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2003/11/29

クソクラエ魯山人2

『文学界』という雑誌だったと思うが、同人誌に載った作品を批評するページがある。そこで以前、批評家は誰だったか忘れたが、陶芸家を主人公にした作品を批評していたことがあった。

そのなかで、陶芸あるいは陶芸家が文藝の対象になることはよくあるが、陶芸や陶芸という芸術をやるひとを主人公にすることで作品が芸術性を持つという錯覚や自己陶酔があるようだ。その作品もそういう例だというような指摘をしていた。

そして、ナゼそのように陶芸が芸術の対象になりやすいかというと、アレは焼き上がりがどうなるかわからない神秘性がある、それを経験と勘で判断する職人芸がつきまとう、そういうものを芸術と錯覚するひとが多い、というようなことを言っていた。

陶芸と料理は似ている。魯山人は、陶芸と書と料理を主な芸術活動の対象にしたわけだが、そのうち陶芸と料理は、満足な仕上がりのためには職人的な経験と勘が必要な部分が残るものである。で、職人芸的に満足できると、ホラこれが芸術だと錯覚しやすい。それができる自分、それがわかる自分は、特別な人間であるという優越感や自己陶酔が発生しやすい。

魯山人の場合も、そういう傾向があった。そもそも、芸術に強くアコガレていたフシがあるし、そして芸術家として認められる過程で、芸術家はエライと思うようになったフシがある。そういう俗物性は、彼の魅力でもあって、彼ぐらいにやりとおせば、ハッタリの上手い詐欺師か芸術家かわからないところがあって、とても面白い。

問題は後世、彼がいった、「美食で非ずんば口にしないというような見識」を備えなくてはならない、とか、料理は「こみあげて来る真心でつくらなければならない」とかを、そのまま鵜呑みにし、あれはダメなってない、これはよい職人仕事と区別し、あるいはランキングしていくことで、自分がさも美食家、グルメであるかのような錯覚や自己陶酔に陥るとなると、これはもうバカじゃないのとしかいいようがない。

しかし、「職人芸」「職人仕事」といった古い時代的な基準に、まだ酔っているグルメの多いことである。「匠」なんていう文字が、工場生産のラーメンのパッケージに印刷されているのを見ると、グルメとは「自己認識や社会認識に欠けるひと」という意味ではないかと思ってしまうね。

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