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2004/09/03

「食事評論」は難しい、か?

昨日のつづき。「そもそもフツーの飲食をテーマにするのは、とても難しい」について。それは、特別に強いものや特別の他人の不幸などがないと感動できない日常があるように、「特別なもの」「奇なるもの」に感動を頼る日常があるからだともいえるが、ほかにもワケがあって、こう書いている。

そのワケの1つは日本の食文化の特殊性にも起因する。素材や産地などモノのイワレや調理のウンチクなど、つくる側の情報を「賞味」することに眼目があり、自ら飲食を楽しむセンスの向上は眼中になかった。

からである。これはガイド文にからんでのことだが、評論のばあいは、もっと関係するだろう。

食事は日々のことだから、誰でも、その評論は、やれるはずなのだ。あるいは、ナントナク、やっているはずだろう。にもかかわらず、イザとなるとなかなかうまくできないのは、ワレワレが生きている日本の文化が、フツーの食事を楽しむことに未成熟、積極的ではなかったからだと言いたいのだな。

同時代史的にみれば、そういう未成熟状態であったのに、トツゼン70年代後半に「食文化ブーム」が、80年代に「グルメブーム」90年代「B級グルメブーム」へ、ということになる。これは、直接的には工業社会の成長による環境変化、加工食品産業や外食産業の成長がもたらしたものだが、そのように食文化的には未成熟であったから、「何軒たべあるいた」という実績を誇り、ミシュランガイドを真似て「うまいまずいの評価採点」をすることが、それで山本益博さんが「料理評論家」をなのって成功したこともあって、あたかも「評論」という作業の第一義であるかのようになったのだと考えられる。

「何軒たべあるいた」「うまいまずいの評価採点」が評論の第一義になった、これを仮に、その成功者にちなんで「山本方式」というなら、それは食文化の未成熟段階での現象であり、1人の価値基準に大勢が従うという、自由な個人の価値観にもとづいた楽しみとはおよそかけ離れたものであったが、歴史的に仕方のなかったことだったといえるだろう。

しかし、もはや山本方式は、過去のものになりつつある。山本さん自身、かわっている。ここ30年ぐらいのあいだに、それなりに食文化は成長し、ワレワレは食事を楽しむ文化を、それなりに体得しつつあるのではないか。「評論」に対して、従順であるだけではない。

ところが、かつての山本方式が、まだ通用するし、またその方式での成功を夢見る人たちがいる。食事を楽しむことに、自分らしさ、アイデンティティなど関心がない人たちは、まだ少なくない。おれは世代論には組しないが、「個人としてのアイデンティティがないことに、危機感がない団塊の世代の男性」といわれたりする人たちが、まだ量的影響力を保っているしね。

というぐらいで、今日は、オシマイ。一つ、かんじんなことは、自分が「うまい」あるいは「まずい」と思ったら、なぜそう思ったかを考えることが、欠かせないように思う。そのことで、「うまい、まずい」をこえるのである。そもそも、自己を問わない「評論」など、およそナンセンスだと思うのだが。

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