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2005/03/15

悩ましい料理物語

3月13日の日記に「茶」と「茶室」のことをちょいとだけ書いた。大衆食と縁がなさそうな茶系に興味を持ったのは、『料理物語』がきっかけだった。『料理物語』については、『汁かけめし快食學』の255頁に、つぎのように書いた。

 江戸前期一六四三年に、『料理物語』が本になった。  この本は、いまのところ、調理法までのっている本邦初のマットウな料理本である。これ以前の料理書は、「料理の有職故実・規式に関する伝書・記録の類である。その記録する料理は実際に食べるためのものであったかどうかも分明ではない」と日本古典文学大辞典にある。  まさに『料理物語』の画期的なこと。その末尾には、おどろくべき言葉がある。この時代、こんなことをいったひとがいた。「右料理之一巻は庖丁きりかたの式法によらず。唯人々作次第の物なれば」つまり「この料理本の一巻は、式法によらない、ただ人びとのつくりかたしだいのものである」と言い切った。  「ただ人びとのつくりかたしだい」……ウム、ウム。  いまだに古くさい「式法」をタテにする人たちや、料理の由緒由来のウンチクをよろこんでいるひとたちがいることをおもうと、この一言は、とってもルネッサンスである。だからこそ周囲の状況を考えて、あえて著者の名前を記さなかったとも考えられる。  つまり作者不詳であり、だれが書いたのか、推理するたのしみがある。たぶん、あのひとだ、と……。現代語訳および解説書として、『原本現代語訳料理物語』(平野雅章訳・教育社新書)や『料理物語・考』(江原恵著、三一書房)などがある。

これだけしか書かなかったが、『料理物語』は料理史上重要であるだけではなく、中世末期を把握するうえでかなりオモシロイものなのだ。「聞き書き文学史」というジャンルがあれば、その歴史上画期的な作品と評価されること間違いないだろう。とにかく、「中世離れ」している点が、あちこちに見られる。合理性や論理性、そして自由な精神。

しかし著者不明。いったい、このようなものを誰が書き残したのか興味が湧いた。江原恵さんが『料理物語・考』を著したのは1991年だが、そのころおれと江原さんは何度か、この作者が誰か、酒のツマミに話し合った。で、あとでわかったのだが、そしらぬふりして、それぞれ見当をつけていたのだ。

95年『大衆食堂の研究』ができて江原さんと会って飲んだとき、おれはその見当つけていた人物の名前を言った。いまでは茶道遠州流の祖とされている、小堀遠州だ。

江原さんは即座に、「いや、その周辺にいた人物じゃないかと思う」といって、そのワケを説明した。小堀遠州にたどりつくまでは、おれとホボ同じ推論だったが、その先が、江原さんのほうが資料が豊富なだけ有利だった。「なんだ、もっと早く教えてくれたらよかったのに」とおれがいうと、江原さんは「こんなおもしろいネタは簡単に教えられないよ」といった。

とにかく『料理物語』から茶人へ、そして小堀遠州にたどりついた。小堀遠州というのは、ものすごくおもしろい人物で、こんな人間が戦国末期江戸初期を生き徳川政府の奉行にまでなったのかと思われた。ま、かなりの変わり者ではないかな。だけど、ふつうなら切腹という事態でも、このひとは、その作事つまり建築の才能が惜しまれて、助けられた。将軍サマから何度も江戸へ来るように催促されても嫌がり、やっと、晩年2回ぐらいかな? 関東に来る。そのとき、現在の川越市の喜多院にある庭の造園を手がけた。関東に残る、遠州の作品としては、唯一といえるか? おれは、その喜多院で、もしかしたら『料理物語』は遠州かもね? とヒラメイたのだ。その造園中、遠州は、どこに滞在したのだろうか? と考えた。『料理物語』の最後には、この書は「武州狭山」で書いたという趣旨の記述がある。武州、川越と狭山は至近だ。……想像は楽しい。

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