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2003/07/11

日本料理の伝統

『日本の食事様式』という本がある。「その伝統を見直す」というサブタイトルである。1980年の中公新書。著者は当時帝京短期大学教授、日本料理四条真流師範という肩書の児玉定子さん。家政学会の重鎮でもあった。

明治維新によって日本料理の伝統が中断したと児玉さんはいう。「当時の上層武士階層と下層武士階層の食事の水準はかなりの落差があったが、下層武士階層の青年たちは、上層のサムライたちの食事を見たこともなかったといえば、いいすぎになるだろうが、なじみがなかったことは確かだろう」、その「下層武士階層の青年たち」が支配層になったことで、日本料理の伝統が中断されたというのだ。

日本料理の伝統は中央の上層にしか存在しないという考えがみられるし、児玉さんはそれを積極的に主張している。「ここで念のためにいっておきたいことは、私たちが日常食べている食べもの・料理は日本料理ではないのか、日本料理は中断されずに続いているではないか、日本料理の伝統とは何をさしているのか、という疑問である」「ここで私が日本料理の伝統と称するものは、私たちの周辺で見られ、考えられているものと画然とちがうのである」

こうして彼女は、彼女たちの流派料理を「ふつう民間」の料理と比較し、どんなに優れているか述べる。そして「そこで調理人は、素人目には一見どこもちがわないように見えても、気にくわない材料だと、客に辞を低くして膳を出すことをことわるということすらある」というのだ。なるほど高いカネもらっていれば、それは当然であり、ジマンするほどのことでないと思うし、そんなことはワレワレ「ふつう民間」には関係ないことで、流派料理にカネを払う金持たちに向かってセールストークとして言ってもらえばいいのであって、そういう話を日本国民の伝統料理たる日本料理を論じる際にする神経が、そもそもおかしい。

がしかし、それはよしとしよう。彼女は現代の人だし、家政学会の重鎮であるから、彼女たちの日本料理が、日本の地の料理の集大成でなければ、説得力がない一流一派の料理にすぎない時代になったことは理解している。しかしかといって歴史的に彼女たちの日本料理は、そんな集大成をするような事業や努力はやってきてない。むしろ自ら分裂に分裂を重ねてきた。

であるから、ここは強弁をはるしかない、そして強弁をはることで、馬脚をあらわす。(つづく)

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