坂口安吾「高麗神社の祭の巻―武蔵野の巻―」
病院通いで、ひさしぶりに、群馬県高崎と東京都八王子をむすぶ八高線の高麗川(こまがわ)駅ホームにおりたった。乗り換えのためだから改札はでないが、たぶん20年ぶりだろう。
この駅から歩いて20分ぐらいのところに、高麗神社がある。その存在を知ったのは、西武池袋線高麗駅周辺を調べるシゴトがあったからだ。そのとき、高麗神社周辺は調査の対象外だったが、地域の民俗関係の資料を調べているうちに、坂口安吾さんが「高麗神社の祭の巻―武蔵野の巻―」を書いているのを知った。ま、ついでに見てみようかという気になって、なんとなく「安吾新日本地理」の一編であるそれを読んだ。コレが、もうすごいオモシロイのだ。アタマを殴られたようにオモシロイ。「安吾新日本地理」のどれもオモシロイのだが、なかでも「高麗神社の祭の巻」は、最高におもしろかった。んで、ついでのついでに高麗神社へ行ってみたのが最初だった。
いまでは、ちくま文庫の坂口安吾全集のうち「安吾新日本地理」を収録した18巻だけ買って持っている。これには、「安吾新日本風土記」も収録されている。そのなかの「高千穂に冬雨ふれり」もおもしろいし「富山の薬と越後の毒消し」もおもしろい。とにかく、「安吾新日本地理」も「安吾新日本風土記」も大好きなのだ。
ひさしぶり高麗川駅におり、坂口安吾「高麗神社の祭の巻―武蔵野の巻―」を初めて読んだときの興奮を思い出したので、忘れないうちに書いておく。
坂口安吾が高麗神社へ行ったのは、昭和26(1951)年10月18日19日。檀一雄と一緒。「社務所の一室で、私たちは持参のお弁当をひらいた。参拝の人々の記名帳をひらくと、阿佐ヶ谷文士一行が来ておって太宰治の署名もあったが」
奥野健男さんが解説に書いている。「埼玉県入間郡高麗村に行って、安吾のように古代日本に渡来して今も高麗(コマ)こそ母国だと思っている住民たちに心からの尊敬と礼を尽くして接した日本の文学者はいないであろう。ぼくも安吾の文章に誘われ、コマ村の獅子まつりに出かけ安吾と同じくジョウジョウネコ、ニヒヤリロ、ヒヤーヒヤの笛の音に、「モウイイカイ、マアダダヨー」の隠れん坊、隠れ鬼のメロディに、はるかなユーラシア大陸の音を感じたのである。そこに古代朝鮮をさらに超えた坂口安吾の大きな虚しくもなつかしい宇宙をおぼえるのである。」
坂口安吾が高麗神社で「ジョウジョウネコ、ニヒヤリロ、ヒヤーヒヤの笛の音に、「モウイイカイ、マアダダヨー」の隠れん坊、隠れ鬼のメロディ」を感じるところは圧巻。厚い無知の壁を叩き割られたような興奮をおぼえた。ほんと、坂口安吾って、すごいなあ。
江戸東京を武蔵の国の歴史から切り離して語る近頃のブンガク者には、坂口安吾のツメのアカのスカでも飲んでもらいたいね。埼玉県をダサイタマと揶揄するまえに、この一編を読むべし。高麗神社も訪ねてみよう。「霊やどる」というかんじがヒシヒシと伝わる。ついでだが、そういう感じを受けたのは、ココと、もう一か所、熊本県蘇陽町の幣立神社だ。幣立神社の境内と近所に数か月間暮したことがある。天皇家より歴史が古いといわれている神社だが。幣立神社のことは、松岡正剛さんが、本のタイトルを忘れたが「場」だか「空間」についての分厚い本で書いている。高麗神社も、「場」のフシギを感じさせる。
でも、あんがい俗っぽい高麗神社のホームページ。ま、神社が威張っちゃいけないからね、俗っぽいほうがいいだろう。
http://www4.ocn.ne.jp/~fkoma/
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