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2005/05/29

家庭にあるべきコト

「われわれは今日がドジでもナミダでも明日を生きるためにメシをくう。家庭にあるべきそういう生活のココロを、大衆食堂は地味にささえてきてくれた。東京の大衆食堂は、名もなき庶民の東京暮らしの光と影をしっかり背負い、喜怒哀楽のすべてをのみこんできた。……」

まだまだ続く。名文だな~。誰が書いたのだ? なんだおれじゃねえか。もうこんなこと書いたのスッカリ忘れていた。

『散歩の達人』1997年4月号。「大衆食堂の逆襲」は全9ページ。その最後で、おれは「正しく力強い大衆食堂のめし」を書いた。

当時の『散歩の達人』の編集長は知る人ぞ知る、中村宏覚さん。もうこのとき編集長の交代は既定のことだったはずだ。そして次の5月号の「編集雑感」で中村編集長は、「インテリ学者より工場のおやじが好き。ピカピカの新品よりオンボロが好き。イタメシより日替わり定食が好き。そんな僕の個人的趣味で作ってきた珍東京雑誌『第一期散達』は、今月号が最後っ屁です」と書き、去った。

それはともかく、おれはここで「家庭にあるべき」という言い方をしている。『大衆食堂の研究』でも「東京暮らしの真相」で「自炊いちばん、食堂にばん、三時のお酒に大衆魚、というスタイルなのだ」と書いているが。

おれは家庭でつくって食べることを基本にしながら外食をみているのだな。つきつめれば、「家庭」とは自分の「食卓」である、というセンで考えている。

それは必ず家庭でめしをつくって食べなくてはいけないということを意味するものではない。だけど、忙しいから外食でという考えをヨシとするわけでもない。忙しくても家庭でつくるひとはつくっているし。ようするに、たとえ一人暮らしでも、自分の住まいで食卓にむかって、なにかを食べる飲む、そこに「自分の生活」の基本があるという考えだな。

去年、知り合いが結婚したのだが、夫妻ともマスコミ関係でスゴイ忙しい。で、何か書いてくれといわれ、正確には忘れたが、とにかくバナナ一本でもいいから一日に一回は二人で食卓にむかって食べよう、というようなことを書いた。たとえ別れることになっても、そういう生活があったかなかったかの違いは大きい、と、離婚2回の経験者はいう。

それで、こういう考えがあるかどうかは、外食店の見方や評価の仕方にビミョウに関係しているように思う。回数でも時間でもない、自分の食卓に向かったとき、そこに「自分の生活」があるという考えを、どうもてるかだ。

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