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2004/05/14

食通以前と昨日の続き

■カテゴリー「グルメ・クッキング」に「食通以前」を掲載。

■昨日の『日本の食とこころ』(国学院大学日本文化研究所編、慶友社、2003年3月)続き。岩井宏實さんの発言だが。「神饌は神と人とのコミュニケーションの一番重要なものでありますから、ありのままのものを神に捧げたということになります」と昨日まとめたとおりだが、もう一つ、おどろいたことがある。

伝統主義日本料理のギョーカイにそびえる権威、「日本料理の粋を継承しつづけてきた」とかいう「日本料理四条流」の四条司家が、先祖祖先祖神として祭る談山神社は、そもそもが藤原鎌足を祭っている。

これは岩井さんの話では、神仏習合で一体として神事が行われていたところで、その神饌は仏供が神事にとりいれられ伝承されたもので、「極めて造型的であり、そして熟饌ではなくて、生饌」なのだ。それは、なぜかというと、仏供のほうは「実はむしろ鎮壇を荘厳にすることのほうに意味があったようです。人間と神様が、神人共食するということではなくて、むしろ仏供のほうは供えることに重きが置かれたので非常に造型的なものになります。この造型的な供え方の方式は、大陸からきたのではなかろうかと思われます」と。いや、確かに、カラー写真でしか見たことがないが、談山神社の神饌は、色も派手だし、どこか大陸的だね。

となるとだよ、四条流などの「日本料理」の伝統が、見た目を大事の料理の細工にこったのもわかる気がする。しかし、そうなると、これは「日本料理の粋」といえるのかどうか。少なくとも、先祖様が和漢折衷では、いまの日本の食が和洋折衷で乱れているナンテいえないだろう。やはり江原恵さんが指摘のように「雑食文化」こそ日本料理の伝統なのではないか。

ま、ともかく、藤原家だの四条家だのと、わけのわからん古い系図を持ち出したところで、生活の美味として位置づかなくては意味がないのさ。

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