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2003/11/06

観念的味覚

日本人の味覚は「観念的」である。と、かつては問題になったが、そのことが話題にならなくなって、ますます「観念的」になっているようで、ブキミだ。

「手づくり」「シュン」など、それは正しくそうなら、もちろんよいのだが、はたしてそうか。

たとえば「手づくり」が主だった時代は、修業の年数がものをいった。それは長ければよいということではなくて、「手づくり」というのは、人間のワザに頼るわけだから、バラツキがでやすい。それを、修業によって、克服する。それが成り立つ仕組みのなかで長年くりかえされた蓄積があって可能なのだ。

脱サラていどで、トツジョ蕎麦打ちをし、「手づくり」や「地粉」「臼引き」をうたい文句にしたところで、うまくいくのはよほど才能のあるひと、天才である。しかし、めったにいないはずの天才がゴロゴロいることになっているのだ。となると、食べるほうの味覚を疑ってみなくてはならない。「手づくり」「地粉」「臼引き」であれば、「うまい」ということになってしまう観念の存在が問題だろう。

一方では、どこそこの「地粉」「臼引き」の手打ち蕎麦より、輸入蕎麦の機械打ちのどこそこの立ち食い蕎麦の方がうまい、などといわれたりする。

「手づくり」「地粉」「臼引き」などは、味覚を表現する言葉としては不適切のはずなのだが、味覚の形容に使われることは少なくない。「シュン」なども、じつにイイカゲンで、たとえばホウレンソウのシュンは、どの時期のどこの、採れてから何時間後ぐらいまで、どの状態までなのか、などは正確ではない。であるのに「シュンだからうまい」ということが、まかりとおっている。そういうイイカゲンなことでありながら、仔細な味を問題にするようなウンチクを傾ける。どうなってるの?

そもそも昔は、シュンのものではない干物を多く、じつに巧みに使っていた。

観念的な味覚は煽動されやすい。とくに短いあいだにイメージや流行に左右されやすく、そういうなかで食品や料理が選択され、あるものは拾われあるものは棄てられ、というぐあいにやってきた結果が今日の食の姿ではないだろうか。

そういうイイカゲンさを考えると、イメージや流行に左右されることの少なかった「時代遅れ」の大衆食堂の料理は、日本のなかでは、まっとうな現実に生きているほうだといえるだろう。

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