« 家庭にあるべきコト | トップページ | 昨夜のデキゴト »

2005/05/30

モンダイな事大主義と優劣観

食事評論の一環として外食店を評論するのか、それとも無関係に外食店を評論するのか。食事評論の一環ということであれば、とうぜんそこに評者の、ある種の「食事観」が必要になるはずだろう。

食事評論の一環でないのなら、それなりの「観」が必要だろう。評論は、そのように自らの見方考え方を問う行為でもあり、他者を裁くように採点していればよいという気楽なものじゃない。

しかし、コトは、案外気楽にやられている。とくに食の場合は、将棋や碁とちがって、生活であるがゆえに毎日誰もがやっていることで、誰もが一言あってトウゼンだ。

が、すでに何回も書いてきたが、食の話の大勢は、とくにこの数十年のあいだ「栄養」と「味覚」に矮小化されてきた。そこには自らの「食事観」を問うスキマすらなかったといえるだろう。

で、出かけなくてはならないので、少し話しの先を急ぐが、その「観」のたぐいを問うてみると、そこに意外に根深くはびこっているのが、古色蒼然たる事大主義や優劣観なのだ。と、おれは気づいたことがあった。

気安く、「名店」だの「名人」だの「三大ナントカ」だのと言ってはばからないたぐい、あるいはドコドコ産の絶品といったたぐいに、よく見られるが。おれも『ぶっかけめしの悦楽』では「三大かけめし」という言い方をしていて、『汁かけめし快食學』では、それはいかにも事大主義な言い方であったと反省し表現をあらためている。おれって、「誠実」なのね。

今日は、ここまでよ。しかし、「有害図書」とか言っているやつのほうが、よほど「有害人間」のようだ。

|

« 家庭にあるべきコト | トップページ | 昨夜のデキゴト »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30930/4340366

この記事へのトラックバック一覧です: モンダイな事大主義と優劣観:

« 家庭にあるべきコト | トップページ | 昨夜のデキゴト »