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2005/01/16

毎日英文タイプライターを打っていた

昨日飲んでいる最中にエヌが、「おれたちはさあ若いとき英文タイプをやっていたからパソコンのキーボードになじみやすかったのだよ」といったので思い出した。

エヌはおれより2歳上だ。おれは大学2年のときだったかな? 親父の商売はゆきづまり倒産、家は競売にかけられ両親が路頭に迷うかっこうになった。ま、倒産で家がなくなるのは二回目だったけどね。一回目はおれが小学校4年のとき。だけど今回は再起不可能というかんじで、両親は身一つで、東京の工事現場の飯場に転がり込んだ。

おれは短期臨時雇用や長期臨時雇用を転々とした。当時は「アルバイト」と「短期臨時雇用」「長期臨時雇用」が区別されていた。一日短時間の労働はアルバイト、社員と同じ勤務時間だが3か月だったか6か月だったか以内の雇用契約は短期臨時雇用、6か月だったか1年だったか以上の臨時雇用が長期、という区別だったと思う。つまり短期臨時雇用や長期臨時雇用だと、実質社員と同じように働くから、大学へは行けない。2年の後半ぐらいから、そんな生活だったような気がする。

そしてもう自分は大学生という気持はなかったが大学生年齢でいうと4年の春に就職、つまり「臨時」ではなく「社員」として雇用された。その会社でエヌと出会った。1966年の春ということになるか?

その会社が海外旅行専門の会社だった。当時は東京オリンピックあたりで自由化された海外旅行をねらって、海外旅行専門の会社がどんどんできていた。自由化されたとはいえ、いまと比べると旅券をとるにも、ビザを取得するにも手続きが面倒で、シロウトじゃ無理だった。外貨の持ち出しも制限があって、一定額以上になると日銀に申請し許可や承認が必要だった。これらの手続きは、旅行社が代行して行い手数料を得るというのが普通だった。

とにかく毎日、英文タイプライターに向かって、英文だらけの書類を作る日々だった。しかし、おれもエヌも英語なんか、まったく知らんよ~、話せないよ~。だったのだ。どうやって仕事していたのかねえ。でも「ABC」という部厚い、世界中の飛行機ダイアや運賃がのっている本をめくりながら、航空機のキップの手配とか、みんな英語でやっていたのだよなあ。どうやっていたのだろう。思い出せない。

しかも、入社数ヵ月で、大阪に支店つくるからおまえ行ってつくれ、なーんて言われて一年間も長期出張になり、大阪支店をつくったなあ。そのときには、自社企画の団体ツアーの集客営業もやらなくてはならなくて、おれなんかまだ海外旅行もしたことがないというのに、課長がコレ見て行って来たフリして営業しろと渡された、彼が前年ツアー添乗で撮影したスライドを見て、もう海外旅行のベテランですという顔して営業した。それで100名ぐらいの集客をしたんだよなあ。おもしろかったけど、いま考えると、よく大過なくやれた、おそろしい。

その大阪で、約一年間不眠不休で仕事して、無事に大阪支店はできたのだけど、おれは帰京してすぐ身体をこわし心臓発作で倒れ、ちょうど住んでいた荒川区熊野前の近くにあった東京女子医大に運ばれ、長期安静と医者に宣告され、あわれ会社はクビ。会社というのは、そういうとこだと、身にしみたね。

そして、両親が転がり込んでいた飯場の窓のない薄暗い部屋で、世間から忘れられたように誰とも会うことのない寝ている生活のときに、エヌが訪ねてきた。彼は、おれの枕元で涙を流して帰っていった。

ま、そういうことを思い出したので、また忘れないうちに書いておく。同じ会社で英語も知らないのに英文タイプライターを打っていたエヌとおれだが。エヌは、その後転々のち某業界トップの会社を育て、先年それをM&Aつまり売り払って悠々自適の生活に、おれは相変わらず、ま、こんな調子。

そういえば『大衆食堂の研究』の原稿もワープロだった。キーボードを苦もなく叩きHPを作っているには、こんな事情もありました。とさ。

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