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2005/11/03

「究極のふつう町」としての千住

きのう千住が登場したついでに千住のこと。

千住のアベさんは、青森県金木町、太宰治の生家斜陽館の2軒隣、畳職人の家で昭和10年(1935)に生まれた。太宰のウワサをいろいろ聞きながら成長し、昭和32年上京。そのわずか4年後26歳の若さで千住に店をもった。小さなスナックである。彼女の容姿才覚もあったと思われるが、彼女自身も、千住という土地がなかったら、そうはやくは自分の店を持てなかっただろうと思っている。

「関東の地図を開くと、鉄道も道路も都心に集中している。しかし、よく見れば北関東・東関東からの流れは、隅田川と荒川放水路にはさまれた、わずか1キロ四方の千住の周辺に一旦は集中し分散しているのがわかる。」と、ワールドムック『三丁目の角』(ワールドフォトプレス、平成14年11月)の大特集「千住大研究」にある。

「千住大研究」は千住のタウン誌「町雑誌千住」編集室がまとめた、32ページの、まさに「大研究」であり、なかの見開き2ページが「人とものが動く町 千住ダイナミズム」という題のテキスト。千住のアベさんが、なぜ千住で店をもち、変転がありながらも、なぜいまでも千住で小料理屋をやっているかを取材しながら、千住のダイナミズムを解き明かしている。

ヒジョーにおもしろい。ヒジョーにうまく千住の特徴をとらえている。こんな上手なテキスト、誰が書いた? と見ると、アレレレレレ? ライターは遠藤哲夫、おれじゃないか。だははははは~。おれは、「町雑誌千住」編集室のスタッフではないが、千住でグダグダ飲んでいたせいか、声がかかって手伝っただけ。

「千住の発展のダイナミズムは、東京が隅田川を境に広大な関東と接する端にあって、1594年にできた隅田川最初の橋、千住大橋の外側のたもとに、千住が位置していることに大いに関係する。なにしろ、1603年の江戸開府より前の1576年に、すでに千住の市場は始まっているのだ。」

きのう書いたように、千住の河岸は、上流の川越の河岸と江戸東京の市場を結ぶ、食糧や物資の集散地として発展するのだが、その機能は江戸幕府が生まれる前からだったのだ。ってえことは、江戸幕府以前から、隅田川荒川上流の関東の物資を求める人たちがいたことになるな。ウナギやドゼウなどは、どうだったのだろうか? 千住は川魚問屋がもっとも多い地域だった。馬や馬肉も取引されていた可能性が高いなあ。でもやはり、穀物が中心だろうな。

ま、それはともかく、それでいて千住は江戸府内ではなく、東京都に編入されたのは明治になってから、足立区になったのは昭和初期、なおかつ最近でも都心から見たら上野や浅草のむこうということで、平成バブル景気の最中でも都心ほどの土地急騰の波をかぶらずにきた。そして、お城もなく、都心から西部のような、日のあたる坂の上の人種と、坂の下の太陽のない街の人種をつくる台地はなく、まっ平らに関東平野とつながっている。

身体ひとつ才覚ひとつで勝負できる環境だった。余所者が入りやすい暮しやすい条件が揃っていた。アベさんの店のただ一人の従業員は、アベさんが千住に店をもった昭和36年に中国東北地方で生まれた。ふたまわり以上トシのちがう、日本の東北地方出身の女と中国の東北地方出身の女が、千住で出会った。彼女に「「なぜ千住なの?」と訊くと明快な答えが返ってきた。「ここは個人で商売している人が多いでしょ。わたしたち外国人で学歴もないと都心の会社には就職できない」」

この「千住大研究」のイチバン最後の一行は、こうだ。大阪出身で千住に「流れ着いた」フナハシさんが書いた。名言だと思う。
「そう。千住は究極のふつう町。」
ふつうだからこその魅力にとりつかれた人は、おれのまわりにもたくさんいる。

ま、どうでもいいことですが、大雑把には、そういうことです。

町雑誌千住のホームページ
http://1010tankentai.fc2web.com/

三丁目の角
http://www.monomaga.net/wpp/shop/productdetail.aspx?sku=819583

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