旬とニセモノと渡辺勝
ま、「旬」は、悪くない。つい最近、23日も、六日町の万盛庵で「かぐら」つまり「かぐらなんばん」を食べた。まさに旬も旬、その日の朝、わずかにとれた初物を、4個だけ、食べた。カグラナンバンは、まだ、ほんのかすかに辛味がついたていどで、色もピーマンのように青かった。
おれが上京するまでの六日町の生活では、ピーマンなんていうニセの野菜などはなく、夏は圧倒的にナンバンであり、しかもカグラナンバンであった。「ピーマン炒め」などとはいわず「ナンバン炒め」だった。それは青色から始まって、赤味が増すごとに辛くなって、ま、赤くなったら、辛味として使わなくては食べられないぐらい辛くなった。
そのころは納豆だって、暑くなると姿を消し、肌寒くなる秋に登場するものだった。その納豆と比べたら、いまの納豆なんか、とうてい「自然食」なんていえない。
とにかく、野菜の「旬の味」ということであるならば、そのように、在来種か在来種に近いものを、その日の朝とって、その日中に食べなくては、すくなくとも「伝統的」な「旬の味」とはいえないだろう。厳密には、朝露が野菜に生きているあいだに賞味する味である。
それは、このカグラナンバンなどそうだし、ほかのほとんどの野菜がそうだったが、おれがガキのころの田舎では、それが可能だった。野菜は切った瞬間から劣化がはじまり、朝露がそれを遅らせた。
そういう生活が、イマ、どのようにどれぐらい可能であるかというと、特別にカネを出すならべつだが、都会のフツウの生活では、ほとんど不可能だ。
ああ、かつてのホウレンソウなら、朝の摘みたてを、サッと茹で小さな赤い根をつけたままカジルと、たちまち身体がカッとした。イマ、その感覚に近いものを味わいたかったら、どこぞの清流の岸辺に生えているセリを食べてみると、よいだろう。あのセリを、その清流でサッと洗って食べる、と、プチィと苦味走った味が口中にひろがり、やがて身体がカッとなる。
なんの話だったかな? なんの話でもいいのである。
で、そういう旬の味の野菜とくらべたら、いまの野菜は、ほとんどニセモノということになるのだが、そういう野菜を「旬の味で、うまい」ナンテほめるやつは、いちばんのニセモノであろうということさ。
ま、かくいうオレも、ある種のニセモノなのだが。なにも「正統派」「本物派」ヅラすることはないということ。
そういうわけで、いまからでも遅くはない、今夜は「なってるハウス」で渡辺勝さんのうたを聴きましょうね。
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それゆけ30~50点人生。
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