会」が政策として推進される2000年頃からか。いまの30代前半以下ぐらいの「男」と話すと、変化を実感する。

『dancyu』30周年、出版も大変な時代だった。おれの考えとはいろいろ異なる雑誌だけど、よく続いたし、もっと続いてもらいたい。

この30年の間に、生活と料理をめぐる環境も言説も、かなり変わった。まだ変わっている最中だ。どこへ行くのだろう。

「男」でも「女」でもなく「人として生きる」ところに料理は存在してきた。いつ「男の料理」なんていう言葉が死語になるのだろうか。

ザ大衆食のサイト
書評のメルマガ08年12月18日発行 vol.389
■食の本つまみぐい
(30)自分で食べるものは自分でつくる食の「自主管理」を主張
 津村喬『ひとり暮らし料理の技術』野草社、1980年7月
http://entetsu.c.ooco.jp/siryo/syohyou_mailmaga389.htm

当ブログ
2017/06/30
『dancyu』をふりかえる。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2017/06/dancyu-e433.html

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2020/11/26

またもや、いまさらながら残念、坪内祐三。

2020/10/02
いまさらながら残念、坪内祐三。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-67393b.html

を書いてから、坪内祐三のことが気になっていた。

図書館の坪内祐三の棚には何冊かの本がある。パラパラ見ていたら、『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』(幻戯書房)に、おれの脳ミソが反応したので借りてきた。

第1章 戦後論壇の巨人たち
第2章 文藝春秋をつくった人びと
第3章 滝田樗陰のいた時代
第4章 ラディカル・マイノリティの系譜
第5章 「戦後」の終わり

脳ミソに引っかかったのは「戦後論壇の巨人たち」だった。

もくじに並んだ名前。

福田恆存、田中美知太郎、小林秀雄、林達夫、大宅壮一、三島由紀夫、小泉信三、花田清輝、唐木順三、竹山道雄、中野好夫、橋川文三、河上徹太郎、中野重治、鮎川信夫、竹内好、桑原武夫、宮崎市定、葦津珍彦、清水幾太郎、羽仁五郎、臼井吉見、山本七平、丸山眞男

懐かしい人たち。おれが高校生の頃(1959年以後)から1970年代に、『中央公論』『文藝春秋』『世界』などなどの雑誌で読むことが多かった人たち。何人かは本も読んだし、いまも持っている本もある。

こういった人たちについて書くだけでも、なかなかすごいじゃないか、書ける人がいたのかと思った。

「巨人」かどうか、おれは判断できないけど、その存在が大きかったのは確かだし、「言論」の世界は面白かった。

いまどきの「言論」はツマラナイね。そう思うようになったのは、1980年代になってからだ。

浅田彰がもてはやされ、とくに『朝日ジャーナル』が「若者たちの神々」の連載を始めた頃から、「言論」や「言論」を扱う雑誌などはツマラナイものになった。「言論」な雑誌も読まなくなったし、新聞にも興味が失せていった。

おれが「若者たち」に含まれない年齢になっていたこともあるかもしれない。

1983年、おれは40歳になっていた。1958年生まれの坪内祐三は25歳で、浅田彰は1957年生まれ。

「若者たちの神々」は、ネットで調べたら、1984年から1985年にかけての連載だったようだ。1回目の登場は浅田彰、2回目は糸井重里、3回目は藤原新也…。

「神々」と「巨人たち」を比べるのは乱暴とは思うが、80年代を通して「言論」の世界は変貌した。

『右であれ左であれ、…』の各章の始めには、「この章について」という著者による「解説」のような文がある。

「戦後論壇の巨人たち」は、戦後五十年を迎えた1995(平成7)年の翌年の7月号から始まった『諸君!』の連載をまとめた。

「連載期間は二年。つまり二十四回だ。/私はまず二十四人をリストアップして行った。/生きている人ははずそう。亡くなった人だけにしよう(だから連載開始時はまだ丸山眞男はリストアップされていなかった」

「何を以て「論壇人」と見なすかは意見の分かれる所だが、例えば私は中野重治、中野好夫といった文学者のダブル中野も「論壇人」であると考える(ただし、この連載中、同誌編集部の某男子編集者――のちに編集長となる――から酒場で何故山本健吉が入らないんですかとしつこく問い掛けられた時は心の中でこのアホと思った)」

司馬遼太郎についてこういっている。

「当時の私は司馬遼太郎のことをあまり高く評価していなかったのだ。今もその評価にはあまり変わりはないが、彼をはずしてしまったのはやはりバランスに欠けたかと思っている」

著者の選択の基準がなんとなく見えてくる。

本書は、2018年1月の発行だ。

「連載終了から十九年数ヵ月。つまり約二十年。その間に亡くなっていった人も数多い」と、この人たちをあげている。

藤原弘達、江藤淳、山本夏彦、林健太郎、小田実、加藤周一、梅棹忠夫、谷沢栄一、吉本隆明、山口昌男、大西巨人、鶴見俊輔、阿川弘之、渡辺昇一。

そして最後にこう書く。

 この国には知識人がもう殆ど残っていない。
 しかも、まったく補填されていない。
 その状況を考えると私は恐ろしくなってしまう。
 かつての左翼と右翼という対立に変わって今、サヨとウヨという言葉がある。サヨであれウヨであれ、そんなことはもはやどうでもよい。
 事態はもっと深刻なことになっているのだ。
 三十年後、いや二十年後、この国は存在しているのだろうか。

ここから、著者の考える「国」や「知識人」を読むこともできるが、なんと悲観的で絶望的な。

まあ、しかし、「活字文化」の時代から主流を担ってきた新聞社や大手中堅の出版社のメディアのアリサマを見れば、うなずけないことはない。

「戦後論壇の巨人たち」は、簡単な仕事ではない。これからこの種の仕事をやれる人は出てくるのだろうか。

「戦後」なるものや「55年体制」といわれるものが終わろうとしている時代に、坪内祐三が生きていて、この仕事を残してくれて、うれしい。おれはよろこんで読んだ。

おれのようなものがよろこんだところでどうもならんが。

坪内祐三には、もっと生きて、この仕事を続けてほしかった。ってことで、またもや残念がっている。

おれのようなものが残念がったところでどうにもならんが。

第4章の「鶴見俊輔氏に聞く――アメリカ左翼知識人の孤独でフェアな表象」は、著者も書いている通り、鶴見俊輔と著者の話が微妙にかみあっていなくて面白く、声を出して笑った。

「あとがき」で、ツイッターをしてないが、眺めることはあって、「そしてとても悲しい気持ちになる」という。

「何故なら、ツイッターの言葉には文脈がないからです。しかも、その文脈のない言葉が、次々とリツイート(拡散)されて行く。」と。

そして、こう述べる。

「本や雑誌に載せる文章には文脈が必要です。いや、文脈こそが命だと言っても過言ではないでしょう。/そういう媒体(雑誌)が次々と消えて行く。これは言葉の危機です。」

ツイッターについては、その通りだと思うが、かといって雑誌の文章は文脈を大事にしているかというと必ずしもそうではないと、おれは思う。

自らの思想を突きつめてこそ、文脈ができ、文脈で考え、文脈で言葉を選び、文章ができあがる。

だけど、思想を問うことすらしないで、言葉を使うことが多くなった。「思想」を嫌ったり避けたりする人も少ない。

それはネットの世界のように、スピードがものをいう言葉の消費が多くなったこともあるだろう。「知識」や「言論」はファッション化し、情報価値の尺度で測られ、「新しい」ことが価値になった。

より「わかりやすく」、より「心地よく」、消費される言葉。

「文章の質」などが話題になっても、文芸的なテクニックのレベルであって、思想が問い詰められることはない。最初から思想が希薄なのだ。

その思想の希薄さは、雑誌の文章でもよく目にする。「飲食」の分野などは、そういうもので満ち満ちている。

と、おれは思っている。

坪内祐三は、この本でも、何度か自分は「保守」だといっている。「保守」は「革新」と対や天秤で語られるが、坪内祐三の「保守」は、それより、「ブルジョワ自由主義」の良質な部分を継いでいるように感じる。自由、公平、人として「まっとう」。

そういう「思想」がメディアからも失われていく時代。「私はギリギリで間に合いました。つまり雑誌で自分の考えを述べることが可能でした」と「あとがき」に書き残して、坪内祐三は死んでしまった。

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2020/11/19

都市的風景と農的風景の断絶、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。

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一昨日、小春日和。

うちの近くを流れる見沼代用水西縁を遡ってみた。

すでに途中まで歩いたことがあるのだが、こんどはもっと先まで歩き、かといって40キロ以上歩かなくてはならない利根川取水口までは無理だから、はるか手前、ここ東大宮の一つ先の蓮田駅へ出た。

以前このブログに書いた「都鄙臨界地帯」に立って見ると、都市的風景と農的風景のギャップの激しさは「断絶」ともいえそうで、あらためておどろくばかりだった。それは都市的環境と農的環境のギャップそのままではないだろうけど、それだけに、ここからの視点が何かを示唆しているようで、気になった。

2009/01/09
東大宮-蓮田、東北本線「都鄙臨界地帯」と麦味噌。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2009/01/post-7848.html

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上の写真。16号東大宮バイパスをこえると、都心から続いていた家並み街並みはトツゼン姿を消し、田畑があらわれる。

写真手前が見沼代用水西縁、田畑に水を供給する水門があって、その向こうに耕作地が広がる。右上に16号東大宮バイパスが城郭のように都市的環境を取り囲んでいるのが見える。

このギャップは「断絶」といってよいほど大きなものになっているようだ。都市的風景で「生きる」ものと農的風景で「生きる」もの。その隔たりを象徴しているように思われた。

農的風景に暮らしていても、「生きる」については、都市的風景の方を向いている人たちも少なくないだろう。それは、農的環境を抜けて蓮田駅へ出る過程でも、目にすることができた。

利根川取水口から下ってきた見沼代用水が、「西縁(にしべり)」と「東縁(ひがしべり)」に分かれるところがあった。ここで分かれた用水の西縁は、うちの近くで見沼田んぼに入り西側を流れ、東縁は迂回して見沼田んぼの東側を流れる。(下の写真、右真っすぐが西縁、左へカーブが東縁)

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この分岐は、見沼代用水が綾瀬川と交差する右岸にある。対岸の左岸には用水の水門が見える。用水は、どうやって綾瀬川をこえているかというと、川の下をくぐる「伏越」の立体交差になっているのだ。

分岐のところには赤レンガの構造物の跡があって、「上尾市登録文化財記念物(史跡) 瓦葺掛樋跡」の掲示があった。

見沼代用水は1728(享保13)年に開削されたのだが、当初から1961(昭和36)年までは、綾瀬川の上に木造の樋を架け水を通していたのだ。

ちなみに、ここで分岐した西縁は、見沼田んぼの西側を通るために見沼田んぼの真ん中を流れる芝川をこえなくてはならない。うちの近くにその立体交差があるのだが、ここでは芝川が西縁の下をくぐる構造になっている。

そうして、太古の昔から沼地だった見沼は干拓され耕作が可能になった。

その土と水と人の歴史が、これらの景色にはあるし、それは「生きる」や「食べる」の歴史でもあるはずだが、都市的風景の視点からは、すっかり遠いものになってしまった。

そもそも都市的風景のなかでは、土にふれる機会さえ、わずかになった。

認識は環境に左右されることが少なくない。これだけのギャップがあって、「生きる」「食べる」ための認識はうまくいっているのだろうか。こころもとない。

この風景を見ながら、都市に暮らす多くの人びとは、農的環境によって「食べる」ことや「生きる」ことが支えられているにも関わらず、認識のほうはというと「経済」や「金」に大きく偏り、これさえあればなんとでもなりますという感じの「極論」もメディアでは力を持っているようだし、経済や産業のことは日々目にし耳にするが、土と水と人との関係の知識や認識は貧弱で、かなりおざなりできているような気がしたのは、今月の始めに、10月30日発行の『スペクテイター』最新号「土のがっこう」を編集部の赤田祐一さんにいただいて読んでいたからでもあるのだが。

おれの知識や認識も、かなりいいかげんだった。

「土のがっこう」によれば、日本の学校教育では、「土」に関する教育がまっとうに行われたことはなく、まっとうな教科書もないらしい。それもあってだろう、この号は「土のがっこう」になったにちがいない。

自分のことを思い出しても、「土」を含んだ「生きる」環境の全体像の認識は、学校と縁がなくなってしばらくたった1970年代ぐらいからだった。

それは、すでにあれこれ書いているように、「食」や「食文化」に関わる仕事をするようになったこと、70年代から強まった「デカルト主義」といわれたりした「近代合理主義」を批判する言説やカウンターカルチャーなどとのであいがあってのことだ。おれは、いわゆる「無農薬有機栽培」や「自然農」を営む人たちとも関りを持つようになった。

「食文化」という言葉は広く流通するようになったが、それが土と水と人との関係で成り立ってきたし、いまも成り立っていることは、すっかり忘れられてしまい、多幸症的消費の重要アイテムとして話題を集めることが多いようだ。

それもまた、都市的風景がはらむ認識といえそうだ。

人は、土とどう関わってきたか、関わっているか、は、食文化の根幹のことだ。とくに日本の場合は「米」もからんで。

とかとか、今日は、じつは、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」について紹介する前ふりのつもりで書いた。

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上、蓮田駅へ15分ぐらいのところ。下、蓮田駅。

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2011/11/24
見沼代用水を遡り深沢七郎ラブミー農場を遠望す。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2011/11/post-b7c2.html

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