悩ましい食文化本のこの一冊
「書評のメルマガ」に「食の本つまみぐい」ってやつを偶数月に書いている。いちおう「食文化本」というかんじの本から選んでいるが、「食文化」は範囲が広いし、それらしい本はたくさんある。そして、ほんとうは、「食」を目的あるいは対象に著述した本にしたいのだが、これが意外に少ない。
かつて「パチンコ屋で出る台をひとに教えられる程度の技術を誇る人間は結局なにものにもなれない」と痛烈な皮肉を飛ばしたのは関川夏央さんで、この発言には事大主義のニオイがしないことはないのだが、食の本を書く人たちの、精神か知性か感性か、ま、とにかくそういう類の「人間」に関わる貧困を指摘しているとは思う。
「食」について書いているようでいて、じつは自己顕示つまり自分がどんなに物知りか事情通であるかなどを、自分の脳ミソのなかにあるだけを絞って並べ立てるだけの本が少なくない。「食」を語っているようだが、食は対象でも目的でもなく、自己顕示の手段にすぎない。こういうものが近年いちばん多いのではないか。これは「食文化」的現象ではあるが、「通文化」の俗化にともなう現象で、かなり広範囲に見られる。
つぎに多いのが、近年は少なくなったが、吉田健一さんや丸谷才一さんのように、ある種の文学的実験というか、誤解をおそれず簡単にいってしまえば「文学的手段」として「食」を語るものだ。これは、「食」のもつ神秘性や精神性が大いに関係していると思う。が、書かれたものは、その文学的装飾をはいでしまうと、もともと「食」を対象や目的にしていないから、「食」そのものについては、ほんのちょっとのスカしか残らない。でも、「食」を文学的に鑑賞するうえで、有用であることは少なくない。この亜流として、「文筆業」になるための手段として「食」を利用するという傾向もあって、これはとくに1980年台以後の現象。
とにかく、「食」を対象あるいは目的とするなら、たとえば外食店の適切な一店を見つけ、それで「食」の森羅万象を語ってしまうような離れ業ができる「技術」があれば、先の関川夏央さんのタワゴトなどフンサイできるのだが、そういう志もなく、ただただあそこにこんな店ここにこんな店という話に、たいしたことはないが自分だけはたいしたことだと思っている知ったかぶりを羅列しておわる本が多いのだ。
そういうわけで、つぎの6月の「書評のメルマガ」では、そういうオカシナおかしな「食文化本状況」の面白さを、たった一冊で語ろうという離れ業に挑戦してみようと思って、その一冊を考えていた。けっきょく、コレダ。
ソレハ、山本益博さんの『東京 味のグランプリ1985』なのだ。
「味のグランプリ」シリーズは、山本益博さんを一躍有名にしたもので何冊も出ているが、なかでもコレなのだ。ナゼナラバ、その、「まえがきに代えて」は「拝啓―丸谷才一様」だからなのですね。
しかし、こういう挑戦は冒険なのだ。「書評のメルマガ」だから許されると、やってみるよりしょうがない。どうせ、いままでも恥をさらしているのだし。
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それゆけ30~50点人生。
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