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2003/02/04

割烹ということ

今日は「やよい食堂」の更新をしたので、簡単にやるつもり…。

「割烹店」といえば「日本料理店」のこと。その「割烹」は「割主烹従」のことである、と「日本料理界」ではいわれてきた。

では「割主烹従」とは、なんなのだ。ネット検索をすれば、簡単に、このような文言をみつけられるだろう。

某氏いわく……昔から日本料理の基本的な性格は「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」であり、これは材料を切り割いてそのまま食べる生ものの料理が主で、煮たり焼いたりするといった火を使う料理は従であるという考え方です。日本料理では一つの献立を立てるときに、まず刺身を何にするか決め、それから煮物や焼物を決めていくのが常道で、はじめの刺身に何を持ってくるかで献立全体の性格がおおむね決まってしまいます。

某氏いわく……「日本料理では包丁技術こそ最も重要で、煮炊きといったものはそれに従属するものである。」と言った趣旨の主張をされた事を覚えている。言われてみれば確かに、これはこの先輩に限ったことではなく、日本料理界の一部に、未だに厳として存在している考え方である。それを証明するかのように、お造り(刺し身)をひくのが許されるのは、調理長並びにそれに次ぐ者のみ、といった厳しい掟が存在する調理場はまだ多い。しかも、この業界を代表するような一流店に、そういった風潮が濃く残っているのは如何したものであろうか。式包丁を修め、高価な本焼きの包丁を使うことで自分を誇示する。そういったお偉いさんが、まだまだ君臨しているのが今の日本料理界の現状である。

このことは、そのうち詳しく触れる機会があるかもしれないが、多くの文献資料でも同様だ。

そして「日本料理」が「家庭料理」を峻別して貶めてきた歴史は、「料理」が「惣菜」つまり「おかず」を峻別し貶めてきた歴史でもあった。「おかず」といった日々の料理をになうものは、それを日本料理として、日本の歴史と伝統に生きる料理として認識することも、誇りに思うことにも、欠けていても当然であり、それを簡単に捨てたとしても不思議ではない状態だったし、それを「日本料理」に非難されるすじあいではないといえるだろう。「料理」は、もともと「おかず」を見下していた。

いま、こういう「日本料理」の考えは、1970年代をさかいに変わりつつあり、また、混迷を深めつつあるといえるようなのだが……。

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