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2006/03/23

外食本の書き手たち

退屈男と本と街〒カワチ日手紙〒からの引用があり、そのなかに「帰りに、上司から褒められた。「こんなに組んだ人の意図のわかる予算は初めてだ」と。嬉しい。……」とあって、むかしを思い出した。

おれはかつて、20代後半の4年間ほど私立学校に勤め経理をやっていたのだが、そのとき、予算書ってのはブンガクなんだよな~と「開眼」した。それから、実務書あるいはビジネス書のたぐいを、ブンガクとしてよく読むようになったのだが。

予算書には、いろいろなひとのいろいろな思いが詰め込まれていて、とくに学校となると、教育に対する思いが詰め込まれている。まさに「内面のブンガク」なのだ。

当時は、1960年代後半だが、非営利法人の会計とくに予算編成と実行の技法として、「PPBS」というものが、ハヤリというか導入が盛んだった。カタカナで書くと「プランニング、プログラミング、アンド、バゼッティング、システム」の略なのだが、これは、「基本計画(政策)と実行計画(政策)にもとづく予算システム」というような意味で理解されていたと思う。

いわゆる「マクナマラ戦略」というものがあって、「PPBS」は、その戦略思想の一環であり、米国国防長官マクナマラが考案した、原子力潜水艦のポラリスの建造に関わる計画と予算の方法がもとになっている。原子力潜水艦の建造には、従来の艦船とは比較にならない量の部品が必要とされ、経験的な方法ではモンダイが多発したことから考え出されたとか。と、教わった記憶が、まだ残っている。最近のことは覚えられず、どうでもよい昔のことを覚えているな。

とにかく、その講習会などを、何回か受けた。本も、たくさん読まされた。それまでは、予算編成の方法というと、「経年実績方式」ともいうべき、つまり今年度と過去数年の実績の推移を検討しながら、次年度予算を決めるという「慣習」が圧倒的で、これはコンチニでも公共団体などでは続いているような気配があって、これだと予算を使い切らない科目は、次年度予算で減額されちゃうわけだ。

そういうやり方を改めようという意図もあって、「PPBS」の導入が強調されたのだが、確か、けっきょく、日本の体質に合わないという理由で、公共団体系では不評に終ったように思う。もちろん「日本の体質に合わない」のではなく、自己変革が嫌なだけだったのだが。

おれはというと、「PPBS」の知識があったおかげで、その後企画会社への転職も容易だったし、プランナー稼業と会社経営には、これがずいぶん役に立った。

ま、とにかく、数字も、こころ模様を表す。そして、日本の近代文学の主流は、そういうことに関する理解が決定的にヨワイ。まさか予算書に人間の内面が表現されているとは考えてもみない文学が圧倒的なのだ。韻文や散文のカタチが整っていなくては、文学ではないわけだからね。

感性は、文字や文学の以前にあるものだという、いとも単純なことを、見ないのか忘れているのか知らんが。役人たちの「経年実績方式」のような悪しき慣習が、いつまでも続くのは、そういう文学と深い関係があると思う。とにかく、予算書には、未来にのぞむ意図やこころが詰まっているのであり、決算書には、過去の意図やこころと行動が詰まっているというわけだな。

ま、そういうわけで、やっとタイトルの話になると。戦前の食べ歩き本というか、外食本の書き手というのは、二種類の人種になるようだ。一つは新聞記者、一つは、いわゆる食通道楽者。文士や文学者といわれる人種のものは、あまりない。戦後になって、文士、文学者が加わり、さらに「ライター」「フリーライター」という人たち。これは、チョイとオモシロイと思った。

でも、今日は、前置きが長すぎたから、これでオシマイ。いまだ腰痛おさまらず。

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