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2020/08/05

ヒッピー祭り(『散歩もの』作=久住昌之、画=谷口ジロー、扶桑文庫)。

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2020/07/11「これからの台所をおもしろくするには。」の最後に、こう書いた。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-511a0d.html

「そりゃそうと、「日本のヒッピー・ムーヴメント」の「ヒッピー用語の基礎知識」には、「はらっぱまつり」があって、「正式名称は”武蔵野はらっぱ祭り”。東京・小金井市にある都立武蔵野公園の通称”くじら山”地区で、三十年前から毎年秋に市民有志によって行われ続けている」との解説ついている。泉昌之か久住昌之の作品に、この祭りが登場する漫画があったとおもうのだが、おもいだせない。」

これが、本棚から見つかった。

久住昌之・作、谷口ジロー・画の『散歩もの』(扶桑社文庫)に載っている「ヒッピー祭り」だ。

八話からなるうちの第四話。

タイトルは「ヒッピー祭り」だが、画のなかの看板には、「武蔵野はらっぱ祭り」の正式名称がある。

久住は「あとがき」のような「原作うらばなし」で、「これは「武蔵野はらっぱ祭り」がモデルになっています。ここは、実際俗に「ヒッピー祭り」と言われ、どこから現れるのか、70年代風のオヤジたちが集結していて、面白い祭りだった。だった、というのは最近は規制が入って、夜はいられなくなったのだ。前はテントを張ってみんなそこに泊まり込めた」と書いている。

マンガでは、主人公の中年の会社員が、祭りに参加している若い部下に頼まれたランタンを持って会場を訪ねる。するとそこには、「原作うらばなし」で「同級生とか思い出して「あいつなんか、こういうの好きそうだな」と思って歩いていると、そいつがちゃんといる! 年下のサイケなバンド「ヘタクソ」のリーダーを思い出して「あいつなんか、こういうところで演奏してそうだな」と思うと、ちゃんと演奏してる! 思わず笑っちゃいましたね。匂いを嗅ぎ付けて集まっていると思うと。悪意じゃなく「あいつら」って言いたくなるような友達が」と書かれている男たちが登場する。

この作品は、「「通販生活」という雑誌に、2000年夏号から季刊・年四回で二年間」連載された。「原作うらばなし」が載っている文庫本は、2009年10月の発行だから、その間に、規制が入って、テントを張って泊まり込むことができなくなったのだろう。

『スペクテイター』45号「日本のヒッピー・ムーヴメント」特集では、一九六〇年代から七〇年代後半の「カウンター・カルチャーの精神は、いま、どこかで生きているのだろうか?」について、まとめている。いろいろなところに受け継がれているのだが、当事者は「ヒッピー」であることや「カウンター・カルチャー」であることを否定しているばあいが、珍しくない。

とにかく、その一つに、「まつり系」というのがある。

「一九八六年、ソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故を契機に、長野県八ヶ岳で開催された平和を求める祭典「88いのちの祭り」が、そのルーツになっている」

「はらっぱ祭り」は、この系統ってことになるのだが、全国各地で開催された、いろいろな祭りがある。

おれは、80年代後半、この系統の人たちとの付き合いがあり、90年頃に一年ぐらいドップリ浸かった。同じ屋根の下で暮らし、食事を共にした。その食事は、玄米食で、いわゆる「マクロビ」ってやつだ。

カウンター・カルチャー、反原発、反公害、エコロジー、マクロビ……となると、一般的には「左」か「左寄り」のイメージだろうけど、おれの付き合いがあった人たちは、かなりの「右」な人たちが多かった。

「右」「左」というより、「反近代」といったほうがピッタリだった。ま、クルマを乗り回し、当時としては先端だったパソコンを持った、「反近代」というか。なかには、「神秘主義」や、昨今でいうところの「スピリチュアル」系の人たちもいた。「縄文信仰」の人たちもいたな。

かなり「ヒッピー・カルチャー」からは逸脱していたかも知れないが、なかにはヒッピーたちのコミューンのような生活をしている人たちもいた。ある大学の全共闘運動から「反動分子」として吊し上げをくらい辞職した教員と慕う学生たちで始まった「コミューン」みたいなものもあった。

どことなく近代的な産業社会からは受け入れてもらいづらい何かを抱え、寄り添っていた人たちが中心で、そのまわりに、いろんな人たちがいた。なかには、あやしいゼニモウケの人たちもいた。おれなど、もっともアヤシイ存在だったかもしれない。

彼らは「まつり」で、ゴチャゴチャつながっていた。いたるところにタダで泊まれる知り合いがいるのだ。

それはそうと、「これからの台所をおもしろくするには」で述べた、『スペクテイター』44号「ヒッピーの教科書」特集と、45号「日本のヒッピー・ムーヴメント」特集については、カンジンのことが欠けていた。

その編集は、60年代70年代の「ヒッピー・カルチャー」あるいは「カウンター・カルチャー」を、過去のものとして整理するのではなく、現在の「オルタナティブ・ライフ」「オルタナティブ・カルチャー」の視点から捉え直そうとしているのが、特徴だと思われることだ。

そう見れば、たとえば最近はごく普通に使われるようになった「シェア」という言葉などは、かつての「コミューン」の精神の発展のようにも見えるし、同じようなことがいろいろある。チョイとスタイリッシュに商品化しすぎという感じのことも少なくない。

とくに食の分野では、たとえば「大地を守る会」のブランド化など、かつて「コジキ」といわれたりした人たちもいた「ヒッピー・カルチャー」や「カウンター・カルチャー」からは想像つかない事態まで生まれている。

オルタナティブな視点で見直すと、なかなか面白い。ってわけで、チャールズ・ライクの大ヒット作『緑色革命』を読み直しているところだ。

オルタナティブな台所を夢想しながら。

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「先行きがわからないのは みんな一緒の時代じゃないか」

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2020/08/04

3か月ごとの検査(CTスキャン)。

前回の通院のときに予約した検査が今日だった。

4月に治療を始めてから7月の4回目の治療で3か月を経過した。その間の治療法が適切だったかを確認し、今後の治療法の決めるためのものだ。

4週ごとの治療のたびに、血液と尿の検査をして「数値」では状況を把握しているが、CTスキャンで「見える化」する。

予約は10時40分だったが、30分前に受付をすまさなくてはならない。

検査の前、4時間以内は、お茶と水以外は口にしてはいけないという指示だった。となると6時には起きて食事をしなくてはならない。起きられる自信も、起きる気もなく、ま、成り行きにまかせようと思いながら寝たら、6時10分前に目が覚めた。

軽く食事をし、薬は飲まなくてよいといわれていたので休み。

長かった梅雨も今月1日には明け、急に炎天がのさばっている。朝からクソ暑い。外を歩いている最中には、コロナ感染予防のマスクはしない。

病院には10時10分前ぐらいについた。出入口のところでの検温が復活していた。

4月後半の1回目の治療の頃は、たしか消毒液が置いてあるだけだった。5月と6月は、3人の人がいて、消毒と、おでこで検温をされた。7月の4回目のときには、6月末で検温は取りやめという貼り紙があって、最初のように消毒液が置いてあるだけだった。

ところが、その頃には、再び新規感染者数が急増し始めていた。いまでは、緊急事態宣言のときより急カーブで増えている。

出入口では係は一人だけだが、消毒液と、前に立つと自動で検温する装置が置いてあった。人件費を減らしながらの「効率的」な対策なのだろう。

まいどのように自動外来受付をしたのち、放射線科の受付をしたのが10時ぐらいだった。早すぎだが、10分もしないうちに呼ばれて検査室に入る。

CTスキャンは2度目で、前回と同じように「普通+造影」だから、血管に造影剤の投与がある。脈拍と血圧を測り、あれこれ説明があり、慎重にすすむ。

検査のあとは、身体に異常が起きないか、20分ほど待機していなくてはならない。

順調の終わり、造影剤は小便と一緒に排泄されるので、水を「がんばって飲んでくさだい」といわれる。

そうでなくても喉が乾いて飲みたいから、病院の売店で水を買い、テーブルで一休みしながら飲む。

自動精算機で会計をすましたら、2720円だった。後期高齢者の一割負担の額。

検査の結果は、1週間後の診察日の資料になる。

CTスキャンで輪切りになった胴体の画像が、主治医のパソコンの画面に映りだされ、主治医が操作すると、アニメのように変化するのが面白い。

毎月の血液検査によれば、患部は治療開始の約3か月前より、かなり小さくなっているはずだ。なにしろ、主治医もびっくりの特大だったからなあ。ちったあ小さくなってくれなくては、治療のやりがいがないというものだ。

モンダイは、転移があるかないか、ってこと。

この間に、肝臓に薬の副作用が出たため、転移抑制の薬を1か月半ほど休んでいたし。

はて、どうなるか。

2020/07/15
癌治療4回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-10a395.html

 

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2020/07/30

QOLとコロナ禍と癌。

「QOL(quality of life)」という言葉が「生活の質」や「人生の質」だということぐらいは知っていたが、使ったことはなかった。どーせ、消費社会が生んだ、消費な言葉だろうとおもっていた。

「大きな家に住むようになってQOLが上がった」「うまいものを食べて、QOL爆上げ」とか、湘南だ代官山だ青山だといった、たいがい、より「上質」な「高級(高額)」なイメージの消費に対して使われる場面が多く、クダラネエ~とおもっていた。

ところが、癌の治療にあたって、この言葉が使われた。

4月21日、それまでの検査結果にしたがって、主治医と治療法を話しあっているときに、主治医がその言葉を口にしたのだ。

一瞬、「えっ、キューオーエル?」と脳ミソが宙を泳いだが、すぐ見当がついたていどには、この言葉の記憶があった。

いくつか考えられる治療法から、患部の状態や、おれの年齢や体力の現状などから、前に書いたように「通院による注射と薬で、じっくり時間をかけてやる治療法ってことになった」のだが、その選択の基準は何かというと、当面「QOL」を低下させないで持続することなのだ。

日常生活に差支えがあるような痛みや苦しみを押さえながら、処置をほどこす。

そんな感じで、とくに明快な絶対的な基準があるわけじゃない。

どの治療法でも完治の可能性が低く、手術や放射線や抗癌剤の治療で身体をイジリ、別の苦しみを引き受けるよりは、QOLから見ても穏当な治療法、という判断だった。

なにしろ、当時は肉体的な痛みや苦しみがひどく、睡眠不足が続き精神的にヤバイ状態だったから、それから解放されるならなんでもいいという気分だったこともある。

おかげで「QOL」に関心を持つようになってわかったのは、この言葉はもともと医療と深く関わりながら発展した考えであり、根本は「人間の尊厳」「個人の尊厳」にあることだ。

「尊厳」という言葉は、最近「ALS嘱託殺人事件」で「尊厳死」だの「安楽死」だのといった言葉が飛び交っているが、けっこう解釈が難しい。

だけど、とにかく、人間が生きていく上での最高の価値観なのだと、もっと意識する必要を感じている。なにしろ、「ヒトとしてどうか」より、仕事や業界での位置や稼ぎや名声だからね、近年は。QOLも産業と消費にとりこまれそうで危うい感じだ。

殺人はもとより、差別や優劣、パワハラもセクハラも、誹謗中傷、痴漢、マウンティングなどなど、とどのつまり「人間の尊厳」や「個人の尊厳」の問題なのだ。

あらゆるさまざまな権利が、「人間の尊厳」や「個人の尊厳」を基本に成り立っている。

その割には、個別の事件や事案については、ああだこうだいうが、尊厳については、あまり話題にならない。そういう尊厳に対する希薄な意識の状態が、さまざまな事件や事案に接続している面があるとおもうのだが。

おれが通院している病院の案内には、「患者さまの権利」というのが大きく10項目あって、印刷物にもなっているし、待合室のテレビ画面に、しょっちゅうしつこいほど流れている。

その一つに「人間としての尊厳を保ち、医療が受けられる権利」ってのがある。たいがいの病院で、似たようなことを謳っているはずだ。

いま、コロナ禍が騒がれているなか、とくに緊急事態宣言以来、それが解除されても、その「禍」のほとんどは、QOLに関わることだ。

なかには、コロナ禍以前からあった、たとえば飢餓や貧困や格差や差別などQOLに関わることが、コロナ禍のなかで、ますます深刻になっている例が少なくない。

おれが住んでいる埼玉県を含めた7都府県に緊急事態宣言が出されたのは4月7日だった。ステージ4の癌告知と治療が始まったのは、いま述べたように21日で、コロナに感染すると重症化リスクが高いから十分注意するようにいわれた。コロナと癌、2つのQOL低下リスクの中、という感じなのだが、やることは割とシンプルだった。毎日規則正しく3食たべ、薬を飲む。

出かけなくてはならない仕事を断るのは痛手だったが、妻のおかげもあってQOLの低下はまぬがれている。といっても、QOLは「経済」で決まるものではないし、身体が不自由であっても、それなりのQOLが成り立つ。尊厳が守られていれば。

コロナ禍に対する対処は、国レベルから個人レベルまで、どうだろうか、尊厳やQOLを基本に考えられているだろうか。

大きな話より、個々人の暮らしのレベルで、コロナ禍のなかのQOLはどうなのか、最近すごく気になっている。人びとは、緊急事態宣言で家にいるあいだ、なにをどう食べていたのだろう。「日常」と「非日常」の関係は、どうだったのだろう。

先日、斎藤環さんがツイッターで、「人間には Dignity of Risk (リスクを負う尊厳)というものがある。敷衍すれば感染回避を規範として絶対化すべきではないということだ。ゼロリスクがありえなくても人は車を運転するし飛行機に乗る。同じ意味で、最大限の配慮をしつつ外出し移動し監視されずに活動することは、全ての人の権利だ」とツイートしていて、「おっ」とおもった。そこまで考えたことがなかった。

QOLは、消費による幸福のレベルではなく、尊厳が暮らしのすみずみまで広く行われることによる幸福のレベル、と考えられるとおもうけど、尊厳もQOLも難しい、と、あらためておもった。

昨日、大宮へ行って、『現代思想』8月号「コロナと暮らし」を買ってきた。いま、おれの関心のまんまのタイトルだ。

でも、どーせ、おれのような学識のないもには、難しい内容なんだろうなとおもいながら、でも、いま「コロナと暮らし」を考えないでどうする、『現代思想』ごときから逃げるな、という気持もあり、それに、なにより、最近読んでブログに書いたばかりの『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』の著者、久保明教さんと猪瀬浩平さんの「往復書簡」が載っているとあっては、読まずにいられない、欲しくなる。

往復書簡のタイトルは「忘却することの痕跡 コロナ時代を記述する人類学」だ。うーん、これは手ごわいタイトルだとおもいながら読み始めた。

ところが、最初の猪瀬さんの書簡が、『100日後に死ぬワニ』の話から入って、「他人事」のこと、自分が体調不良のなかで感じた不安、猪瀬さんの周囲の緊急事態宣言を理解できない知的障害がある人のことなど、そうか、そうだ、そんなことがあったのか、久保さんの返信には、「「普通」と「そうでないもの」」のあいだのことなど、ちょいとややこしい言い回しにかえって刺激され、誘いこまれるように読んでいる。

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