« 十条・てんしょう、板橋・明星酒場、赤羽・まるよし、本日は小田原「ふくや食堂」 | トップページ | コナモンの日そして下谷神社大祭にフライ »

2006/04/30

なめられるより、なめてやろう

泉麻人さんは、山の手「高台」族に嫌悪を露にすることがある。この人は、山の手「高台」族に何かウラミでもあるのかと思うこともあるが、東京の高台の上と下では、さまざまな優劣観がドロドロしているのは確かだ。

それはともかく、『新・東京23区』(新潮文庫、2001年)の「江東区」の章では、「門仲(もんなか)の魔力」という見出しで、こんなことを書いている。

周辺には安くて旨いメシ屋や呑み屋が多い、というより、「気さくな下町風の旨いメシ屋が豊富そう」というイメージに、門仲人気は支えられているようなところがあります。実際、指折りの店は一、二軒であっても、とりあえず「門仲に旨い店があるんだよ」と誘われると、そこが仮に大した店でなくとも、シロートは通っぽい下町のムード騙されて、モズクやマグロ納豆も東中野の居酒屋で食べるのと違った味に感じてしまうわけです。「モンナカ」の響きには、そういう魔力が潜んでいます。人形町趣味の"やや庶民版"といってもいいでしょう。

このように「通っぽい」ムードに騙されることは、よくあるだろうし、ま、わざと騙されて楽しむのも「劇場社会」としては悪くはないだろう。

だけど、騙し騙されごっこしているんだよねというのを忘れて本気になっているようなフシもある。そこそこ食べ歩いて、おれは食べ物については詳しい、とくに魚は好きだから、こんなにイロイロ食べているし詳しいんだぞ、そのおれが、ここの刺身はうまいというのだ、という感じで書かれているなかに、そういうフシをときどき見かけ、またそういう書き物をありがたがる様子をみかけると、どうもなあ、これじゃあ読者はなめられているよなあ、と思うことがある。

いまどき、オープンキッチンつまり客席から見えるところで料理をするのは、とくに生ものを扱う飲食店では、大衆的な店ほどアタリマエになっている。そこでは、いかにもオレサマ職人サマという板前さん風が、オレサマ職人サマという感じで包丁をふるうのである。すると、客は、家で食べるスーパーの刺身と同じようなモノでも、サスガ新鮮でうまいと思ってしまう。それはトウゼンだろう。

「シロートは通っぽい下町のムード騙されて、モズクやマグロ納豆も東中野の居酒屋で食べるのと違った味に感じてしまうわけです」と同じようなことが、いくらでもある。

シロートは、それでトウゼンだとしても、ワタシは食べ歩きのプロよ、うまいものを知っているゾという人物が、この店は客の目の前で調理する、材料は新鮮で包丁さばきも素晴しい、しかも安い! なんてことを、大衆居酒屋の刺身を食べて力説するなんてのは、読者をなめてかかっているか、自分が、そういう演出をする飲食店になめられているかのどちらかではないかと思う。

とにかく、知ったかぶりはしないことだね。とくに魚の鮮度と産地について述べるなら、見て食べただけで、どこの産地でいつごろ獲れたものか当てられるようになってからにしてほしい。漁港で水揚げ直後と、築地市場あたりでは、もう見た目から違うのだから。

しかし、「この店は客の目の前で調理する、材料は新鮮で包丁さばきも素晴しい、しかも安い!」というたぐいの話は、もう数十年前から、とくにあの店内に水槽を据えての活魚料理がブームになったころから、惰性的に使われている著述ではないか。しかも、あの水槽を据えての活魚料理などは、一日そのなかで魚がすごせば、生きていても鮮度は落ちるし肉質は変わって、うまくでもない。まだ、そうした大衆居酒屋があり、そうしたものをありがたがる風潮は、続いている。これだけ外食本が出てグルメだのといっているのに、食文化的な成長はないのだろうか。

読むほうも、文章の調子や面白さに騙されずに、このような泉麻人さんのような眼を持って、なめられるより、なめてやろうの根性でやろうじゃないか。

|

« 十条・てんしょう、板橋・明星酒場、赤羽・まるよし、本日は小田原「ふくや食堂」 | トップページ | コナモンの日そして下谷神社大祭にフライ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30930/9827792

この記事へのトラックバック一覧です: なめられるより、なめてやろう:

« 十条・てんしょう、板橋・明星酒場、赤羽・まるよし、本日は小田原「ふくや食堂」 | トップページ | コナモンの日そして下谷神社大祭にフライ »