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2005/09/25

マーケな社会

「雑誌『談』編集長によるBlog」9月21日「マーケッターは社会学者ではありません」は、とてもイマ的な話でおもしろく、かつ最近おれも感じていたことに関係がある。

引用……「マーケティングを生業にしているひとのご意見をうかがうともっともらしく、その場ではいつも納得させられてしまう。しかし、あとから冷静に考えてみると「? 」となることがある。『****』を読んでいて、最初はふかくうなずいていたのだが、しだいに疑問がわいてきて、いつしか疑念にかわっていた。マーケの人の考えていることは、結局、消費者にたくさんモノを買ってもらいたいだけなんだ。そんなのあったりまえか。なのになまじっか社会学者のようなたたずまいでいるから、人はごまかされてしまうのだな。」……引用オワリ。

この話が、だれのどの本を指しているか、あまり新しい本に興味のないおれは知らないが、おれも数十年間「マーケティングを生業」にしてきた一人だ。そして、これほどマーケティングな世の中になったことに、違和感と異常をかんじている。ただ、この編集長佐藤真さんの発言の最後の、「一番やばいのは、彼らは消費者を愛していないこと。消費者を愛さずして、どうして消費社会など語れましょう」は、ちょいとロジカルな彼にしては、ヘンである。うふふふ、それともトシをとってロジカルも老化し、「愛」なんていうウケのよい言葉でモノゴトを説明するようになったか。とにかく、アチラのコメントに書くには長すぎることを書こう。

「マーケティング」は、時代により約3~4回ぐらいは概念を変えてきて、だからといって最初の概念がまったく通用しなくなったというわけではなく、みなゴチャゴチャに通用している。ま、大まかな「主流」の概念の変化にすぎない。だから、なにをもってマーケティングとするかムズカシイのだが、とにかくいまじゃ、みながマーケッターになってしまった。といえる。

マーケティングする側とされる側にわかれながら、かつお互いがマーケティングしあっている関係。しかもその関心は、全体的なマーケティングの構造より、ウリとかウケのあたりに集中している。つまりほとんどのオトナは、シゴトにせよアソビにせよ、ウリやウケを考えない日はないような日常を送っている。

せっかく大自然の山へ行っても、この山はイイ山だけど、もうちょっと人を呼べるようにしなくてはね、よそに客をとられちゃうよ、そのためにアソコはこうして、ココはこうして、この料理の出し方などもねもっとこうして、とか、民宿あたりで能書きたれるような景色は、日常でもめずらしいことではない。大衆食堂や大衆酒場へ行っても、自らの快楽をそこへ沈没させるのではなく、人気店繁盛店を評価する経営コンサルタントの目で、飲食し店を評価する。また、モテるモテないモンダイなど。先日の衆議院選挙などは「小泉劇場」なる言葉がマーケされ、政策の勝負より、こうしたマーケティングごっこの勝負だった面もある。みながいつでもウリやウケについて、メシをたべたらクソをするように、軽くオシャベリする。

「マーケの人の考えていることは、結局、消費者にたくさんモノを買ってもらいたい」お互いが、そういう関係になった。モノを売らないひとでも、自分をウリたいウケたい。そして誰もが気軽にウリやウケについてオシャベリし、お互いになにかのウケやウリを中心に「仕掛け」あった関係がフツウになった世の中を、いま「マーケな社会」とよべば、詐欺師ペテン師と紙一重のマーケティング専門家でも社会学者の顔をできる時代になったといえるのではないか。専門家は、そういうみなが考えそうなことは簡単に察知できる。それを、いいタイミングで気のきいた言葉で表現すればよい。それは「世俗的」な学者もやってきたことだ。ベストセラー作家もやっているね。そういう「コメント力」がモンダイなのであって、おかげで「コメント力」なんていう本がマーケされ売れる。

この真底にあるあぶなさは、彼ら社会学者のフリをしたマーケッターが消費者を愛していないことではなくて、人びとがウリやウケに興じかつ狂じ、自らの生活を愛さなくなったことだろう。いやはや、「愛」だなんて、そんな。「愛」のモンダイではない、ウリとウケと、その反対のカイとステ(捨て)が生活になって、もとにあったツクるやイカす(生かす)は大幅に縮小されたことにモンダイがある。

いまや、人びとは、「消費動向が景気を左右する、消費が上向けば景気も上向く」という言葉に疑問すらかんじない。そりゃ、タコが自分の足をたべて太るという話じゃないか、とは思わない。そこに、大消費都市東京へ極端な一極集中した日本と、極端に消費化した日本の、ほんとうの危うさがあるように思う。社会学者のフリをしたマーケッターは、その浮き草か、あるいはその動向を鋭く捉えマーケ化した存在にすぎないのではないだろうか。

こういう流れは、80年代に顕著になり、バブルからバブル崩壊期に「全社員営業マン」という使い古された言葉が、「全社員マーケッター」に置き換えられたあたりから、「マーケな社会」へ移行する。おかしいのは、おれが70年代にマーケティングのシゴトを始めてしばらくして、「マーケティング理論は破綻した」という時代があった。非常にショウバイがやりにくい時代が一時あった。では、いまのマーケって、いったいなんなのだ。

ま、忘れなかったら、明日に続く。お互いにマーケしあう関係からの脱却は、どうなるか。酒くらって、ぶっかけめしくっていればよいのか。いいのだ。

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コメント

いやあ、ははは、「老い」もいいものですよ。でも、その元アクロスの編集長のようにルサンチマンに老いたくないですな。

けっきょく、「団塊」をネタにショーバイしてきたひとは、なかなかそこから抜け出せないのかも知れない。

投稿: エンテツ | 2005/10/02 11:09

こんにちは。しばらくチェックしてなかったんで、コメント書いてくれていたなんて知りませんでした。ぼくが、老いて、ボケてしまったって?? はっはっは、まぁ、人聞きの悪いことを(笑)。このマーケの人って『アクロス』の編集長だったひとのことで、書名は『下流社会』。本そのものは面白かったんですよ、この人の視点ならではの「やや諧謔入ってます」ってところがとくにね。ただ、そこでポイントとしている団塊ジュニアがどんどん下流意識になりさがって、なんとかしてやらんといけないと危惧している、まさにその態度にマーケ屋さん的な「モノ売り」根性が見えかくれしてしまうんですよ。愛情がたりてないなぁ、という素朴な感想でした。あとあとがきで、この本を書くことになった動機についてふれているんですが、これがまたルサンチマンまる出しで、『アクロス』のあの編集者が? なんて疑いたくなるようなことをいってるんですよ。まあ、こういうことにチャチャいれたくなること自体「老い」た証拠かしらん(笑)。

投稿: mirouuru | 2005/10/02 10:59

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