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2003/04/06

そもそも安曇氏と高橋氏

そうだ、安曇氏と高橋氏の内膳司をめぐる対立抗争だった。792年(延暦11)に太政官符という、きわめて上位の判断の結果、安曇氏の失脚が決定的になり高橋氏が、以後、天皇家の飲食を請け負う内膳司の長官職を独占することになる。

このジケンは直接的には、当時の高橋氏と安曇氏が、新嘗祭のときの行列で、どちらが先に歩くかの順番をめぐる争いから始まっているようだが、そのいきさつはとにかく、庖丁儀式がなければ成り立たないような「日本料理」の背骨となる思想「割主烹従」の出現と大いに関係すると思われるし、その時期が、天皇家を血縁関係で乗っ取ったようなカタチの藤原氏が実権を握っていたなど、さまざまな背景を考えると、ほかにも日本の料理や食の歴史に関係する、いろいろなことが推測できてオモシロイのだ。

安曇氏の「失脚」というが、安曇氏に格別の落ち度があったわけではない。安曇氏と高橋氏が内膳司の長官を務めることについて、とくに高橋氏からは不満があって、たびたび安曇氏を失脚させる運動があったと思われるのだが。残っている「高橋氏文」によれば、高橋氏の祖イワカムツカリが景行天皇の東国行幸についていったとき、いまの千葉県津田沼だったか幕張のあたりでだったと思うが、カツオとハマグリを獲って膾(なます)にして献上したら天皇がよろこんで「膳臣」の姓と大伴部つまり「部民」という私有民を与えた、そしてさらにイワカムツカリが死んだとき天皇は悲しみ、ワシの膳職のことは末永く膳臣の子孫にまかせるよ、と言った。という趣旨の文を提出し、高橋氏こそ内膳司の長官にふさわしいのであるという主張をしていた、その主張が792年(延暦11)太政官によって認められたということなのさ。

イワカムツカリが景行天皇についていった年というのは、景行天皇53年。西暦に対応してみると、123年だね。この景行天皇の東国行幸というのは、景行天皇のムスコのヤマトタケルが東国平定をやったあとを見てこようと出かけたらしいのだが、なにしろ、この天皇は西暦に対応させると190年に107歳で死んだことになっているよ。邪馬台国のヒミコの時代より古いやね。ま、そもそも、この天皇に関する記述は、年齢からしてくいちがいがあっておかしいのだが、この際そういうことは、どうでもヨシとしよう。

問題は、この安曇氏と高橋氏、なにから何まで正反対なのだ。ウギョ文字制限

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