「豊かな日本の中流意識」と、どう決別するか
最近のトラックバックにある「続々々々料理は愛情?」は、3月27日の「メディアのなかで自分を見失う料理」にトラックバックいただいたものだ。まだご覧になっていない方は、ゼヒご覧いただきたい。
この指摘は、オモシロイと思う。
「辰巳浜子の娘、カリスマ料理研究家辰巳芳子はそんな風潮を憂い、母から娘に受け継がれる伝統を大切にせよと主張する。だが、彼女の言う家庭料理は一部の特殊な家庭の伝統であって、決して日本の伝統的な家庭料理などではない。むしろオレンジページの読者が目指す手抜き料理の方向性こそが、本来の日本の家庭料理に回帰せんとする運動なのではなかろうか。」
おれとしては、こういう主張が、どんどん増えることを期待しているし、また増えるだろうと思っている。
26日に書いた、風呂会の会長、瀬尾幸子さんは、「酒とつまみ」に「瀬尾幸子のつまみ塾」を連載している。前から気になる存在だった。こんな「料理研究家」が、どんどん増えるといいなあと思って、その連載を見ていた。ある意味、瀬尾さんの料理は、辰巳芳子さんなどの「家庭料理」とは対極にある。
瀬尾さんの料理は、いろいろな身近の使えるものはドンドン使って、複合融合の料理で味をつくり出せるところに特徴があるように思う。加工食品やインスタント食品はイケマセンといった、ゴタクは述べない。ときと場合、必要とあらば、ドンドン積極的に使う。
なんでも程度しだい、それを判断する基準は、「生活」であり、「自分」である。
しかし、日本人は、とくに70年前後から「豊かな日本の中流意識」というアイマイな観念を持たされ、それを「消費」の判断基準としてきた流れもある。
そのことは、すでに何度か書いている。そして、これも何度か書いているが、「豊かな日本の中流意識」の「消費」は、一つは、「グルメ」つまり「外食」と「うまいもの」に傾斜した。
いま、「下流」だの「階層」だのと言っているが、貧しくても、「外食」と「うまいもの」の「豊かな日本の中流意識」だけは旺盛のようだ。いや、「外食」と「うまいもの」もよいのだが、それがガイドブックやサイト情報にたよっての右往左往。
そこに、どういう「生活」、どういう「自分」があるのか。どういう未来を想像しようというのか。探ってみると、「豊かな日本の中流意識」の残骸しか見えない。
「豊かな日本の中流意識」の「消費」に溺れて過ぎてゆく日々。そんな人間にワタシはなりたくない。と思ったら、「瀬尾幸子のつまみ塾」なんて、いいかもな。
……あっ、話が、ズレたか。な。しかし、「スローフード」も「食育」も、すでに汚れて色あせたなあ。そんなもんですよ、現実とチグハグな流行ってのは。
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コメント
どーも、コメントありがとうございます。
食に関する言説は、観念的というか感情的というか、根拠のないことが多すぎて困ったものです。
ま、力強くやりましょうぞ!
投稿: エンテツ | 2006/04/29 11:23
エンテツ様
言及ありがとうございます。食育のいかがわしさに対する指摘、まさに我が意を得たり、と膝を打ちました。
>アレを止めれば健康によい、コレを食べれば健康によいという短絡に陥り右往左往するだけで、幸福への絵が描けない「健康教」その根拠にある「栄養教」を、いま一度考え直してみる必要がある。
他にも地産地消教、無農薬教、反化学調味料教、料理は愛情教、自給率向上教・・・食の世界にはいろいろな宗教が渦巻いていますな。
私が日本の食に関する言説に疑問を抱いたのは、アメリカでの生活経験があったからです。
保存料、化学調味料漬けのインスタント食品、ジャンクフードばっかり食べているアメリカ人は、バカでも凶暴でも無能でもありません。
料理に愛情はありませんが、それでグレるわけでもない。確かに食は貧しいが、日本人に比べて不幸なわけでもありません。
平均寿命だって3歳しか違わず、それも健康保険の未整備とか食以外のファクターも考慮しなければいけません。
私が住んでいたキューバ人移民街では、大衆食堂で力強くぶっかけ飯を食う移民たちの姿がありました。あれは美味かった。まさしく力強くメシを食え!ですよ。
投稿: 光デパート | 2006/04/28 14:45