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2005/03/20

望月桂の一膳飯屋「へちま」のあと

退屈男さんが吉村平吉さんの『浅草のみだおれ』(三一書房)を読まれ、当ブログの3月7日「吉村平吉さん逝去」にリンクをはられている。
http://taikutujin.exblog.jp/1765058/

それで思い出した。その数日後、『東京下町』(創森社)の著者で、その本にも吉村さんのことを書き親しくしていた朝日新聞記者の小泉信一さんから電話があった。

吉村さんの部屋の入口に毎日配達される牛乳がそのままなのを不審に思った管理人が遺体をみつけ、最初に連絡したのが小泉さんのところで、小泉さんがすぐ現場にかけつけたときには、遺体はそのままで、苦しんだのか、あるいは具合が悪くて何かしようとしたのか、吉村さんはベッドから床に落ちて亡くなっていたそうだ。すぐ読売の記者にも連絡したが、読売は資料を揃えるのに時間がかかったのだったかな?とにかく事情があって掲載が遅れ、結果的に小泉さんの記事が先になったらしい。

ま、おれはどのみち新聞は読んでないのだが。おれが3月7日に書いた一報は、読売が夜中にネットで流したものを見たようだ。小泉さんと話してわかった。おれが吉村さんと会ったころは、名刺の住所もそうだったが、住まいは千束4、つまり吉原だった。2年ぐらい前、そのビルが建替えで、いまの竜泉の住まいに越した。

吉村さんは、長く住んでいた吉原で戦後初の「風俗ライター」ということで知られるシゴトをし、またブルーフィルムの草分けともいわれたりしたが、それだけじゃなく、さまざまな顔を持っている。そのゼンボウは、とらえ切れない。

とにかく吉村さんもおっしゃっていたが、浅草は三つの顔がある。一つは浅草寺を中心とした、仲見世や六区の観光地遊興地。その前、雷門前あたりから展開する、商業地。そして浅草寺の背後に広がる、ここはなんと呼んだらいいのか、あるときは「苦界」といわれ「辺境」といわれ「下層」といわれ、はてさて……。吉村さんは、浅草でも、その浅草寺の背後に精通していた。

吉村さんの著作は、文章としては、それほど面白いとは思わないが、かえすがえすも著作の少ないのが残念だ。長い付き合いの方もおられるはずだし、あの吉原の住まいには貴重な資料もあったという話だが。

おれが吉村平吉さんの名前を初めて知ったのは、1980年ごろだろうか? 大道芸や一人芸のことを調べていて、たまたまその方面に詳しい、著名な某アナーキストに会った。彼と話したら、それなら、吉村平吉さんが一番詳しい、と言われて知ったのだが。

って、ことで、本日の本題は、「望月桂の一膳飯屋「へちま」のあと」をザ大衆食のサイトに掲載したというお知らせ。望月桂さん、大杉栄と活躍しアナーキストの歴史に名を残すひとが、谷中で1916年ごろ一膳飯屋「へちま」をやっていた。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/hetima.htm

本日はアナーキスト流れであるが、もちろん、おれはアナーキストじゃない。とにかく東京という大都会は、いろんな人間がいろんなところで蠢いていて、大衆食堂というのはいろんな人間が出入するところで、おもしろいのだなあ。東京にいるなら、いろんなとこへ行って、いろんな人に会うってのが、いいねえ。いろんな人がいる。

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 日曜のきょうは、殿山泰司・色川武大・田中小実昌・吉行淳之介のうち、どれを読もうか迷った。きのう読んだのが吉村平吉さんの『浅草のみだおれ』(三一書房)だったため... [続きを読む]

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