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2003/07/31

コロッケ傷害事件2

アヤシゲ新聞は、この事件に関連して「グルメの堕落」という連載特集を組んだ。そのなかで事件の発端につながる言葉、佐藤氏の……「気に食わないものが出たら、お膳を引っくり返せ。さもないと一生うまいものは食えないぞ」と、池波正太郎は教えている。……この引用の方法は疑問があると述べている。

それを池波正太郎が書いているのは、『食卓の情景』の「大阪から京都へ」においてなのだが。池波は京都で偶然に会った若い友人の片岡を連れて鷹が峰の料亭〔運月〕で食事をする。池波はうまいと満足し、片岡に「どうだ、うまかったかい?」ときく。すると片岡は、ここからである

……彼は、はにかんだようにうつ向き、
「ええ。ですけど……、ぼく。納豆と味噌汁が食べたかった、でも、いいんです。明日の朝は、宿で食べられるから……」
「新婚半年で、朝の味噌汁と納豆がな食えねえのか?」
「ええ。ワイフがそんなものは下等だからといって……毎朝、ハムエッグとトーストと、それから……」
「勝手にしやがれ」
と、私は舌うちをし、
「君のような若いのを、おれは二人も三人も知っている。食べたくないものが出たら食卓(おぜん)をひっくり返せ。それでないと、一生、食いたいものも食えねえぜ」

……こういう話なのだ。

アヤシゲ新聞は、このくだりについて、池波のこの言葉は、若いものに対する池波の苛立ちであって、佐藤氏のように嫌いなものを出されたら、「お膳をひっくり返せ」という短絡的な「教え」としてよいだろうかと疑問視している。

しかし、佐藤氏自身「その教えを早いうちに実行し」たのだから、アヤシゲ新聞の疑問はもっともだが、ことはもっと深刻だ。夫Aは、池波正太郎のその文章だけだったら、ジャガイモのコロッケをだされたぐらいで、食卓をひっくりかえしはしなかったであろう。そう思いながらメシドーは尻を拭いて立ち上がり便器の水を流した。
(つづく)

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2003/07/30

再びファンタジー 「コロッケ傷害事件」

そして月日は流れ星のように去り、アヤシゲ新聞社のひとは変わったかもしれないし変わらないかもしれない……。

アヤシゲ新聞によれば、その事件は、そもそもの発端がじつに今日的でありバカグルメ的だった。

夫婦は結婚3ヶ月目で、夫Aが37歳、妻B29歳。夕食にダイニングキッチンで、妻Bがジャガイモのコロッケをつくって出したところ、夫Aが怒ってテーブルごとひっくりかえした。そのテーブルが妻Bにあたった拍子に、妻Bがよろめいて手をのばした先に庖丁があった、カーッとなった頭で、それを夫Aにむかって投げつけたところ、右腕に刺さった。もちろん命に別状はない。

事件の概要は、そのように単純なものだった。問題は、なぜ夫Aが怒って妻がつくったジャガイモのコロッケをテーブルごとひっくりかえしたかなのである。

夫Aは、相当なグルメを自認している、とのことである。いろいろなグルメ本や記事を読んでいる。そのなかに、小説新潮1999年5月号があった。夫Aが読んだ記事は、佐藤隆介氏の連載「池波正太郎の食卓」で、その13回目「クルケット変じてコロッケの和魂洋菜」だった。そこには、このようなことが書かれている。

……イモ、クリ、カボチャが嫌いである。一日汗水流して働いた挙句に、晩飯のおかずが馬鈴薯(じゃがいも)のコロッケじゃたまらない。
「気に食わないものが出たら、お膳を引っくり返せ。さもないと一生うまいものは食えないぞ」と、池波正太郎は教えている。その教えを早いうちに実行したから、この三十余年、私の食卓にイモ、クリ、カボチャが登場したことは一度もない。

佐藤氏の好き嫌いの話とうまいまずいの話の混乱があるが、それはともかく夫Aは、これを読んで、うまいものくうがために、自分もそれを早いうちに実行しようと思っていた。佐藤隆介さんも池波正太郎さんも、そのようにしてきた、自分もそうやろう、そう結婚のときから決意していた。

が、しかし、夫Aは、ジャガイモが嫌いなわけではない。そうではなくて、ジャガイモのコロッケは間違いで、であるがゆえにうまくないと、おなじ記事で思い込んだのだった。つまり、佐藤氏は、こう書いている。

……そもそもコロッケはジャガイモで作るものと思うほうが、私にいわせれば間違いである。本来は安上がりの庶民のおかずどころではなく、非常に手の込んだフランス式の料理の一品なのだ。
(つづく)

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2003/07/27

生業の輝き

きのう、”「生存の文化(生きぬく力)」「生業の戦略」「田舎者の根性」という視点”って、ことを書いているが、まさにそうなのだ。そして、グウゼンにも、きのう初めてこのサイトをご覧いただいた、このサイトに紹介をしているお店の娘さんから、つぎのようなメールをいただき、あらためて、この視点について考えることになった。

いただいたメールは、一部省略するが、こんな内容である。


こんばんわ。以前、載せて頂いた……の娘です。今日は隅田川の花火大会で実家に行き(今は世田谷に嫁いでます)このホームページのプリントを両親にうれしそうに見せられ、さっそく家に帰ってきて、実物を見させて頂きました。
もう二人とも年なので、早くやめたいがくちぐせでしたが、(特に母が父にゆっくりさせてあげたいみたいで)今日は二人とも誇らしげにプリントを見せてくれました。
私もとってもうれしくなり、メールを打つの初めてなんですけど、打ってみました。本当にありがとうございました。
……中学時代は、家が近かったので、男子にからかわれたり、出前にきた父に会ったりして、なんか恥ずかしくていやでしたが、今では、商売を続ける大変さがよく分かり尊敬しています。
両親の励みになったと思います。これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。


どうです、よい話でしょう。こういうメールをいただくと、サイトをやっていてよかったなあと、シミジミ思うのであります。

『大衆食堂の研究』を読んだ方はわかると思うが、そもそもおれが関心のある大衆食堂というのは「生業の店」であり、そしてそのほとんどは現在のご主人は東京生まれだとしても、何代か遡れば田舎の出身の親があらわれるはずなのだ。

つまり、田舎では食べることができず徒手空拳で東京で食う道を探さなくてはならない者の文化の系譜である。そのパワーが東京の生業に息づいているし、それがかつては「職人」「町人」「下町」などといわれる東京の庶民文化の底流にある。そのことを自ら田舎者であるおれは、スルドク感じるのだ。

もっともっと「生業の輝き」を見直したい。それは「大都会で生きる」ということの意味の問いかけでもあるだろう。

ああ、すごいことを今日は書いたぞ。

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2003/07/26

ふーむ

探しものアンド整理していると、忘れていたイロイロなものが出てきておもしろい。そのたびに作業が中断するのだが……。これは、なにかの下書らしい。たぶん『大衆食堂の研究』が発売になった1995年のものだろう。


『大衆食堂の研究』は、「いかがわしい無名文化の探究」なのである。ひとむかし前まで「民衆文化」とか「大衆文化」などといわれていたなかには、無視され棄てられいかがわしい存在になりながら、けっこうエネルギッシュに生きているものがある。そこには生存にかかわる大切な「何か」が凝縮されて残っているような気がする。その熱源のそのままを、郷愁の「激情駄文乱れ打ち」にのせて、発散させた。おれの流儀である「生存の文化(生きぬく力)」「生業の戦略」「田舎者の根性」という視点を掘り下げながら──。
おれたちの青春があった、あのなつかしい昭和30年代の大衆食堂の「教え」はなんなのかを考えてみたわけです。


ふーむ、そうだったのかあ……


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2003/07/25

いいわけ

じつは、ここのところ、資料を整理しているというか、イロイロ探している。なにしろ、一度つかったものは、もうどこにあるかわからない、一度もつかってなかったらもっとどこにあるかわからない。画像にしても文章にしても、そんなアンバイなのだ。

で、見つかったものを、このサイトに載せておくと、ま、管理というか、管理というとキットこれじゃあ管理になってないよと言われるかもしれないが、とりあえずサイトに載せておくと、ああサイトをさがせばよい、とおれはアンシンなので、それで、ここのところ更新にはおもしろくでもない資料のたぐいが増えるのである。

どのみちめんどうくせえ。

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2003/07/21

ただただ

夜な夜な酒を飲む日々で、どうもマットウに日記を書く気がしない。もともとマットウに書いているつもりはなかったが、日々終電で帰る飲み疲れが蓄積されると、毎日ソルマックを1本飲んでは酒場にむかうという有様になり、ホームページ作成はあとまわしになることがわかった。アル中にはならなくてもソルマック中毒になりそう。

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2003/07/17

優しいおれ

テレビ番組の制作会社のひとからの電話やメールが増えている。ある民放のおなじ番組の話なので、同じ会社かと思ったが違うらしい。少なくとも違う人物が3人いや4人か、お互いに連絡をとりあっていないことは確かだ。

テレビ局や下請けの制作スタッフとはイロイロ仕事をしている。彼らはヒジョーに評判が悪い。天下の公共放送の局にしても、そうだ。どういうわけかおなじメディアでも活字系とはずいぶん違うのである。ま、活字系だって、ずいぶんヒドイがね。強引だ、嘘をつく、誤魔化す、人をタダ働きさせる、貸したものを無くす、情報を扱いながら著作権やもろもろの無形の権利を無視する、などなど経験者のあいだには「あいつらクズだ」の怒り話はいくらでもある。

ついでに言えば、この日記によく登場する江原恵さんも何度か天下の公共放送に登場した。おれも一度、ある民放の録画撮りに付き合ったことがある。そしてそのことで局スタッフと喧嘩して、以後テレビに出ることはやめた。それは、どういうことかというと、番組司会者が江原さんのいったことに、まったく別の解釈をあたえるコメントで内容を歪曲したからだ。録画の場合、本人はそのことは、放映になってから知る。そんなことはいまでも日常茶飯事なのだ。最初に結論ありき、ほかは、その演出の道具にすぎない。

だからということもあるが、おれはテレビを見ない。ウチにテレビはない。見る前から、どんなネタであろうが、落ち着く先は決まっている。例の「予定調和」ですよ。

正確にいうと、そういうテレビ業界の「体質」を恥じて、まっとうにやろうという人もいる。おれが知るかぎり極少数だがいる。そういう人とは酒を飲んでいます。

で、まあ、おれは、そういうことは承知で付き合っている。とつぜん電話やメールで、コレコレのことを教えて欲しい、このひとの連絡先を教えて欲しい、あるいは貸して欲しい。顔も知らない人間に、そんなウッカリ教えられるかということまで平気できかれる。コトによっては軽くいなしたり逃げたりするが、基本的にはなるべく親切に対応してやるのがおれの「流儀」だ。「裏切られた」と思うのは、期待するからで、おれは最初から彼らに何も期待してない。となれば、人間として、親切にしてやる道が残っているだけだ。おれって、優しいのね。いまも夜中に彼らの1人のために写真を探しています。午前2時半。

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2003/07/16

ロワゾーさんのお言葉

「ありふれたものを美味しく食べる」には思想があり技術がある。「食べることは生きること」この言葉は、おどろくべきことに、そして当然のことなのだが、フランスの有名な三ツ星レストラン<ラ・コート・ドール>のオーナーシェフ、ベルナール・ロワゾーさんが口にしているのだ。『NHK未来への教室 SUPER TEACHRS 明日への船出』(NHK出版)に載っている。

彼は、こう言う。「私にとって『食べる』という行為は、生きていることを実感する、一番美しい瞬間です」

彼は、また子供達にむかってこう言う。「私だって、君たちのお母さんに負けない、おいしい料理をつくりたいと思っているが、それは不可能だ! だって、誰にとってもお母さんの味が世界一なのだから!」

「ふつう民間」の料理を見下してきた日本の料理人からは、こういう言葉は聞かれない。日本の料理人には、ロワゾーさんのように、「家庭料理こそが食の原点」という思想がなかった。それはまた「ありふれたものを美味しく食べる」思想の欠如につながっている。

しかし現実の生活では、「ふつう民間」では、「ありふれたものを美味しく食べる」ことが必要とされていた。「家庭料理こそが食の原点」だった。でもそれは、現実的にそうだったのであって、確固とした思想だったわけではない。

それは、むしろ「貧しい食事」と卑下され、「ふつう民間」の料理を見下す思想のもとで、「恥ずかしいもの」という劣等意識をもたされてきた。

だから、70年代以後バブルの時代に、多少の金銭的ユトリの「中流意識」の家庭が競ってそれを捨て、きらびやかなウンチクにまみれたハリボテのグルメに走ったとしても当然といえば当然だったのだ。

日本は、あるいは日本の料理人はフランス料理から多くを学んだはずだが、この根本だけは学ばなかった。そして、こんにちのグルメは、「家庭料理こそが食の原点」「ありふれたものを美味しく食べる」という基本を欠いた、ある種、奇形な存在となった。

それは、日本料理の奇形な存在と深くかかわっている。

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2003/07/15

昨夜も、加賀屋でありふれた美味しい煮込みを食べながら

ああ、昨夜は、またしても東京八重洲の加賀屋。ここは、当サイトのリンクにある、いま話題急上昇中のミニコミ雑誌『酒とつまみ』の編集長大竹さんご愛顧だが、しみじみ猥雑でよい酒場だ。んで、まあ、ありふれた美味しい煮込みを食べながら、ありふれた民衆の酒ホッピーをグイグイやったわけだ。

しかし、ホッピーというのは東京で盛んなだけなのだよね。東京じゃあ、おれが上京した1962年に、もう安酒場でホッピーはあたりまえだったからね。だけど、九州で焼酎飲みまくったひとも、ホッピーは知らんのだよね。関西と北海道は最近ボチボチらしいが。

そのように、ありふれたものというのは、地域ごとに違いがあって、自分の地域ではありふれたものというのがイロイロあって、おもしろいのさ。

ま、そういうわけで、今日はね、そんなに二日酔いじゃないが、ま、加賀屋のあとも飲んだからね、ま、そういうありふれた飲兵衛の夜でしたってこってす。

そうそう、12日の日記に、11日に加賀屋のあと中野の松露へ行った話で、松露は中野の「51番街」とあるけど「45番街」の間違いね。45番街に入る路地の角のところのコンビニの番地が、51番なのさ。

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2003/07/14

ありふれたものを美味しく食べる……温サラダ

1990年江原恵さんは、『辰巳浜子―家庭料理を究める』を書いた。リブロポートの「シリーズ民間日本学者」のなかの一冊で、編集部からの依頼だった。

NHKテレビの料理番組「きょうの料理」は1957年に始まる。初期の主な出演者といえば江上トミ、赤堀全子、飯田深雪、河野貞子、土井勝、辻嘉一、といった顔ぶれだが、そういうプロに混じって辰巳浜子さんがいた。

彼女は、夫が大会社の役員とはいえ、サラリーマンの主婦で「ふつう民間」の料理のひとだった。ついでにいえば、1977年に亡くなっている。1960年『手塩にかけた私の料理』1969年『娘に伝える私の味』1973年『料理歳時記』と、シロウトらしいペースでの出版で名著を残した。

江原恵さんの『辰巳浜子』のイチバンの面白さは、その3冊の名著を比較して、辰巳浜子さんがテレビに出演し有名になりプロの料理人との交流がふえるにしたがい、その影響を受けて彼女が、あるいは彼女の料理や料理に関する著述が、どう変化したかに触れているところだ。「家庭料理と料理屋料理―辰巳浜子の遺した課題」である。

ま、それはともかく、辰巳浜子さんは、暑い夏に子供達のために「煮サラダ」をつくった。ちかごろでは「温サラダ」といわれる。野菜の蒸し煮で、おれもときどきつくる。江原恵さんもつくっていた。

江原恵さんの調理法は「玉葱、トマト、人参、じゃがいも、ピーマンまたはさやいんげん、それにチージとバター、塩、胡椒という、ありふれた野菜の蒸し煮である。厚地の深鍋に下から右に書いた順序で、さやいんげんかピーマンを一番上に重ね、塩胡椒を適当にふりかける。その上に小さなさいの目に切ったチーズを散らし、バターをおき蓋をかぶせて密閉する。ガスは初めからとろ火にする」

もちろん野菜はテキトウに切る。おれの場合は「玉葱、トマト、人参、じゃがいも」のほかの材料が違う。キャベツを使う。ほかに辰巳浜子さんのようにベーコンを使うことが多いが、使い方が違う。ようするにイロイロにやりようがある。ありふれたものを美味く食べることを体験するには、じつによい。

うーむ、食べたくなったなあ、これがビールのつまみにもよいのだ。夏は、けっこう身体がよわっているから、温サラダはなかなかよい。

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2003/07/13

日本料理の伝統3

「そして、後者の新しい味覚を集大成し、洗練するのは支配層である。初期アメリカの新しい味覚開発についてもそのような事情があった」といった児玉さんは、続けて「景行天皇の五十三年」ときたもんだ。

景行天皇というのはヤマトタケルのオヤジだよ、そのとき「国造(くにのみやつこ)十二人に命じて、将来膳夫になる候補者各一人を差し出させたとのことである。すなわち、各地方の食品に精通している候補者を育てるためである。これは、新しい食物を開発して取り入れようとする企画であった」

いやあ、おどろきだね、これだけなのだよ。これだって、彼女の勝手な解釈なのだが。やはり彼女も、それじゃあマズイと思ったのだろうね。なにしろ、民俗学者や文化人類学者などが、そういう収集をどんどんやっている状況があったから。そこでか、彼女は、こういうのだ。

「民衆の食事については、乏しい資料にもかかわらず、民俗学者の苦心の聞き取り調査の結果から見ると、現代の栄養学の基準に照らしてもかなり立派な栄養を摂っていた例を見つけ出すことができる。」「ただし、それについての私の解釈は、そのよい栄養摂取は、……」「これらは特殊なケースであって」と切り捨てるのだ。

最初は料理の技法の問題として「ふつう民間」と「日本料理」はちがうのだと威張っていたのに、ここでトツゼン「栄養」を持ち出して、「ふつう民間」を切り捨てる。とにかくマジメに収集も集成も研究もやってない。そういうものに「ふつう民間」はふんだり蹴られたり。

料理人にとって重要なことは、そういう創造的な研究ではなかった。その点は1977年『日本料理史考』の中澤正さんのほうが正直である。「まったく同じ仕事をする料理人」「流儀に沿わない勝手な研究や工夫は許されない。これが徒弟制度に必要な絶対条件だった」「こうしたわけで、料理人は親方によって教えられたことを一途に守り続けることになる。先輩(兄弟子)や親方の意に逆らうことなく、指示どおり動いていれば、やがては煮方・真板と出世ができる」「料理が同じ、材料の買い方用い方、三杯酢の味、煮物の味、盛り付けまでそっくり同じ、さらに、善いことも悪いこともすべて同じになったとしたら一体どうなるだろう」

そういうものを範にしてきた。そして、おおくの「グルメ」は、まだ相変わらず、そういうものを範にしている。日本料理、家庭料理の衰退は当然だった。

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2003/07/12

加賀屋のち松露のち日本料理の伝統2

ああ、昨夜は東京駅八重洲口の加賀屋で飲んでいたのだが、先週の金曜日4日に行って、どうしても気になる中野の51番街「松露」にハシゴしてしまった。このあいだは松露についたとき、すでにだいぶ酔っていたので、あまり記憶が正確でなかった。そこで、いろいろ確かめたいことがあった。とはいえ、また二軒目であるから、すっかり酔ってしまい、もう一度いかなくはいけないぐらい覚えてない。と、また行く口実にするのであります。でもこのあいだは終電に間に合わなかったが、昨夜は終電にからくも間に合った。

4日の日記の訂正をすれば、ご主人は66歳ではなく67歳、女将つまり奥さんは80歳は間違っていなかった。女将は4歳のとき都心から阿佐ヶ谷に越してきて、1965年に松露を開店している。おれが中野へよく行くようになったのはそのころからだから、うろ覚えのところが話ながら、いくつか確認できた。ま、とにかく、近々、当サイトにジャンクな写真と共にレポートしよう。

さてそれで昨日の続きだね。まだ酔いが残っているようで、めんどうな話はめんどうだな。

「新しい食物は、支配階層に所属する専門の料理人によって開発されるほかに、また食品環境のすぐ側で日常的に食品に接している民衆のなかからも生まれる」と児玉さんは書く。「また食品環境のすぐ側で日常的に食品に接している民衆のなかからも生まれる」と、これは地方料理や郷土料理のことのハズだが、素直にそのようには書かない。なんというまわりくどい表現だろう、「地方料理」や「郷土料理」はシロウト料理だから認めたくないのだろう。

さらに続けてこういう「そして、後者の新しい味覚を集大成し、洗練するのは支配層である。初期アメリカの新しい味覚開発についてもそのような事情があった」

ここでトツゼン「初期アメリカ」が登場する。なんじゃ、関係ないだろうと思うが、そうでもしなくては、コルドン・ブルーのように地方料理に敬意を払う立場とはちがう、どうしても自らの優位だけを強調する立場を正当化できないのだろうね。どこまでも君臨し威張り、とにかく自分たちだけが「日本料理」だと言い張りたいのだ。しかし「後者の新しい味覚を集大成し」というが、その事実はいつどのようにあったのか、彼女たちの「日本料理」は本当にそれをやったのか。じつは彼女自身が、このあと、やってないと証明している。(つづく)

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2003/07/11

日本料理の伝統

『日本の食事様式』という本がある。「その伝統を見直す」というサブタイトルである。1980年の中公新書。著者は当時帝京短期大学教授、日本料理四条真流師範という肩書の児玉定子さん。家政学会の重鎮でもあった。

明治維新によって日本料理の伝統が中断したと児玉さんはいう。「当時の上層武士階層と下層武士階層の食事の水準はかなりの落差があったが、下層武士階層の青年たちは、上層のサムライたちの食事を見たこともなかったといえば、いいすぎになるだろうが、なじみがなかったことは確かだろう」、その「下層武士階層の青年たち」が支配層になったことで、日本料理の伝統が中断されたというのだ。

日本料理の伝統は中央の上層にしか存在しないという考えがみられるし、児玉さんはそれを積極的に主張している。「ここで念のためにいっておきたいことは、私たちが日常食べている食べもの・料理は日本料理ではないのか、日本料理は中断されずに続いているではないか、日本料理の伝統とは何をさしているのか、という疑問である」「ここで私が日本料理の伝統と称するものは、私たちの周辺で見られ、考えられているものと画然とちがうのである」

こうして彼女は、彼女たちの流派料理を「ふつう民間」の料理と比較し、どんなに優れているか述べる。そして「そこで調理人は、素人目には一見どこもちがわないように見えても、気にくわない材料だと、客に辞を低くして膳を出すことをことわるということすらある」というのだ。なるほど高いカネもらっていれば、それは当然であり、ジマンするほどのことでないと思うし、そんなことはワレワレ「ふつう民間」には関係ないことで、流派料理にカネを払う金持たちに向かってセールストークとして言ってもらえばいいのであって、そういう話を日本国民の伝統料理たる日本料理を論じる際にする神経が、そもそもおかしい。

がしかし、それはよしとしよう。彼女は現代の人だし、家政学会の重鎮であるから、彼女たちの日本料理が、日本の地の料理の集大成でなければ、説得力がない一流一派の料理にすぎない時代になったことは理解している。しかしかといって歴史的に彼女たちの日本料理は、そんな集大成をするような事業や努力はやってきてない。むしろ自ら分裂に分裂を重ねてきた。

であるから、ここは強弁をはるしかない、そして強弁をはることで、馬脚をあらわす。(つづく)

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2003/07/10

ありふれたものを美味しく 2

たとえば、かの有名なフランスの料理学校コルドン・ブルーの東京校のサイトでは、このようにフランス料理を説明する。

「フランス料理は地方料理の集大成といわれるように、フランスの各地方は、それぞれが特色豊かで、独自の伝統的な郷土料理がたくさんあります。初級コースでは、基礎コースで習得した基本技術をもとに、より高度な調理法、複数のテクニックの組み合わせなどを、フランスの地方料理のレシピを通 じて学んでいきます。日本人でも耳にしたことのある、アルザスのシュークルート、トゥールーズのカスレ、マルセイユのブイヤベース、などが登場します。地方料理をはぐくんできたフランス各地方の文化を訪ね、フランスのガストロノミー文化の奥深さを垣間見ることができます。」

「フランス料理は地方料理の集大成」であると。地方料理を通じて学ぶのであると。フランス料理においては伝統は郷土料理にある。もちろんその郷土料理は家庭料理でもある。他の国においても、このように明快に定義しているとは限らないが、実体としてそうなのだ。

がしかし、わが日本料理はちがう。「日本料理」は地方料理の集大成ではない。前に日記で書いたように日本料理の伝統は懐石各派や四條流などの「流派料理」にある。しかも日本料理は、郷土料理やその母体である家庭料理を「シロウト料理」と言って見下してきた。日本料理は自分たちの庖丁の冴えを自慢することはあっても、このコルドン・ブルーのように、地方料理や地方文化に敬意を払ったことはない。

日本料理は「中央」「上層」の料理であり、そこで食べさせてもらってきた料理人の料理なのだ。それは「中央」「上層」ならではの特別の選び抜かれた材料、素晴らしいシュンの材料に頼ったものであり、その料理は「ありふれたものを美味しく食べる」料理とは、美味学の根本も技術も異なっていた。その料理屋料理、料理人料理に美味学を求めても、日本料理つまり家庭料理に未来があるわけではないと、江原恵さんは主張した。

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2003/07/09

ありふれたものを美味しく

7月2日に書いた1983年江原恵さんの『台所の美味学』は、「ありふれたものを美味しく食べる」がテーマだ。「台所の美味学」は「料理屋の美味学」「料理人の美味学」に対している。「料理屋の美味学」や「料理人の美味学」は台所の範にならないし、そういうものを範にしていては、日本料理つまり家庭料理は成り立たないというのが江原さんの主張だった。

「料理屋の美味学」や「料理人の美味学」は、よく聞かれるお題目「シュンの選び抜かれた新鮮な素材」に美味学の根本がある。しかし家庭の日常においては、それは不可能だ。ありふれたものを使って料理する。家庭の日常どころか、日常の外食店の料理においても、そうであるはずだ。

であるかぎり、「ありふれたものを美味しく食べる」が「台所の美味学」の根本にならなくてはならない。

が、しかし、80年代の「一億総グルメ」は、江原さんの主張とはまったく逆に、「料理屋の美味学」や「料理人の美味学」を範にし崇拝する方向へむかった。そして江原さんは86年『料理の消えた台所』88年『家庭料理をおいしくしたい』というぐあいだったが、ときすでに遅し。

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2003/07/08

快食

ま、「快食」とは「あるものをうまく食べる」ということだね。

二つの面があって、「あるものをよりうまく食べられるように料理する」ということ、もうひとつは、できた「ある料理をうまく食べる」ということで、前者は「料理」あるいは「台所」の問題、後者は「食事」あるいは「食卓」の問題なのさ。

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2003/07/05

ああ

先夜の疲れもぬけきらないうちに、またもや終電を逃す飲み方をしてしまった。中野のちゃんこの「力士」のあと45番街へ行ったのがいけなかった。

この一角は中野のブロードウエイ周辺の住民ですらめったに足を踏み入れないところだそうで、昨夜は実際40年間そのあたりに住む、しかも不動産会社の社長も一緒だったが、初めてその一角に足を踏み入れたと言っていた。

いやあもう、細い路地をぬけるとブワーーーーーとそこだけ、何十年まえかの昭和の飲み屋街がトツゼン出現したようなあんばいなのだ。かつての新宿のゴールデン街がそのまま残っているような。

入ったのはそこで古株の「松露」。なかのつくりもカウンターに2畳ぐらいの小上がりというぐあいで、そのまま。もちろんみんな古い木造だ。

それでついつい長居して泥酔してしまった。しかし、シビレタ頭で思い出したのだが、そこの80歳の女主人もその66歳の夫!もずいぶん若々しくて、いやあオドロキ。写真撮ってきたから、そのうち掲載するよ。

うーん、頭がいたくて、やらねばならない仕事があるのに、なんだかできそうにないなあ。あががががが

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2003/07/03

ああ

飲酒朝帰り。ヒトはなぜ朝まで酒を飲むのか? 
なかなかよい酒だったが、トシだから疲れる。
仮眠所つき安酒場ってのができるといいなあ。

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2003/07/02

異常

当サイトで貧乏食通研究所>食文化本のドッ研究>年表・戦後は、1988年の江原恵さんの「家庭料理をおいしくしたい」で終っている。というか、とりあえず、それを年表の最後にして、その後はつくってない。

「家庭料理をおいしくしたい」は草思社の刊で、そのまえ86年に同社から刊の江原さんの「料理の消えた台所」の焼き直しを含んだ続編という恰好だ。

この時期は、いうまでもなくイケイケ一億総グルメ騒動の真っ最中。その時期に、こういう本が出た。そこに今日まで続く「グルメブーム」の性格というか本質があらわれている。それは年表にしたがって主な食文化本を読んでいくとクッキリしてくる。ようするに、美味学的関心が希薄なのだなあ。

これはじつに奇妙な現象だ。美味学的関心のないグルメなんて存在するのだろうかと思われるのだが、日本には、存在するのだ。はやい話が美味学的関心なんか持たなくても、情報誌など片手に食べ歩きして、何軒食い倒したと足し算しながら、うーむこれは素材の味が生きている、はーんこの野菜の味は力強くてスープの味に負けていない、ねーんオーガニックの味は素晴らしい、ナーンテことをいっていればグルメであるというふうになってしまった。

江原恵さんのデビュー作は、江原さんとおれが出会った1974年の「庖丁文化論」で、これがリクツ編としたら、83年の「実践講座 台所の美味学」はタイトル通りその実践編と位置づけることができる。台所の美味学は、81年5月からアサヒグラフに約一年間連載されたものを本にした。

その前年80年10月に、江原さんとおれは「生活料理研究所」をつくった。そして81年に渋谷東急デパート本店の前に飲食店「しる一」を開店した。いずれも80年代前半のことで、その間で、これらの「実験」は終る。それは「台所の美味学」を追求する「生活料理」の「実験」だったといえるだろう。

そのころ江原さんと話していたことだが、「美味学」に「台所」をつけ、「料理」に「生活」をつけなくてはならない異常があった。美味学とは台所で生まれるものであり、料理は生活であるはずなのに、ワザワザそう表現しなくてはならない状況が、すでにあったのだ。

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2003/07/01

ダイコンオロシぶっかけめし

なんてえのかね、こう暑くなってくると、ダイコンオロシぶっかけめしってのがよいね。ダイコンをすりおろしてさ、めしにかけて醤油をたらして食べる。めんどうくせえときは、いきなり丼飯の上にすりおろすんだな。

これはまあ基本のシンプルの何もないときだけど、そこへ納豆でもシラスでもナメコやエノキの瓶詰めでも、ま、なんでもよいのだが、居酒屋にある「ナントカおろし」の安いツマミのたぐいは、なんでもめしかけて食べられる。

しかし、とくにオススメはやっぱカツオのナマリ節だね、これをだいこんおろしをかけた上からちぎってはのせて、どんどん山積みにする、その上から醤油をかけまわし、さらにレモンをギュッとタップリしぼるわけだよ、そしてかきまぜながらサラサラサラ食べる。もちろん別の器に、そのかけものをつくっておいて、スプーンでめしにかけながら食べてもいいのだけど。これはもうウメエウメエでねえ、二日酔いでもウメエからめしがくえるのさ、ああヨダレが出てきた。

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