« 2002年12月 | トップページ | 2003年2月 »

2003/01/31

四條流

一昨日の「アサヒグラフ」のことだが記憶で書いていたので、現物を探して見つけた。詳しく紹介しよう。

先日、知人がアーティストでグルメな家庭に呼ばれ、ハト料理つまり「本格的なフランス料理」をごちそうになって、とてもうまかったといった。もちろん、そのご夫婦がつくったものである、かれらはイタリア料理やフランス料理が上手で知られている。そういう、ある種余裕があり料理に関心の高いひとたちが、なぜ「本格的な日本料理」をつくろうとせず、フランス料理やイタリア料理に流れるのか。それは「外敵の進出」や「日本人の堕落」に原因があるよりは、日本料理自身に問題があると見ることができるし、それはまたかくも簡単に日本料理が衰退し大衆にそっぽをむかれた一因でもあると思える。その源、めったに一般のひとたちは知る機会がないのだが。

アサヒグラフ99年2月22日号。表紙を飾る写真。衣冠束帯の男が、大きなまな板の前で、右ひざをたて右手に「庖丁刀」といわれるものをかざし、左手の「真魚箸(まなばし)」といわれるもの、先をまな板に立て、顔は庖丁刀を仰いでいる。まな板の上には、鯉の頭の切ったのや、他の部分の切れ身が、わけありげに配置されている。そして、雑誌タイトル文字の5倍以上もありそうな大きな活字で、「四條司家 日本料理道庖丁道の精華」とあるのだ。

庖丁をかざしているのは「四條司家41代当主 四條隆彦」さん。一昨日は、高橋家の当主と書いてしまったが、ま、じつは、ごたぶんにもれず伝統芸なるものは、それを守ると称している家のごたごたがあってややこしい。四條流もいくつか流派があるし、われの家こそは正統という感じで勝手に系譜をつくってしまうし、高橋家が古い本家本元のはずなのだけど、どうなっているんだろうね、調べてみますわ。とにかく、「四條流」は、日本料理界に君臨してきたことだけは確かだ。

表紙を開けると、またもや一枚写真で、庖丁刀の大写し。活字の文言は、表紙と同じ。ずいぶん念が入っている。

そして、つぎの見開き、右ページの写真は、「四條流庖丁儀式」の写真である。そして、その左ページに「四條家流庖丁書」の絵写真と「41代隆彦による『龍門の鯉』」なる写真。まだ料理の写真はない。この本文の最初にあたる位置に、庖丁儀式がくるところに、四條流が君臨する日本料理の特徴がある。

文字制限があるから、続きは明日。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/30

今日はお休み

いろいろ忙しくてね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/29

イメージ

なぜ、「建国」以来の歴史の日本料理や米食が、70年代以後急激に衰退したか。いくつか理由が考えられる。

とくに若い世代だが、新宿のションベン横丁(思い出横丁)を見て、「わあ、東南アジアみたい」と、タイの街やインドのどこかの街をイメージする。ションベン横丁には日本の歴史と現実しかないのだが、そのへんはみえないかみない、すぐ外国をイメージする。いまでは外国人の目で日本をみるなんてことはめずらしくない。

そういうクセがいつはじまったか、比較的新しいところでは、1965年ごろの海外渡航の自由化、一般人が戦後初めて自由に海外へ行けるようになった。この時期というのは、占領下から自由になって、わずか10数年だ。つまり日本人が自由に自国の文化を考えられるようになって、10数年。そのまえは占領政策下、そのまえは思想統制の軍国政策下にあった。

そしてまえにも述べたように1970年ごろから「イメージの時代」が始まる。このときすでに妙な現象が始まっている。コロッケやトンカツにフランス料理をイメージし、カレーライスに西洋料理やインド料理をイメージするといった例である。これは本質的には、ションベン横丁に東南アジアをイメージするのとおなじだろう。

そしてまた、「大和魂」に稲作中心農業の「農民魂」をみることはしない、武士や刀をイメージする。「菊と刀」に大和魂をイメージするのは、外国人の目にほかならない。

数年前、廃刊だか休刊になるまえの「アサヒグラフ」の表紙を妙な写真が飾った。貴族風の衣冠束帯の男が、ギラリと刀のような庖丁をかざして、その刃にじっとみいっている。かれは日本料理に君臨してきた「日本料理四条流宗家」高橋家の当主である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/28

イノシシ肉分配法

今日はひさしぶりに「貧乏食通研究所」に書いたので、こちらは短めに切り上げよう。

猪の猟は数人ですることが多い。ときには10人をこえる。鉄砲をかまえて撃つ役と猪を追い立てる勢子役。いまでは猟師で食べるなんてひとはいないだろう。おれの知っている地域では、定年退職の猟友会のひとたちが中心だ。だから60歳ぐらいでも「若造」で勢子の役になることがめずらしくない。

で、猪を獲ると、その肉を分配するのだが、それはえらい厳密に平等であり共産的なのだ。つまり、左の腿の肉は腿の肉で人数分にわけるというぐあいに、肉の部位ごとに猟の参加者に平等にわける。だから猟の人数が多いときは、小さなかたまりをたくさん持ち帰ることになる。それを見れば少ない猟の人数だったか多かったか、わかるから愉快だ。

12月からいまごろの季節が、猪の肉はいちばんうまいといわれる。いまでは肉は冷凍庫に保存しておいて、いつでも食べられる。うまいぜ。

食べると身体の芯からあたたまる。肉を食べる鍋もよいが、どちらかというと脂肪の旨味がよいので、汁のほうが好きだ。野菜をたっぷり入れてつくる。野菜が猪汁の旨味を吸ってうまくなる。猪の脂肪は冷めても固まらずサラサラしている。鍋にするときは、途中で肉をくわえずに最初に入れて、鍋蓋をして蒸すように煮ると、肉が柔らかく仕上がる。ああ、くいてえ。思い出してしまった。書かなきゃよかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/27

不思議

昨夜、ある講演で伊勢の神宮と稲作の関わりを聞く機会があった、話した方は神宮の方だから、いわば教義にもとづく解釈であり、どうしてもカンジンなところで我田引水になってしまう。

それはともかく、そんなに長い歴史の稲作や米食が、ここ数十年のあいだに、こうも簡単に崩れてしまったのはなぜかということは、そこからは明らかにならないし、したがって稲作と米食の回復のみちすじは見えてこない。

「主食」という概念をつくりあげ、そこにコメをあて、コメは日本人の主食だから大事にしなくてはならないという論理で、「主食」の実態をあいまいにし、稲作優遇の農業を続けた歴史そのものを問題にしなくてはならないだろう。

嵐が吹いて家が倒れた。その場合は家の弱点を改善しなくては嵐に強い家はできない。

しかし不思議だ。伊勢の神宮では、稲作にあわせ1月1日より旧正月2月4日を新年の祭として重要視してきたわけだが、では天皇の明治政府はなぜ太陽暦を導入したのか、とても理解に苦しむ。日本の有史上、稲作の根幹をもっともゆるがし、天皇家の神様アマテラス以後の国益を損なったのは、天皇の明治政府ということになるのではないか。

あるいは明治政府は内心、伊勢の教義も太陰暦も信じるに足らないと思っていたのかもしれないなあ。明治天皇は、どうだったのだろうか?不思議だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/26

衛生といふこと

昨日は「グルマン散歩」という感じだった。古本屋をはしごして買った古本を担ぎ、亀戸の「異文化情緒」の濃い香取飯店になだれこみ、大いに食べかつ飲んだ。病気ならともかく、どう考えても思い切り食べ飲むというのは健康的で、健康な身体なのに長生き痩身のために気をつかい、ああだこうだと飲食を自主規制するのは、すでに精神的に不健康のような気がする。昨日は2対3の3が肥満系だったが、ガツンガツン食べるので気持よかった。

で、そのときの話で思い出したことがある。猪をよく獲り食べる地域があるのだが、そこでは猪の獲りたての、まだ血があたたかいうちに内臓を生で食べる習慣が大人たちのあいだにある。

残念ながらおれはその場に居合わせたことがないのでわからないのだが、それはもう、とてもうまいとのことだ。集落のひとはそれをずいぶん楽しみにしている。

おなじ話は、熊を獲る地域にもあって、ふつうは熊も猪も一人で獲ることはなく数人でやるのであり、肉や毛皮など売り物になるところは、直接猟に関わった人間で山分けだが、内臓など早く食べなくてはならないものは、解体の場所にいるものが誰でも食べられる仕組みなのだ。

ところが、その地域の小学校では最近、「寄生虫がいるから」食べないようにと指導をしているので子供たちが食べたがらない、と親たちは怒っている。しかもその怒っている一人は地元の保健所の保健婦だ。これまでみんなが長いあいだ食べてきて問題はなかったのにという。自分の子供には食べさせている。子供は、やはりうまいといっていた。

そういう彼女たちは、野菜などは生で食べることはせず、煮るときでも、とてもよく洗う。むかしながらの自家栽培はムシがつきやすいからで、実際自家製の白菜などはムシ穴だらけ。習慣だからか、スーパーで買ってきた「安全」の農薬タップリ使用の野菜までよく洗う。

抗生物質タップリ入り人工飼料の豚肉や鶏肉はよいが、野生の猪の内臓はいけないというのは、どうもおかしいことはおかしい。やはり不健康な精神のにおいがする。衛生は、また生理学や生物学の問題だけではなく、文化の問題でもあるのだ。ま、なんにせよ、力強く食べようということさ。

しかし香取飯店は、うまくて安かったなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/25

とつぜんですが、スイトン

スイトンは戦後の食糧不足の時代の知恵であるというような記述がある。間違いだね。戦前からあるし、このサイトの「関東うどんそば逆襲協会」のところでも紹介しているように、埼玉県の「うちいれ」などは名前は違うが「スイトン類」ともいえそうで、古い食べ方なのだ。

「スイトン」という名前は、『松屋会記』という茶の湯の記録の天文13年に、すでに見られる。1544年戦国時代。織田信長は10歳ぐらいのガキである。

ただし、そのときのスイトンは、くず粉でつくる平たいうどんのようなものらしい。

食べ物や料理の歴史は、その記録があるところから最低でも50年づつの前後つまり100年ぐらいを見ながら、歴史をゆきつもどりつしないとわからないことが多い。記録があったぐらいでは、それが松屋会記のように「食べた」記録ならまだしも、料理書の類だと書かれていても作られていない可能性があるし、作られていても料理書の通りに作られて食べられているとはかぎらない。そういうものは歴史をゆきつもどりつしながら、当時の食糧生産や流通、台所の条件や料理法の状態などを判断し、料理を特定しなくてはならない。おなじ名前でも違う料理、その逆も、めずらしいことではない。

スイトンの名前は、そのように古いものだが、いつごろから、こんにちのチビだんごのようなスイトンになったかは、わからない。ただ、常識的に考えて、こねたうどん粉をのばして切るうどんよりは、ちぎって汁に入れて煮る料理のほうが古いだろうから、うどん以前から類似の料理があったと判断してさしつかえないだろう。

うどん粉を味噌汁の「具」として、粉のまま味噌汁に入れることは江戸期でも見られる。汁にうどん粉をとくのは、カレーライスで始まったわけではない。カレーライスのトロミを、すぐイギリスからの「伝来」につなげるのは、おかしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/24

お休み

昨日から今朝、「浮世のめし新聞」の更新をやったのでお休み。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/23

「通の文化」

江原恵さんは「実質的美味」と「趣味的美味」という言い方をしている。味覚は文化だから多様であり、さまざまな美味があるのであり、食べることで世間にはどのような「美味観」があるか自分がどのような「美味観」の持ち主かなど、自己発見があるはずだし、それは食べる楽しみでもあろう。

美味の概念が多様であるから「グルメ」も実際は、たとえばマンガ『孤独のグルメ』に見られるように、多様である。が、派手に騒がれている、「何軒くいたおした」「味の勝負」「ランキング狂」のグルメには、そういう自覚は乏しい。食べることは自己発見という自覚に欠ける。なぜだろうか。

「自己発見型の価値観ではない、権威にしたがったポピュラーな価値観で成り立っている通の文化」といったのは石毛直道さんで、1972年か3年ごろ。70年代前半世間を騒がした食通談義には、この石毛さんが指摘した傾向が色濃く見られた。そして「一億総グルメ」となった80年代なかばは、自己発見どころか、自己を権威にゆだねるグルメだらけになった。そこに山本益博さんのような料理評論家の「カタチ」が存在しえたのである。

それは、「生活をエンジョイする合理主義の思想が育たなかった」からと思われるというのが江原恵さんの考えである。いきなり「思想」というのも、チトつらいが、戦前の遺風もあって戦後になっても、長いあいだ食事や料理を普通に楽しむ習慣がなかったのは事実である。

食事の場は威厳ある家父長が支配するところで、向田邦子さんなどもよく描いていたが、とにかく静かに厳粛に、ということだった。小学校の教科書に「食事は楽しい会話をしながら」と書かれたり、学校の給食も一人一人の机で静かに食べるかたちからグループで向き合って食べるようになったのは、ごく新しいことである。

で、自ら楽しむことを知らなかったがゆえに、メディアという権威、料理評論家あるいはフードライター、文化人やタレント、有名無名の料理人などプロ、そういうもろもろの権威がふりまく「ポピュラー」というよりは幼稚で安易な価値観に流れやすかった。そういうことはあった。

自己発見型ではないがゆえに、何軒食い倒したかが権威になりえた。その「量」が「質」の客観であるかのような錯覚にとらわれた。何軒食べ歩いたと「通」を誇るひと自身、それほど食べ歩く豊かな経験を持ちながら自己発見と無関係だったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/22

"Small is beautiful"

"Small is beautiful"という言葉を、あるところで見て思い出した。懐かしい言葉だ。そして、いい言葉だ。1973年のオイルショックのころ、シューマッハが唱えた。関係ないが、おれは30歳だった。そして日本では「ユックリズム」という言葉まで生まれたのだが、オイルショックのショックがすぎると、のどもと過ぎれば熱さを忘れるように、忘れられた。

味は生理的に説明つくが、味覚は文化である。いろいろな説があるが、味覚におよぼす「味」の影響は10パーセントぐらいとみられているようだ。文化的環境が大きい。それは、ある地域でよろこんで食べられているものが、別の地域の人びとには嫌われる、ということからもわかる。ミッシュランがフランスのレストランのランキングをやれるのは、フランスのシェフたちの努力による料理の体系化という、フランスならではの合理主義の成果と、そういうことを生む文化の積み重ねがあってのことだ。それでもあれは「旅行者のため」の基準である。

"Small is beautiful"が定着していたら、その後の日本のグルメもちがう展開になっていたと想像できる。とくに「B級グルメ」についていえば、最初にそれを唱えたひとが誰だったか、いま名前を思い出せないが、かれのそのときの「思想」は、ユックリズムや"Small is beautiful"の系譜だった、といえるだろう。つまり、みながやるからと気どって背伸びして、おフランス高級料理グルメに走ったりせず、自分の身の丈でゆとりをもって食べよう、というかんじの趣旨だったと思う。それが、ずいぶんゆがめられた。「B級」は、ある規模のボリュームを形成するところから、町おこしや市場開発や売名の餌食にまでなった。"Small is beautiful"どころではなく「全国」でランキングを争うことになった。"Small is beautiful"とは対極の、ある種の「覇権主義」の文化である。

"Small is beautiful"
大衆食堂も大衆食も、本来、"Small is beautiful"の世界である。だから、おれも、もうかりませんわ。

ところで昨日の「美食」についてですが、江原恵さんは「実質的美味」と「趣味的美味」という言い方をしていますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/21

「美食」のすすめ

昨日の「『美食をいさめ、規則正しい食事時間にゆったりした気持ちで食事をとることを努める』文化」から「美食をいさめ」は不要だと思う。美食はいさめる必要はないし、美食かどうかと、そのあとの「規則正しい食事時間にゆったりした気持ちで食事をとることを努める」とは直接は因果関係はない。

「美食をいさめ」というと、すぐ「粗食」とか「節約」となるのが、われわれ日本人で、哀れな「二元論好き民族」である。美食の概念が問題だろう。「ふだんの食事をおいしく」「普通のものをおいしく」という意味での美食なら、かえって必要なことであり、となると、そこには「規則正しい食事時間にゆったりした気持ちで食事をとることを努める」ということが意味を持ってくる。「美食」はまた精神的なゆとりなのだから。

しかし、現実には、「グルメブーム」という「美食ブーム」は、A級だろうがB級だろうが粗食だろうが、特別なおいしさを求め、何軒も食べ歩き、それをさらに比較しあい競争するという、はなはだゆとりを欠くものになった。グルメのリーダーたち、たとえばその一人だろう山本益博さんだって、フランスで何百軒だかセカセカ食べ歩き肝臓まで悪くしたことが勲章になるような、妙な現象があった。こうなると「美食をいさめ」ということが、ゆとりを持つために意味をもってくる。なにしろ世は「粗食グルメ」まで生み出したのだから、節約と粗食のご先祖様もビックリだろう。だが美食は必要なのである。

問題は「美感覚」にある。「力強さ」を美しいと思うかどうかのココロの問題がある。1970年代以後とくに、この「力強さの美学」が急速に卑しい下品なものとされた。それは、それ以前とくらべ、大きな変化の一つである。「めし」という力強い日常的な言葉すら下品な言葉のようにいわれ、上品なものとしての「ごはん」が勢力を拡大した。いまでも女性が「めし」などというと「ま、女の子が…」などと。話はトツゼンかわるが、「浮世のめし新聞」にも書いた、昨年末の京都で、あの気どった京都のそれなりの「格」の「黒川」の名物が「いろめし」である、また街中には「ザめしや24」のはではで看板もあった。また「めし」が力強く力を持つようになるのだろうか、期待したい。

で、まあ、どうも「美食」という言葉には、いろいろ歴史的に問題がある、「快食」がいいだろう。というおれのココロなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/20

70年代の奇怪

70年代は奇怪にはじまった。全共闘だ三島由紀夫だと騒いでいたが。まだ正月にしかコメのメシを食べられない地域があちこちにあり、そういう地域からの上京者や出稼ぎ者は東京でコメのめしをくえるとよろこんでいる、ところが、「中央」では「コメあまり」が大問題になり食管法は事実上崩れていく、そして、その正月にしかコメのめしをくえない地域の小学校の給食はパンなのである。おなじころ東京の郊外の「中流意識家庭」のあいだでは、生まれたばかりのファミレスでハンバーグにサラダにスープにパンの食事が、最高のシアワセのようにむかえられ、そこではコメのめしを食べるやつはアホ、という、どうなってんだこんにゃろの雰囲気だった。

これは「地域間格差」といわれたものであり、であるがゆえに田中角栄は日本列島改造論で「均衡ある発展」を唱えたのかもしれないが、しかし、「均衡ある」全国均一の学校給食が、コメあまり状況のなかで「パン」だったのだ。

学校給食がパンだったから「米離れ」がすすんだ、という説を唱えたいわけではない。コトはそれほど単純ではないからだ。エビの話にもあるように、70年代初頭には、「コメあまり」にかぎらず「供給過剰」状態があった。そして「企画」が叫ばれた。

70年の『企画力』には、こう書いてある。「企画とは人間の欲望を満足させる、あるいは、人間の欲望を作り出す手段・方法を発見することにある」

都会のニューファミリーがファミレスあたりで「パン食」をしながら、その欲望のイメージを膨らませつつあった。マックで食べながら「豊かな時代」を感じつつあった。スタバがあれば「かっこいい豊かな街」と思えるココロは、この時代のものである。

欲望が泡のごとく膨らむバブリーな時代は、バブル経済で始まったのではなく、このころ「仕掛け」られた。もしかしたら、この時代、学校給食でパンを食べたひとは、コメよりパンが先に日常化したひともいるはずなのだが、もっとも先進的なバブリーな一員として育成されたのかもしれない。これからの「イメージの時代」をになうものとして。

ともあれ、コメのメシと味噌汁に少々のおかず、「美食をいさめ、規則正しい食事時間にゆったりした気持ちで食事をとることを努める」文化は、しっかり定着しないうちに貧乏臭いイメージとなり、終焉をむかえつつあるようにみえた。だが、大衆食堂は、依然として健在だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/19

台所の条件と変化

おれは、台所の状況を検討せずに、夏目漱石の『坊ちゃん』にこの料理が登場する、あるいはナントカという料理書にこの料理が登場する、だから、といったことだけで料理や食の歴史を述べる著書も著者も、あまり信用しない。

明治35年は1902年だが、正岡子規は短くない死の床でカツオの刺身を食べるがウジがわいていた。もちろんそれを食べるのが普通だった。昭和30年ごろというと1955年ごろだが、その正岡子規が住んでいた根岸からさほど遠くない地域、上野駅近くの下谷万年町(北上野1丁目)に住んでいた少年、唐十郎はやはり、うじのわくカツオの刺身を食べている。いまの団塊の世代でも、ウジのわくカツオを記憶しているひとは少なくない。「江戸前」の刺身は、そういう状態だった。

つまり、魚屋も台所も、この間あまり変化がなかったのだ。それはまた、それ以前からの長い歴史だろう。カツオについていえば、そのウジを殺すために、外がわを火であぶるという料理をすることもあった。それは「たたき」とよばれたりした。あるいは醤油につけこみ塩分でウジを殺し食べた、つまり「づけ」である。魚によっては酢漬け。戦後はあまりみられないが、江戸期には刺身は、腹の内臓をとったあとに、そのへんが一番ウジがわきやすく腐敗がはやいのだが、塩をぬりこむこともした、あるいはさっと湯通しをする。

そして、昭和40年代つまり1960年代後半から70年代前半のあいだに、電気冷蔵庫や冷凍冷蔵庫が普及し、それをむすぶ冷凍冷蔵流通システムとしてコールドチェーンが形成された。山村の奥まで、冷蔵庫つきの食品販売車がいくようになるのは、70年代後半になるが、そのように全国のすみずみまでコールドチェーンが普及する。魚食史からすれば有史以来の大変化ということになるだろう。

そうなると、それまでの刺身が、そしてウジや腐敗を防止のための料理が、なにかトツゼン、職人芸の魔法のような話になっていくのである。切った角がどうのこうの、そのための庖丁がどうのこうの、と、職人芸のとてもありがたい話になる。そういう「食通談義」に花が咲くのが、70年代だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/18

企画と帰属といふこと

食事や料理を普通に楽しめない。普通では充足できない。不幸なことである。

という話からそれるようだが、おれが71年の秋、その「○×企画」という企画会社に転職して、すぐ名刺についた肩書は「企画担当」である。それ以来「企画担当」あるいは「プランナー」という肩書だった。「ライター」という肩書は5年前ぐらいからだ。

当時は「企画」という言葉もめずらしい。おれも何をするのかよくわからなかった。まわりでも「企画はリサーチだ」とか、わけのわからんことをいっていた。「企画料」という名目の請求書を持っていくと、相手は名だたる大会社の宣伝課長だが、目の前で破かれた。だが、70年に発売の多胡輝さん著の『企画力―無から有を生む本』は大ベストセラーになっていた。

ともあれ、企画という仕事はマーケティングの手法ですら、アメリカのお手本があるとはいえ、ご当地では手探り状態だった。で、それから10年がすぎたころだが、「企画書の作り方書き方」という類の本が続々と生まれる。そのハシリとなった本を書いたひとに水喜習平さんがいる。そのころ、この本を知らない「企画担当」は、ほとんどいなかっただろう。その水喜さん、つまりおれのこのサイトのリンク先にある、「水喜習平の定点観測」のひとだが、いまそのサイトの「concept]なるコーナーでかれはいう、「人は何ものかに帰属しないと生きにくい」

で、おれの考えはこうだ。大雑把にいえば、帰属意識が国家や土地にあった時代がある。それは言い方によっては、「故郷」であり「家族」であり、あるいは「天皇」だったかもしれない。そこに「会社」が加わる。そして「イメージ」への帰属が強力になる時代がイマであり、その意識はいつごろから顕在化するかというと、70年代なのだ。家族や会社よりイメージに帰属しようというのだ。おおきな変化である。

そのころから、帰属意識は「イメージ」という、じつにアイマイなものへと向かった。その「イメージ」を自ら描き、それに帰属しようというとき、「企画」が必要になる。しかし、自らつくりださずに与えられたイメージに帰属するというひとも少なくないし、若者のようにいろいろな思いつきのイメージのなかをさまようひとも少なくない。ともあれ、そういう流れは70年代初頭から少しずつ顕著になった。そこに「企画」が浮上した。

もちろん、こういう流れと食事や料理は無縁ではなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/17

70年代前半の何か

食べることを普通に楽しめない。グルメが競走になる。うまいもの好きを誇り何者かになったつもりになる。そういことを揶揄すると、他人の楽しみにケチをつける偏屈者に思われる。ま、いいだろう。

1968年、日本のGNPは米国についで第2位に。対米貿易収支は大幅出超で日米貿易摩擦発生。低開発国への援助(つまり資本進出)は世界4位。農産物の自由化、資本の自由化が、さらにすすむ。

72年ごろ、品川埠頭の保税倉庫、おれは巨大な冷凍倉庫に高く積まれた輸入冷凍エビの山を見上げ、ただただびっくりした。フィリピン、インドネシア、メキシコ、すごい量だった。そのエビを売らなくてはならない、日本人にくわせなくてはならない。なぜそのように冷凍エビが流れ込んでくるのか、あとでわかったが事情は複雑すぎる。日本人がエビ好きとはいえ、そのために買い付けたものではない。だから、「売らねば」ならなかった。

-190度ちょっとでの瞬間冷凍装置ができて、質のよい冷凍食品をつくる生産ラインが可能になったころだった。冷凍エビや冷凍エビフライの商品開発が始まった。問題はフライだった。コロモをつけ冷凍し、それを揚げたとき、うまくできあがらなくてはならない。まったく試行錯誤の世界だった。その専門の研究所、といってもじつにみすぼらしい小さな工場の一角でおこなわれていた。試作品を何度も食べさせられた。何度も築地市場のエビ問屋やエビ担当のところへ足をはこんだ。ウゲッ、思い出してもエビげっぷが出る。

冷凍エビフライは市場に出回りだした。しかし、消費者の扱いや料理に慣れてないこともあったし、製品的にも問題が多く、それはエビフライにかぎったことではなく、コロッケもそうだったがトラブル続出。それでも、冷凍食品への参入は続々で、市場は着実にのびた。

ああ、なにを書こうというのか。つまり、70年代には供給は過剰状態で、需要は「つくられる」時代になっていたということだ。「世界を食いつくす日本」は、少なくとも庶民は知らないまに始まった。貧乏臭い「神田川」と「中流意識」が混沌の時代だったが。とにかく、この前半あたりで、何かが、おおきく変わったのだ。何かが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/16

問題ワ~

雪印乳業の牛乳問題のときだが、よく実態も原因もわからないうちにマスコミあたりでは「初心にかえれ」ということが叫ばれた。まるで「初心」を失ったことが問題で「初心にかえれ」ばことが片付くかのように。

そして何も解決しないまま、その原因も正確にわからないまま、雪印食品の問題がおき、日ハムやら肉の嘘表示問題あるいは農家の農薬の不正使用などの数々。そしてまた、そのたびに「倫理」が問題になり、「むかしは、よかった、こんなことはなかった」という話でおわる。

たとえば、雪印乳業問題のとき、なぜ以前にあった全農の水増し牛乳問題が想起されなかったのか。それは、雪印乳業固有の問題とみたか、固有の問題として片付けたかったかのどちらかだろう。一方ほとんどのひとが、どの問題のときも、それは氷山の一角だと内心おもっている。たえず食品に不安がつきまとう。

問題の根は深い。そもそも「むかしは、よかった、こんなことはなかった」は、大間違いなのだ。戦後食糧難の時代、目が潰れる酒が売られていた時代、口にはいるものはどんなものでも売れた。つぎに高度成長期、つくれば売れる、まぜものをし水増ししても生産が追いつかない。「三増酒」なるものがはびこった時代。羊頭掲げて狗肉を売るという時代だった。その間に、こんにちの食を支える産業の基礎ができた。

農業とて例外ではない。なぜ日本人がこんなに楽々コメを食べられるようになったか。「農家が農業機械や農薬など新しい生産手段を取入れて技術水準を高めてきた結果でもあった」この間に化学肥料にも農薬にも鈍感になった。それを使うほど豊かになったのだ。水俣の問題は直接には地元の公害被害者の問題であることにはちがいないが、そこでつくられたものがいかなるものだったか、あまり話題になったことはない。そちらは話題にしたくはなかった、という「心理」が働いていなかったとはいえないだろう。

食については何をやっても何をいっても平気、グルメも言いたい放題やりたい放題という土壌は深く泥沼状態が続いている。レトルトカレーやカップラーメンの市場が「グルメな人びと」によってリードされるという現象を不思議に思わない感覚まではびこった。もっと「特別」や「最高」より「普通」「基本」「スタンダード(標準)」ということを考えなくては、この状態は続くだろう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/15

普遍的な味

おれはアジノモト反対論者ではない。グルメだのなんだのといいながら、アジノモトの現実を考えなさ過ぎるといいたいだけなのだ。つまり、戦後、とくに1960年代後半からこちら、食生活はどんどん変わった。米の味などずいぶんかわった、野菜も果物の味も変わった。うどん粉の味だってかわっているぞ。日常的な料理のほとんどは、かつてのつくり方も味もとどめてない。そして、変わったのだが、アジノモトの味だけは、普遍的なものとしてずっと生き続けている、グルメ騒動の味覚もそのなかで育った。

アジノモト、いまでは「アミノ酸」という。ラーメンだ、エスニックだ、イタメシだ、和食だと騒いだところで、しょせんアミノ酸に落ち着く。

そして、料理人は、やたら威張る。「この麺もうちょっと硬くしてくれないかなあ」「これもうちょっと甘くして」とでもいおうものなら、黙っておれがつくったようにくえ、という顔をされる。イタリアだかフランスあたりからきた毛唐のシェフに「日本人は楽だ、料理の味に注文をつけないから」なんていわれるのだ。これほどグルメ騒動をやってきて、なぜそういうことになるのか、疑問をもたないほうがおかしいだろう。そして疑問に思ったとき、その先にアジノモトがあるのだ。くそったれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/14

石油たんぱく

石油タンパク食品の商品化はメドがたっていた。まずはハンバーグあたりが、その市場になるはずだった。そして石油タンパク食品は、まさに「フレーバー食品」というにふさわしいものであった。

石油タンパクにアジノモト、それに、それらしい食品にするための添加物をくわえる。たとえば、ハンバーグにするなら、そのための添加物をくわえる。その添加物は粉末技術、最初のころは乾燥粉末化の技術、のちに冷凍粉末化の技術で、つくられる「フレーバー類」というべき添加物である。大雑把には、そういうものだった。

その石油タンパク食品の製造は、1973年の石油ショックで断念された。関係者のあいだには、落胆と、ほっとした雰囲気があった。

そのころは、アジノモトのトップメーカー味の素の製品は、石油からつくられているとの、もっぱらのウワサだった。四日市公害で名高い四日市石油コンビナートには、味の素の大工場があった。石油タンパクの製造はアジノモト技術がもとになっていることはいうまでもない。

石油タンパク食品の製造は断念されたが、そこに使われようとしていた「先端技術」は捨てられたわけではない。いずれにせよ、日本の台所、自然と鮮度がうりの築地中央卸市場の場外食品問屋の店先には、米袋にしたら10キロ相当ぐらいの大きさのアジノモトの袋が高く積まれ、どんどん売れていた。

1970年檀一雄「檀流クッキング」山本嘉次郎「洋食考」72年荻昌弘「男のだいどこ」吉田健一「私の食物誌」73年山本嘉次郎「日本三大洋食考」池波正太郎「食卓の情景」。銀座のネオンは消え、観念的なペダンチックな男の食通談義と若い女アンノン族の食べ歩きが世相のうわずみをにぎわしていた。まだ「グルメ」という言葉はなかった。1974年、永谷園インスタント味噌汁「あさげ」発売。セブンイレブン一号店開店。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/13

なにか関係ありそうな

昨日、「浮世のめし新聞」に京都のことを書きながら思い出したのだが、木屋町のへんもピンク産業が進出して派手な色にかわりつつあった。それに木屋町にかぎらず、はったりをかますようなたたずまいのラーメン屋が目立った。名前だって「天下一品」などと、おごっていて、こちらが恥ずかしくなる。こんな名前をつけるのは、まさに、ピンク店かラーメン屋ぐらいだろう。

どこの街へ行っても、にぎにぎしいのは、ピンク店とラーメン屋なのである。どちらも男が「夢中」になるのだから、なにか関係がありそうだ。ピンク店もラーメン屋も、ある種の、男の欲望処理機関としての共通性があるのかもしれない。そういえば、ピンク店の紹介記事も、ラーメン屋の紹介記事も共通性があるようだ。ピンク店の「作家」はラーメン屋のこともうまく書けるだろうし、ラーメン屋の「作家」もピンク店のことをうまくかけるような気がする。

とにかく、ピンク店とラーメン屋が目立つようになった街は、にぎにぎしくても、わびしく物悲しい。まっとうな街の未来や意欲が感じられない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/12

お休み

今日は、「浮世のめし新聞」の更新で大変だったので、お休み。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/11

米食といふこと

ま、それで、昨日の続きだが、コメやごはんについて、あるいは米食文化について、けっこう勉強しなくてはならないことになった。それはまた「日本料理とはなにか」と密接に関係する。

話はチョット飛躍するが、おれが『ぶっかけめしの悦楽』で、日本のカレーライスとインドの「カレー料理」は違う料理で同じ系譜ではないとする考えは、そのころぼんやり生まれたものなのだ。カレーライスの歴史は、あの魔法のカレーな粉末に惑わされていては理解できない。

「日本の米食文化は米渇望文化だった」と昨年末一緒に酒を飲んだあるテレビのプロデューサーがいっていたが、おれも同感だった。

1970年代の前半、マイク真木がテレビのブラウン管から「ごは~ん」と叫んでいたとき、日本はようやくすみずみまで米食の日常が定着しつつあった。70年代のはじめは、まだ一部に「コメもくえない貧乏な生活」があった。本当は、「コメもくえない生活」を「貧乏」とする考えそのものが、まさに米渇望の米食文化なのだが。

そして70年代を通じ、米食が日常のすみずみまで定着する時代が、グルメの時代前夜だったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/10

「ごは~ん」

1972年生まれの真木蔵人が父親のマイク真木のまわりをヨタヨタ歩き、母親の前田美波里がお茶を運んできてマイク真木のとなりに座った。74年ごろのことだろう。かれらを乃木坂のマンションに訪ねて、コマーシャルの打合せがあった。

新発売の商品は、「鮭茶漬け」「五目ご飯」「とり釜飯」などのレトルトごはんシリーズだった。そのキャンペーンのためにマイク真木が起用されたのは、「あのアメリカンなマイク真木さんも、ごはんが好き」というイメージで売るためであると、大手広告代理店の担当は説明した。「バラが咲いた」のマイク真木は、その後これといったヒットはなかったが、当時のヤングマーケットの主力だった団塊の世代には、そのうたと共に知名度があった。ま、それはともかく、マイク真木が「ごは~ん」と叫ぶだけのCMを砧のスタジオで一日がかりで撮影するのに付き合ったり、約一年近く「あのアメリカンなマイク真木さんも、ごはんが好き」を仕事にすることになった。

しかし、おかしなことだと、おれは思った。日本人に、アメリカンのイメージでごはんを売らなくてはならないのだ。日本人が米食民族だというのは本当なのだろうかと、考えざるを得なかった。根っからの米食民族が、いくら戦争に負けたとはいえ、こうも簡単にパンにイカレてしまうものだろうか。しかも当時のパンは、かなりマズイものだったし、いっぽうコメのほうは「宮城のササニシキ」がブランドとして有名だったが、パンよりはるかにうまいものだった。どう考えても、おかしい。

そして、原因はいろいろあるが、レトルトごはんは惨憺たる結果に終った。

ハンバーグ、ハンバーガー、ファミレス、ファーストフード、ケンタッキーフライドチキン、シェーキーズ、オイルショック、狂乱物価、田中角栄、長嶋茂雄引退……そのレトルトごはん発売のクライアントは丸の内にあって、ある日午後イチぐらいの打合せを始めようとしていると「ズーン」という鈍い響きがした。近くの三菱重工ビルで爆弾が爆発したのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/09

「食べる」という行為の変質

昨年の『週刊宝島』11月20日号に「『食』通が選ぶ本当に旨い焼き鳥店10」というタイトルのページがあって、そこで田崎真也さんとおれが「対談」をしたようなあんばいになっている。

つまり、そのリード文には、「全国の大衆食堂を練り歩くグルメ作家の遠藤哲夫氏と、世界一のソムリエ・田崎真也氏がおすすめする都内の焼き鳥10店を紹介。隠れた名店、老舗のこだわり焼き鳥を語り尽くす」とあるのだ。ということを知ったのは、単独でインタビューを受けたあと、発売日にキヨスクの売店でその雑誌を手にしたときだった。編集者による、まったく見事な「演出」で、このていどのことはよくあることだし、田崎さんとおれが「対談」など、こういうカタチでしかありえないと思うと、その内容も含めギャグではないかと思わせる面白さもあり、とくに抗議はしなかった。

で、ようするに80年代後のグルメの時代の特徴というのは、「全国の大衆食堂を練り歩く」といったセリフが、とても意味をもっているということなのである。

このおれのケースの場合は編集者が創造的におれに与えてくれた名誉だが、おおくは「グルメ作家」自身が、全国1000軒食べ歩いた、15歳のときから食べ続けている、週に一回は食べ続けている、などといったセリフを吐いている例は、めずらしくない。

それはグルメの時代には、「料理評論」や「エッセイ」としての価値より「データ」や「情報」の量が決め手になっているということを意味する。いわゆる「グルメ記事」や「グルメ本」あるいは「グルメ番組」のおおくは、まずは情報価値として存在するのである。実際に、そこに書かれていることが、どんなに幼稚な内容で論理も見識も未熟というものであっても、情報的価値さえ満たされれば問題にならない。逆に、どんなに成熟した見識や正確な論理や新鮮な発想があっても、情報的にしか判断されない。そのことを敏感に察知した編集者や作者たちが、作品的には無意味ともいえる量を誇ったとしても、当然なのだ。

それはまた、こんにちのグルメにおいては、「食べる」という行為が、情報的な行為に変質しているということでもある。「グルメ作家」は情報的存在であり、料理もまた、情報的存在なのである。

その流れは、ほぼ1970年代前半から始まり顕著になり、80年代には大きな流れになった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/08

そして大衆食堂が残った

とにかくそして、かつての家庭料理は崩壊したのだが、家庭料理と同じように卑下されていた家庭料理(エラそうな「プロ」にいわせれば「シロウト料理」)を提供する大衆食堂には、「『グルメ』だの『本格』だのによって覆い隠されてしまった、フツーにマットーにメシをしっかり食うという行為が、まだある!」ということになったのだ。

「プロの外食店」はもちろん、コンビニ弁当やオニギリが、あるいはお惣菜屋弁当屋チェーンが、あるいはラーメン屋が蕎麦屋が、「プロの味」で、家庭料理や大衆食堂のめしは、それより劣る「シロウトの味」という構図が、いつしかできた。もちろんそれはイメージであり幻想なのだが。そこに外食や中食の内容はないが美しそうにだけは見える、造花の花が咲いた。

その構図ができるにあたっては、「グルメのリーダー」たちは、少なからぬ役割をはたしてきているといえるだろう。かれらは、グルメあるいは料理人というよりは、針小棒大の広告屋みたいなものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/07

料理は楽しくない、のか?

外で食べるのが外食、買ってきて食べるのが中食。「中食」なる言葉ができたのは、台所から料理が消えたあとの、ごく最近のことである。家計にしめる外食費と中食費の割合が50パーセントを越える世帯が急増した。それは単身世帯や共働き世帯の増加も背景にあってのことだが、中食についていえば、長い不況も関係するだろう。

しかしそれは社会的経済的理由にすぎないのであって、それらが全てではない。家庭料理を支えきれなかった文化的理由、つまり精神的な何か原因があったとみることもできる。

それはまた家庭料理の地位に関係する。家庭料理は軽蔑され貶められ、だからやっても楽しいものではなかったのだ。「女の義務」として位置づけられ、その「義務」を「愛情」をもってするようにと「躾」られる体系的な構造があった。ともすると「いやいや」あるいは惰性の義務あるいは義務をすすんでまっとうする喜びのなかで、家庭の料理は成り立っていた。

家庭では料理は楽しいものではなかった。楽しいものとして継承されてこなかった。だから「女性の地位が向上」した社会において、女性が先頭きって外食や中食に走ったとしても、なんら不思議ではない精神状態があった。

なんら評価されない仕事、上手にできてあたりまえと見られている仕事を、よろこんで続けられる人間は少ない。家庭料理をになってきたものたちが、どんなに簡単にアジノモトを受け入れ、しかるのちに外食や中食を積極的に受け入れたとしても、非難することはできないだろう。

そして、家庭料理を女の義務、愛情として躾けてきたひとたちは、その流れを非難しつつ一方では「家庭料理の社会化」として「家事の社会化」の流れのなかに「合理的」に解釈したりした。

家庭で料理をつくるのは、楽しくないのか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/06

「プロの味」

おれが食のマーケティングに初めて関わった1970年代に、「プロの味」は錦の御旗になった、といえるだろう。「プロの味」があふれ、おれ自身この言葉を広告や販売促進に、どれぐらい使ったかわからない。「プロの味だからいいに決まってる!」ということで、ところかまわず、この言葉がペタペタはられた。

それはまた、ただでさえ地位の低かった家庭料理を、決定的に貶めることにもなった。そして、その滅びゆく家庭料理を懐かしみ惜しむように、「おふくろの味」や「ふるさとの味」がありがたいものになり、街頭の看板をにぎわした。つまりこの時期に、家庭料理の「プロ化」もはじまったのだ。いまコンビニをにぎわすニギリメシや弁当など。あるいはカレーライス。家庭料理は貶められただけではなく、「プロ化」という解体もともなって、崩壊したのだ。

すでに今日では明白だが「プロの味」とは、じつは、いうまでもなく、「産業の味」「工業の味」のことであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/05

家庭料理の行方

江原恵さんが、『料理の消えた台所』を出版したのが1986年、続いて88年に『家庭料理をおいしくしたい』を出版した。そのころ「一億総グルメ」という言葉が流行語になった。

もうちょっと記憶をさかのぼってみると、たしか1970年代の後半に、庖丁のない台所が1割をこえていたはずである。そしてそれは「男の料理」が話題になり「男子厨房に入ろう会」ができたりしたころだった。

おれは家庭で料理をつくり食べるのが正しい姿であるとの考えに必ずしもこだわらないが、日本の家庭料理は、家庭の食事が躾や家族の絆にと重要視されてきたわりには、不当に軽んじられ肩身のせまい思いをさせられてきた歴史がある。そのことと80年代からのグルメブームが簡単に外食に走ったことは無関係ではないと見ている。

かつて、おれが1962年に高校を卒業するまでの故郷の家庭の台所は、甘味でも白砂糖と中白砂糖あるいはザラメ砂糖そして黒砂糖あるいは水あめを使いわけることがあった。ダシも、煮干に昆布、鰹節や削り節が常備されていた。その歴史には、ほとんど関心がもたれないまま、むしろ軽蔑と卑下と劣等感のなかで、グルメが登場したのである。

もちろん日本の家庭料理が劣っていたというのなら、それは仕方のない一面もあるだろうし、実際に日本の家庭料理などはお粗末で、料理とはいえないなどというひともいる。それにしても、その優劣をはかるモノサシが問題になっていいのではないか。日本の家庭料理を直視し評価する必要があるのではないか。

ということを考えたとき、グルメブームとは、台所の現実からの「逃避」と、その一つの形態である「陶酔」なのだということに気づく。「逃避」と「陶酔」、これこそグルメブームの核心となる、こんにちの日本人の心性なのだ。それは家庭料理に対する、長いあいだの蔑視からもたらされた、ともいえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/01/03

あけましておめでとうございます

ま、新年があけました。よろしくお願い致します。

年末は京都をうろちょろし、もどって一日休んで秩父は小鹿野町の山奥へ。今日帰ってきた。あわただしい年末年始だったが、なかなか内容の濃い年末年始でもあった。

とくに京都では、初めて入った飲み屋で、そこのオヤジの同級生という常連客と盛り上がってしまい、翌日の夜は、そのひとの案内で木屋町通りの飲食店で、またもや食いかつ飲み盛り上がり楽しく過ごし、しかも二軒目ではみやげまでいただきごちそうになってしまうという大散財をかけてしまった。

なんのはずみか知らねども酔いにまかせ、これも人生これも旅これも酒、旅先で初めて会ったひととこんなことがあっていいのだろうかと思いながら、ずうずうしくご厚意に甘えてしまうという、めったにないよい旅をした。

いや~、まだ、日本も京都も捨てたものではない。と思うのが当然だろう。この報告は、近々当サイトでやるぜ。木屋町通りで行った店は、「黒川」と「カロウロウ館」だから、ご存知の方がいるかもね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2002年12月 | トップページ | 2003年2月 »