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2006/03/02

食と文学

とくに近年になって、生活は消費に解消され、社会は市場に解消されてきた。別の言い方をすれば、消費を生活とカンチガイし、市場を社会とカンチガイしてきた。生活感覚だと思っていたのは、じつは消費感覚にすぎなかったり、社会性と思っていたのは市場性にすぎなかったり。あるいは、その逆に、たとえばマーケティング分析にすぎないことを、社会分析であるとカンチガイしたり。そのように認識は、混乱している。

その結果ゆきついたところは、消費と市場が成り立てば、生活と社会は成り立つという認識?考え?だった。いわゆる「民間がやれることは民間へ」ということで「小さな政府」を旗印にした小泉改革というのは、その仕上げといえるだろう。

「民間がやれることは民間へ」「小さな政府」というのは、いかにも聞こえがよい。諸手をあげて賛成したくなる。だが、「小さな政府」は、減税とは無関係なのだ。そして、その金は、同じおれのフトコロから出るのだ。同じおれのフトコロから出るのだから、たとえ「大きな政府」であっても、おれがフトコロから出す金以上のことを、政府や役所にやらせればよいじゃないか、という政策が考えられてもいいはずである。だけど、その議論にはならない。

なぜなら、官僚や役人は、競争原理が機能しないぬるま湯のなかで腐っているからダメなのである、やつらはただの税金ドロボウだ。と、印象づけられている。しかし、そう言われながら、その「改革競争」で残ってきたのは、腐った政治家や官僚や役人どもなのだ。

小さな政府には、腐った池で生き残った、もっとも腐った部分、つまり社会的責任感と社会政策立案遂行能力に欠如した連中が残ることになる。それはそうだ、社会政策は「民間がやれることは民間へ」と丸投げしていればよいのである。あるいは「自己責任」に転嫁する。そして、民間の「事故」「不祥事」続きのお粗末といったらない。

とにかく、生命のための生活と社会については認識を失い、消費と市場で生命は維持されると認識してしまったか、しつつある。現在の食は、そこで危うく成り立っている。もともと日本では、社会政策としての食料政策は、お粗末だったのだが。

話は飛躍するが、生命と生活と社会の関係をシッカリ認識するうえで、文学は有効だと思う。その関係には、調査立案という過程、つまり数値や合理性や論理で把握し解決できないことが、たくさんあるからだ。たとえば「人情」といわれたりする、「抒情」「情緒」の存在である。生活空間や社会空間を考えるとき、それは欠かせないだろう。消費空間や市場空間でさえ、その演出は重視されている。

文学は、論理と、その対極といってもよい人情や抒情や情緒などを把握し表現する力がある。たとえば、まさに「場の空気」や、あるいはその空間を体験したものにしかわからないニュアンスを把握したり。「血が通った」という表現にあるような政策は、文学をぬきには考えられないだろう。と、おれは思っている。ま、そういう文学も、消費と市場のなかで自らを誤解し、衰退しつつあるようだが。

今日は、食と文学の関係で思いついたことがあったのだが、いろいろ考えることがあって、錯綜した内容になったな。酒が足りない。ま、いいか。

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