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2003/02/11

「家庭料理」

北大路魯山人さんといえば『美味礼賛』のサラヴァンさんとならんで、食の話や食通談義によく登場する。かれは高額会員制美食クラブ「星岡茶寮」をつくり、自ら料理や器をつくり提供し、世の名の知れた食通をうならしたらしいが、いわゆるクロウトではない。

魯山人さんは昭和10年に、こう書いている。「家庭料理は、謂わば本当の料理の基であって、料理屋の料理は之を形式化したものだ。之を喩えて言ふならば、家庭料理は、料理といふものに於ける真実の人生であり、料理屋の料理はその芝居である。之は芝居であるばかりでなく、芝居でなければならないのである」

いいこといっているねえ。

それから約40年後。江原恵さんはいう。「家庭料理という言葉自体が変則的なのであって、家庭料理と料理とはもともと同一なものであるはずなのだ。それに対して、料亭料理、レストラン料理は”売りもの”である。商品だから、実質以上の価格とそれだけの値打ちがあると思わせる何かが必要になる。その何かこそ外観の美であり、場所の雰囲気であり、食物の由来とか産地直送とかいう『嘘』なのである」

江原さんが、こう書いた最中1970年代に、すでに食事や料理は「プロの料理」がふりまく虚像つまりイメージの虜になっていた。プロの料理に「値打ちがあると思わせる何か」は、メディアが競って演出することになった。その状況は、今日まで続いているが、かつてなかったものである。

そこに、自らの料理を料理と自覚できずに、たかが「おかず」たかが「家庭料理」と思い込んでいる大衆がいた。自らのコロッケやカレーライスを卑下し、「本格的な」フランス料理や懐石料理やインド料理などを「元祖」「本物」と仰ぎ、マスメディアやグルメライターがふりまく能書きに「美食」を見出す「グルメ大衆」は、そこから生まれた。

そういうわけで、やがて、料理であり続けたのは大衆食堂の「おかず」しかないという状況になる。

ま、その大衆食堂のおかずには、魯山人の好物であり死の病原を運んだといわれる「タニシの煮付け」までは、さすがになかったが。タニシなんか、おれがガキのころは、ニワトリのえさだったよ。人間が食べるものとは思わなかった。芸術家として名を成してからも貧しいガキのころの「タニシ料理」を愛し続けた魯山人にとって、それは「真実の人生」だったのかもしれない。そういう料理を自らの逸品としたいものだ。

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