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2004/11/26

松本清張と大衆食堂

『大衆食堂の研究』HTML版に、「激動編 大衆の道、めしの道、食堂の道」の「一、流行現象だった大衆食堂」を掲載した。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_index.htm

この章節は「時の流行作家松本清張の大衆食堂」から始まる。戦後の昭和を語るとき松本清張ははずせないだろう。松本清張が登場し活躍した時代は、おれが青春から中年にいたる時期で、ほとんどの作品をリアルタイムで読んだ。そのうちの何冊かは、大衆食堂でめしくいながら開いていたはずだ。

松本清張の作品には大衆と大衆食堂がたびたび登場する。とくに、ここに引用する『黒い画集』の「紐」は、じつに巧みに大衆食堂を描いている。松本清張ならでは、といえる。

ことしの『文学界』7月号だったと思うが、菊池寛の、特集だったか、があって、とうぜん松本清張のことにもふれている。菊池寛も、菊池寛を尊敬した松本清張も、日本文学のお山の大将・夏目漱石とはちがう山へ向かった人たちだ。そのことと、松本清張が巧みに大衆食堂を描いたことは関係あると思う。文豪・夏目漱石の作品には、大衆的な飲食店は登場しない。カレーライスの歴史の話に、よく『坊ちゃん』に登場する飲食店が引用されるが、あれは極めて少数のエリートが利用するところで大衆とは関係ない存在である。

おれは文学のことは知らないが、体験的に夏目漱石には疑問があり、文学的に批評することはできないから、「横丁学オモイツキ」という雑文で「横丁」を語るとき、夏目漱石をひっぱりだして強引に、アイツは、あるいはアイツの文学は、「横丁」系ではなく「大通り」系のものだと書いたことがある。対して、「横丁」系として永井荷風をもってきたが、ちょっとまずかったかなと思っている。松本清張をもってくるべきだった。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9413/yokocyo_gaku.htm

ともあれ日本の「純文学」というのは、大衆や大衆食堂を描ける力をもっていないというビョーキを持つことによって「純文学」である、というふうに思うことすらある。そのお山の「文学者」たちが「うまいもの」を語っても「生活」は語れないとしても不思議はないし、「文学者」を中心にした「うまいもの談義」が、大きく生活からはずれたのも必然だろう。その影響下のグルメにも同じビョーキがみられる。

ついでにいえば。コンニチの日本の食文化は、文士や文化人たちの生活感と生活観の欠如した「うまいもの通」コンプレックス、これはまとめて「食通コンプレックス」とでもいえるか、それから魯山人の「料理は芸術よ」コンプレックス、サヴァランの「美味は教養よ」コンプレックス、そして比較的あたらしい「料理は食べ歩きランキングよ」のミシュランガイド・コンプレックスを、いかに克服するかが課題だと思う。

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