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2004/05/13

日本料理のナゾあるいは真相

伝統主義日本料理の特徴をいいあらわす言葉に「割主烹従」がある。略すと「割烹」だ。「割」つまり切り裂くことが主で、煮るなんてのは従よ。これは伝統主義日本料理の「なまもの主義」「素材主義」の思想を表している。であるから「板前」のあいだでは「板長」がイチバン偉くて、板つまりまな板の前で庖丁をつかって、刺身をつくれるのは「板長」だけなのだ。ワレワレは伝統主義日本料理における板長の権威を信じて疑わなかった。

しかし、これはホントウに古くからの伝統なのか。『日本の食とこころ』(国学院大学日本文化研究所編、慶友社、2003年3月)で、岩井宏實さん(国立歴史民俗博物館民俗研究部長、この発言当時、帝塚山大学長)は、こう語る。

「実は日本人の食生活がそのまま神饌となっているのではないか。だから神饌を調べることによって日本人の食生活がわかるのではないか」

神饌というのは、神事のときに神に捧げる食べ物のこと。これを神と人間が一緒に食べるというのが、祭りの中でも御神輿ワッショイより大事な儀礼なのだ。

その神饌について岩井さんは、こういうね。「実は現代の神饌というのは、神道が国教化されまして、ここでは神饌はどういうふうにお供えするかが決められた。……これは「神社祭式行事作法」で定められました。これは明治八年から始まりまして、明治四十年に完結するわけであります。このときに、神様には清浄なものを奉らなければならないという考えから、生のものを捧げるようになりました。いわゆる生饌であります。今日われわれが見るのも、一般には生饌です」

「しかしながら、現代においてもなお、……伝統的な行事において伝統的な神饌を捧げているところがたくさんあります。これを見ますと、まさに熟饌であります。すなわち煮炊きしたもの、調理したものです。というのは、われわれが日常食べているものをそのまま、同じ方法で調理をして、それを神に捧げて、われわれは日常こういうものを捧げ、食べて生活を営んでおります、これも神のおかげであります、と。神様はこれを味わってくださいと。それを人間が頂いてここで神人共食の実をあげるというものです。だから神饌を調べていきますと日本人の食生活というものが、ある程度明らかになるのではないかと思うわけです」

神と人の共食にあたっては「人が採取あるいは作りうる最高のものを、最上に盛りつけて供えようとすることは当然でした。その最高のものというのは、いわゆる山海の珍味というものではなく、それぞれの時代の人々がもっとも食生活に恩恵を与えられた食料で、盛りつけもたんに美しく見せるということではなくて、それを食べた時代にもっとも好まれた調製・調理の方法であり、盛りつけでした。このような食料を、こう調理しておいしく食べられるのも神様のお陰であると捧げ、神様に賞味して頂き、神様と共に食べる」それで、人の神にたいする崇拝や一体感を確認したのだと。

つまり、あれですな、カレーライスやコロッケや肉じゃがのようなもの、つまり大衆食を神と一緒に食べたというわけですよ。となると、あの板前が威張っている伝統主義日本料理は、なんなのでしょうか。神と人びとのあいだに割って入り、日本人の食のこころをナマモノ崇拝にゆがめたのは、ほかならぬ伝統主義日本料理ということになるのでしょうか。

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