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2005/01/25

飯屋すずめで内田百閒さんの話

おととい23日、ザ大衆食に掲載の「まる代」を書きながら思い出した。この店のように、玄関土間を店にしたような食堂が、バブル前つまり1980年代前半ぐらいまでの東京の都心には、けっこうあった。

おれがよく利用したのは、千代田区五番町にあった「すずめ」、食堂というより飯屋という風情の店だ。JR市ヶ谷駅から麹町の通りへ向かって日本テレビ通りの坂をのぼると、最初の交差点が五番町。そこを右に曲がれば、おれが仕事していた事務所があったのだが、左に曲がって左側すぐ、いまは大きなマンションの位置に、すずめはあった。

古い二階建ての木造家屋で、間口二間ぐらい、入口は4枚ガラス戸だったと思う。その戸をあけ、すぐが横長のカウンター、10名は座れない。カウンターにむかって客が座ると席のうしろの戸のあいだはないから、ガラス戸をあけた位置に腰をかけるか、そこが一杯だったら道路から別の戸をあけて座る。

「ママ」とみなが呼んでいたママは、カウンターの向こう側客席よりやや奥行きがある台所にいた。小柄で身体もよく動くが、頭の回転もよい、利口なママだった。クジラの刺身が安くてうまくて量があって人気だった。ほかはクジラ南蛮炒めに、その日の焼き魚と、煮魚はほぼカレイや銀ムツというメニューだった。

ここが人気で、昼時になると、どっと混むのだ。すると土間と奥のあいだの障子をあけはらう。奥は、けっこう広い座敷だった。畳は茶色に焼け、柱など木部も渋い色で、ま、うす暗い部屋である。昼でも蛍光灯をつけ。

ときどきはやく行った時は、その座敷にママの老爺が病気がちらしく寝ていることがあって、われわれが障子をあけると、あわてて老婆が手伝って寝床をあげるという場面があった。そして座敷に一番のりした客が、立てかけてあるちゃぶ台や座卓を出す。老婆はそのまま膳の上げ下げなどを手伝い、老爺はいつのまにかいなくなっている。というアンバイだった。

このすずめに向かって右隣、つまり五番町交差点から奥側隣が、やはり木造2階建て、1階が酒屋「ことぶき」、2階は雀荘「ことぶき」、その雀荘に上がる階段をはさんで1階にラーメンや洋風メシもやっている大衆食堂「ことぶき」。これらはみな一緒にいまのマンションに地上げされたが、おれがこの地域で仕事した10年ちょっとのあいだ、イチバンお世話になった一角だ。

雀荘「ことぶき」は、昼時はマージャン台の上に白いビニールをかぶせ、大衆食堂「ことぶき」のテーブルになった。おれの仕事仲間にマージャン好きがいて、彼らと4人で昼飯時に雀荘「ことぶき」に入って、「半チャンだけ」とかいいながら白いビニールをとり、めしがくると食べながらやり、しかしそのうち熱くなって、午後の仕事をほうりだし、ビールもとったり……ということを、たまーに、やった。

ところで、その酒屋「ことぶき」は、かつて内田百閒さんの御用をつとめた酒屋だったのだ。五番町交差点から右、つまりおれが仕事をしていた事務所の先は六番町で、そこに内田百閒さんは死ぬまで住んでいた。

おれがある日、すずめでめしを食べながら、たいして期待もせずにナントナク「このへんで内田百閒さんの評判など聞いてます?」とママに話かけた。すると、ママは、「え~え~、そりゃもう、となりの酒屋さんなどは、お得意さんでしたからね」というのだ。で、おれはついでに「やはり、借金など」というと、「え~え~、そりゃもう、お上手なかただったらしいですね、そういう話はたくさん聞きましたよ、でも誰も悪くいう方はいませんでしたよ」とママはニコニコしながら、懐かしそうにこたえたのだった。

今日は、ここまで。

内田百閒さんが亡くなったのは1971年。おれがすずめやことぶきのお世話になったのは1972年から10年ちょっと。

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