新刊。お知らせ。

001003_2発売中、鎌倉のインディーズ出版社・港の人から四月と十月文庫7『理解フノー』…クリック地獄

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◆連載中 東京新聞、毎月第3金曜日、「エンテツの大衆食堂ランチ」…クリック地獄

◆連載中 美術同人誌『四月と十月』4月と10月発行、「理解フノー」…クリック地獄 004005

◆『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』ちくま新書から発売中。よろしく~。もくじなどはこちら…クリック地獄

◆好評『SYNODOS-シノドス-』――『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている 五十嵐泰正×遠藤哲夫は、こちらでご覧いただける。…クリック地獄

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2019/12/12

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」85回目、谷在家・みたけ食堂。

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まだ10月18日の分もここに掲載しないうちに、今年のオワリが駆け足で近づいてくる。10月と12月、たった2か月のことなのに、この新聞が出た頃と今では、いろいろずいぶん違うような気がする。おれの生活は、あいかわずなのだが。

とにかく、慌てて急いで掲載しよう。

足立区谷在家のみたけ食堂だ。日暮里・舎人ライナーができるまでは、行きにくいところだった。いまでは、西日暮里から10分ぐらいで最寄り駅の西新井大師西に着いて、歩いて5分とかからない。しかも高所を走るモノレールに乗って、日頃見慣れない景色を見ながらであり、チョイと小旅気分。

なんだかすごく気持のよい食堂だった。旅先で、土地の大衆食堂とよい出合いがあるとうれしいものだが、そんな気分だった。といっても、特別のことはない、環状7号沿いにある普通の大衆食堂であり、そこでメンチカツとキンピラで丼めしを食べただけなのだが。

入口に「みたけ食堂からのご案内」というポスターがあって、利用の仕方が印刷されていた。「①カウンター左のおぼんを取って下さい。(ご飯の大きさは選べます)②お好みのおかずを取って下さい。③お会計は食後です」とあった。

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おお、セルフサービスのカフェテリア式を導入したのかと思ったが、会計が後払いであるから、好きなおかずを自分でとる食堂とあまり変わるところはない。レイアウトも、カフェテリアのように機械的=実務的ではないし、お茶も、気持ちのよいご主人が席まで持って来てくれる。

幹線道路沿いで、数台の駐車場があり、クルマの客が次々と出入りする。作業着姿のドライバーもいれば、営業マンらしい男たち、移動の途中らしい中年の夫妻、近所の親子など…。

ここは、都心から見れば、足立区の荒川の外側だ。いわゆる「下町」とも違う。埼玉県と隣接しているし、いまでは住宅が増えて「東京の侵略」が続いているが、かつては農村であり、のちに都心で疎まれたものを引き受ける土地になり、工場や倉庫が多かった。そのせいかどうか、人間がせかせかしたところがない。

ゆっくり自分のめしをかみしめながら食べた。うまい食事だった。「食べ物」の質だけではなく、「食事」の質について考えていると、いろいろ見えてくることがある。そうそう、年季の入ったブリキのようなアルマイトのようなお盆が渋く、どうしてもこれを写真のメインにしたくなるのだった。

すでに、東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019101802000178.html

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2019/12/02

5年ぶりの北九州。

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あわただしい年末スケジュールのなか、元旦の新聞記事のため、北九州(福岡市ではなく北九州市)へ行ってきた。2007年7月と8月、2008年9月、そして2014年10月のあと5年ぶり。

28日の朝、羽田を発ち北九州空港で27歳の男に拉致され19時過ぎに解放、一人になってまずは旦過市場の「赤壁」で角打ち、のち6月に亡くなったヒグラシ文庫の中原蒼二さんを偲びながら角打ちをしようと小倉駅北側の「井出商店」へ行ったが、井出商店があるはずと思っていた場所はコインパーキングに、というのは、おれが場所を間違えていたからと帰宅して調べてわかったことなのだが、なにしろスマホを持っていないからね、そのときは駐車場になってしまったのか残念だなあと暗い駐車場で佇み、南側に引き返し「無料案内所」の看板が多い一角、5年前は80歳だった女将がにぎる寿司屋へ行ったところが、10人ほどのカウンターだけの店内は満席、それならば「武蔵」で一杯やってから再度行けばよかろうと魚町銀天街へ、「武蔵」のカウンターで21時半ごろまで、いい加減に酔って寿司屋に戻ると女将が電気ストーブのそばでビール瓶とビールが入ったグラスを前に居眠りしている、おれのことをすぐには思い出せない模様、5年前に初めて行ったときは何人か一緒だった、彼女は「明日また一人でおいで」というから義理がたいおれは翌日一人で行ったが、80歳の女と71歳のおれとのあいだにはナニゴトもなかった、ちょっと寝ぼけていた女将は「換気扇がきれいだとほめた人だね、換気扇がきれいだとほめられたのは初めてだから覚えているよ」と目覚める、それからは話が止まらない、もうくたびれて何かつくるのは面倒だけど酒ならあるよってことでビールをさしつさされつってことになりまして、85歳の女と76歳の男の話ははずむ、24時近くなって彼女もときどき目をこするしおれも何しろ久しぶりに朝から動きっぱなしだったから眠くなり帰ろうとするが帰してくれない、ま、話も面白かったのであるが、けっきょく24時半ごろまで、帰り「丸和前ラーメン」の前を通ったのでラーメン食おうと思ったが、若い連中がドンチャカ満席、ホテルにもどってベッドに転がりこみ気が付いたら朝。

10時すぎにホテルをチェックアウト、5年前に午前3時ごろまで飲んだ「白頭山」がある一角へ、ここに残っている貴重な文化財「名画座」薔薇ピンク館は無事にあったし並びのストリップ劇場も無事だったが、立ち飲み屋などが並び小倉駅南口にぬける通路でもあった戦後的風情の大丸ビルは再開発され壁となり立ちはだかっていた、「白頭山」24時間営業だが11時から取材なので飲む時間がないガマン、5年前ここで飲んだときは確か3軒目だったかで深夜おれのほかは若い女ばかりだったと思う、その中にたまーに東京などで何度か飲む機会があった女が一人取材で来ていて一緒にいた、彼女は駅の北側のホテルおれは南側のホテルだからJRのガード下を北側へ抜ける午前3時ごろで人っ子一人いない通路を行く彼女と「バイバイ、また」と別れた、どうせまた飲む機会があるだろうと思っていたのだが次はなく彼女は急逝、ということを「白頭山」の前で思い出したりして、11時から取材、終わって飛行機の時間まで「平尾酒店」で角打ちをやりながらインタビュー攻めにあう、約1時間半もの角打ちは長すぎだが夕方まで客は来ないからという酒店の80歳のおばさんがイスを出してくれた。

羽田に着いたのが18時すぎ、品川に出て東京を南北に縦断し飛行機に乗っているのと同じぐらいの時間がかかって帰宅、一番疲れたのが羽田からだった、東京の過剰さの異常を身にしみて感じた。

北九州、人口流出にストップがかからないようだが、湯水のように金がかかる東京のようになりながら「発展」するのも考えもの、北九州なりの道はどこか、というあたりのことにも関係する今回の仕事だった。

行ったついでに2、3泊してウロウロしたかったが、余裕がなく帰って来た。短い滞在でも、産業と市場の支配が強い首都圏を離れ、「食べる」と街と人の生き方をいろいろ考えてみるいい機会になった。北九州は街も人も気取ってなくていい、一人の若い人が「北九の人は「雑」だけど、最近はそれがよいように思うようになった」というようなことを言った。一人ひとりが人間として活きている、味わい深い街の個性は、そこからたえず再生産されている。

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2019/11/12

産業化と市場化、「かんだ食堂」など閉店の事情。

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前のエントリーは5日だったが、その翌日6日、リニューアル仕立ての「ヨッ大衆食堂」のコーナーに「かんだ食堂」をアップした。

そこに書いたように、かんだ食堂は、昨年の3月18日に閉店した。ビルオーナーがビルを売却したことにともなう退去閉店だ。ビルは取り壊され「再開発」される。
http://entetsu.c.ooco.jp/00_syokudou/syokudou_tokyo/akihabara_kanda_syokudou.htm

たしか、かんだ食堂は、この近くで開業し、このビルができた1959年にここに移転したはずだ。4階建てのビルも老朽化しているが、古い中小のビルは耐震構造の問題もあり、建て替えか売却かの選択をせまられている背景はある。

そうであったとしても、中小のビルオーナーの選択肢は限られているし、店子の小規模経営者の選択肢など「無い」にひとしい。

東京は、オリンピックとオリンピック後をにらんでの「再開発」が活発だ。また、いつか通った道が繰り返されいるのだが、麻薬中毒のようにやめられない。

今年1月、拙著『大衆食堂の研究』にも登場した大正7(1918)年開業の、笹塚の常盤食堂が閉店した。店主夫妻の高齢化と後継者がいないことによる。

知っている限り、年内閉店予定の大衆食堂がもう一軒ある。昭和20年代の開業、店主が高齢もあるが、直接には道路拡張のために建物が取り壊されるためだ。この道路拡張は、以前から計画としてあったものがオリンピックを理由に実施された。

小規模経営の大衆食堂は、産業化や市場化の「圏外」に位置していた。いわゆる「生業店」であり、その空間は、近代合理主義的なマネジメントやマーケティングの影響が少ない、生活的存在だった。

そういう小規模経営が街角から消え、生活的空間だったところは産業と市場に組み込まれ、近代合理主義的なマネジメントやマーケティングが支配するところとなる。これが、とくに1980年代以降の「再開発」といわれるものだった。

東京の消費者は、こういう「再開発」に、すっかり飼いならされた感じもある。街は、キレイにスタイリッシュになるし、とても便利、と、失われたこと排除されたこと、その先に何があるか、といったことについては目をつぶり、快適で愉快なことだけを見て過ごす。これも、麻薬的効果か。

いまここにあげた三つの食堂は、経営に行き詰まっていたわけではない。かんだ食堂は、大にぎわいだったし、常盤食堂などはそこより駅に近いほうにチェーン店が何軒かできても生き残ってきたし、年内閉店予定の食堂も駅から10分以上離れていても生き延びてきた。統計はないが、1980年代以降の大衆食堂の閉店は、再開発と後継者難によるものが多いと思う。

世間的には、産業化と市場化が資金力にものをいわせ圧倒しているようだし、産業や市場サイドからの情報が圧倒しているから、小さな生業店などは経営能力も低いのだからなくなって当然という見方もある。

そのように見方や考え方まで産業的市場的になり、仕事の成果に直結する能力や技術などの評価だけが問われ、あるいは仕事の実績や成功を強調したりするが、「人間としてどうか」「暮らしとしてどうか」「街は誰のものか」なーんていう問いかけは、どうなるんだろうね、いいのかね。

とはいえ、産業化や市場化は、すべてを支配できるわけではない。そこが、おもしろい。

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«「ザ大衆食」のサイトのリニューアルが少し進んだ。