« 「食と農の新たな出会いを求めて」なんだけどね | トップページ | 食べ歩き 市場原理と社会原理 »

2006/03/08

小沢昭一的こころ ヘタの味わい

まもなく一年になるが、2005年3月23日に「好きなんだなあ小沢昭一的こころ」を書いている。そして、また最近読んでいる本で、やはり「好きなんだなあ小沢昭一的こころ」と思ってしまった。

それは、このあいだから時々書いている『音の力 ストリートをとりもどせ』(インパクト出版会)に収録されている、大熊ワタルさんと東琢磨さんが市川捷護さんにインタビューの「芸能の血脈を遡る旅」を読んでだ。

市川捷護さんは、「ビクター時代にあの『日本の放浪芸』シリーズ(1971~77年)をプロデュースした」ひとだが、『日本の放浪芸』のもとは小沢昭一さんのプロデュースであり作品だ。この一連のシリーズは、何か熱気に満ち満ちている。

それはともかく、そのインタビューで、市川さんが「編集の作業というのは、いいものを残すのではなくて、いかに捨てるか、なんですね」「たとえば最初の「放浪芸」は七〇〇時間撮って、結局完成品は七時間。あれをやったとき、分かりましたね」と。

すると大熊さんが、こう突っ込む。「小沢さんとの仕事のことで書かれていたなかで(『回想日本の放浪芸』2000年、平凡社新書)、弘前の桜まつりで技術的には下手くそな浪花節のおじいちゃんのエピソードがありましたね。でも結局それはノーカットで収められているんですよね」

市川さん「あれはね、五〇分もあるんだけど、延々退屈なんです(笑)。すごいのは、四五分くらいまで聞いていると、なんかこのおじいちゃんすごいなあ、って思うようになるんだよね。下手さがいいなあっていうか、よくこれでやってるなあとか。そういうところが、小沢さんだからこそ感じたんじゃないかな」「小沢さんは昔、芸能を、うまくやるということの価値、それに疑問を感じ始めた人なんです」「じょんがらとかうまい人もたくさんいたんだけど、そういうのは小沢さんは五分くらい聞いて「ありがとう」って。そこでしょうね」

名作でも逸品でもない大衆食などは、こういう味わいなんだな。とくにうまいわけじゃないが長く続いている大衆食堂などもだが。そういうところは何度か通わないと、そこがナゼ続いているのかわからない。濃いエグイかんじが、妙な魅力になったりということもある。文学も同じだな。ま、料理も文学も芸能なんだから。でも、たいがい商業メディアで話題になる、よいウマイと選ばれる飲食店や文学というのは、そうじゃない。

小沢さんのオコトバ。「育ちの悪い人間というのはどこかクセがある。そのクセがなんとも言えず、良い場合がある。そのクセが人間を面白くさせている。今の繁栄社会のブヨブヨ人間が面白くないのと同じで、そういう社会の中から出て来た食い物も、なんとなくブヨブヨしているような気がする」

育ちが悪いといえば、おれも農家の次男坊の家系で、と、書いても、いまじゃ、それがどんなに育ちが悪いか想像つく人が少なくなっているだろうが、ま、育ちの悪いやつはたくさんいるんだな。で、それを着飾ろうと、着飾って品よくうまくやって、品よくうまくやる人たちの仲間になろうとする人と、そうできずに悪いままやっているおれのような人間がいる。

それで何か芸があればよいのだが、酒を飲む以外なにも芸がないと、どうなるか? おれだ、こうなるのだ。だははははは。ヘタでも続けよう。飲み続けよう。きのうの夜は、王子の山田屋、おとなしく一軒だけ。でも、あそこへ行くと、故郷の八海山の陰で不遇をかこっている高千代が飲めるのだ。

|

« 「食と農の新たな出会いを求めて」なんだけどね | トップページ | 食べ歩き 市場原理と社会原理 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30930/8999891

この記事へのトラックバック一覧です: 小沢昭一的こころ ヘタの味わい:

« 「食と農の新たな出会いを求めて」なんだけどね | トップページ | 食べ歩き 市場原理と社会原理 »