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2006/04/04

「現代日本料理「野菜炒め」考」で気づいたこと

1980年代以後のグルメあるいは食べ歩きや飲み歩きなどの飲食への関心には、ある独特の傾向がある。そのことについて、どのへんに原因があるのか、ときどき酒を飲みながら考えては、でもそれほど突っ込んで考えたことはなく、ようするに「情報化社会」とやらで、情報に踊らされているだけなのね、というていどで酔っ払って終っていた。

こんかい、「現代日本料理「野菜炒め」考」を書く調べのうちに、一つ見落としていた重要なことに気がついた。そのことについて、こんなぐあいに書いた。

「江戸期以前から煮炊きの鍋と釜だけでやってきた台所に、炒め鍋が加わった。これは大変なジケンであり変化だ。日本の近代は、食生活から見れば、ガスと電気と炒め鍋で始まったといえるのではないか。だとすれば、それが国民一般の台所の現実になるのは、戦後のことである。じつに、近世の台所は、すぐそこまで家庭内に存在していた。そのことは私たちの主体と関係あるように思われるが、その認識は、やや鈍感のように思われる。」

食べたり飲んだりして、いろいろ評価というと大げさにせよ感想は持つ。それを表現するかどうかは別にして、そこには味覚をもとにした「批評」にあたる内容がある。そのとき、そういう批評をする自分の存在、つまり主体があるわけだ。他者を批評したり評価することは、一方では自分を批評したり評価することでもある。

しかし、1980年代以後の、ある独特の傾向というのは、その主体の存在が、無い、あるいは、希薄なのだ。なにかを並べて比べている「自分」はいて、「批評」らしき「感想」らしき言葉を発しているのだけど、その「主体」の存在が希薄である。これはいったいどうしたことだろうか、「食べる」「飲む」主体が希薄なんてことがありうるだろうか。それが気になっていたのだが、一つの脈を発見したような気がする。

うまいもの話や、いい店の話に熱心なわりには、食育基本法なるものが、スンナリ施行されてしまう背景は、どうやらそのへんにありそうだと思った。飲食する主体の希薄な存在、チョイと、これは、コワイ実態である。きのう会った編集者の話によると、どうもそれが飲食の世界のことだけではないという、出版読書の世界にもあるという。えっ、それは困ったな、読書する主体の希薄な存在って、それはいくらなんでも「近世の台所は、すぐそこまで家庭内に存在していた」ことに関係ねえよな、と笑ったが。はてはて。

ま、このことは、「現代日本料理「野菜炒め」考」には少し書いたが、ここでも追い追い書いておくとしよう。

明日締め切りの「書評のメルマガ」の原稿を書いて送った。これでしばらく締め切りというものがない正常で貧しい失業な日々にもどるが、日々アレコレある、って春の行楽酒の酔い宵ですがな。

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