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2005/10/16

クイケとイロケ

13日に書いたイロケ、直接的すぎたか。きのうの続きにもなるが、コンニチ食うことにつながる欲求は、必ずしも食欲(クイケ)がもとになっているとは限らない。とくに外食の分野では、性欲(イロケ)が、大いに関係する。

欲望としてのイロケは、欲求レベルでは名誉欲などに転化する、というリクツがある。それは、カッコイイ生活、カッコイイ自分といった、ごく日常的な欲求でもあるらしい。見栄とか名誉なんか関係ねえよ、と思っているひとでも、かっこ悪い姿は見せたくない。

外食系の情報誌や本は、それに関係して売れる。東京のような大消費都市では、高くてうまい店モチロン安くてうまい店を、あるいはレトロで人情な下町酒場を、あるいは地元のひとなら誰でも知っているどこにでもあるような飲食店を、知っていることが、カッコイイことなのだ。知らないでウロウロするのは、かっこ悪い。とにかく、どんなことでもいい、どこに野良猫がたむろするかでもいい、街のことを知っているって、カッコイイのだ。知らないやつは、バーカ、かっこ悪い。

都区内の電話番号に住むって、埼玉に住むより、カッコイイ。人気の吉祥寺に住むってカッコイイ。ここ埼玉でも、熊谷より浦和のほうが、カッコイイぞ。

こういう類は、イロケの欲求レベルに関係付けられ、マーケティングされてきた。

そのように大衆レベルで消費が生活をこえてカッコイイつまりファッションになるのは、1970年代ごろからだろう。外食はその先兵だったといえる。外食はやむをえない事情や特別のとき、という考えはなくなり、ウチで食事するなんて、とくに独身の場合メンドウでもあるし、メンドウなことやること自体が、地味でかっこ悪いものになった。

そして食はファッションだ!かっこよくやろう!ということで、飲食店情報は「anan」など次々と誕生した情報誌で、雑誌の魅力をつくる大事な要素になる。つまり街は、生活の場から、イロケ発散場所として価値が高まった、ともいえるかも知れない。人びとは、街で、カッコイイになりたい。

ついに90年前後に、いまではごく普通の街の風景になった、外から中が見える飲食店がカフェを中心に広がる。その様子の一端は、ザ大衆食の「大衆食堂の暖簾」も、ごらんあれよ。どんどん短くなる暖簾。http://homepage2.nifty.com/entetsu/noren.htm

これは、日本の外食文化では、大革命だ。自分が飲食している姿を通行人にさらし見世物にするなんて! わたしって、スタバに入るカッコイイ女なの、とか。カッコイイ自分は、そこまできた。こりゃ、そこまでいくと、ナルシズムじゃねえのか?

そうなのだ。カッコイイは別の言い方をすれば「装う意識」だ。それはナルシズムの歓喜に達する。その「「装う」意識の変化」を、『欲望と消費  トレンドはいかに形づくられるか』(スチュアート&エリザベス・イーウエン著、小沢瑞穂訳、晶文社1988)は指摘している。ナルシズムはカッコイイ個性化の結末か、そしてマスコミで画一化にとりこまれファシズムに転化するのか? ミステリアスな現代、ミステリアスな欲望と消費、ミステリアスなイロケ。

現金はなくてもカードがあれば暮せる。現金はなくても動く経済や生活。70年代、カードは信用されていなかった、いまはスーパーのレジもOK。すべては「信用」で取り引きされ、その「信用」はマスコミやメディアの情報によって支えられるバーチャルな社会。それはバブルな社会でもあり、バブル景気はあの時代のものだったにせよ、バブル社会はそのとき始まったのであり、そこでイロケは、どんどんバーチャルにナルシックに変化をとげてきた。

低級で恥ずかしくて秘められていた安物飲食店の分野まで、なぜかカッコイイ、それを知ることはもちろんカッコイイ、ってことになり、イロケに支配されるところとなった。大衆的ないかがわしさは、煌々としたバーチャルなサーチライトをあび闇を失い、そのなかでホッピーを飲むわたくしは、すごくカッコイイ。らしい。

食足りて、イロケの妖怪がウロウロと。

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