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2006/05/18

野菜炒めからスローフードとロハス

「現代日本料理「野菜炒め」考」を退屈男さんに送ったら、ブログで当ブログ内の「野菜炒め」関連のリンクを、おれの酔態顔リンクつきでまとめていただいた。ありがとう。……クリック地獄

今回、「野菜炒め」を考えたことから、派生的にいろいろなことがチカチカ思い浮かんだのだが、というのも野菜炒めのような現代日本料理は、ガスの普及と密接な関係があると考えられるからだ。

全国レベルでみれば、台所の火は戦後、炭と薪から電気とガスへと大転換する。敗戦直後の東京でも、「食糧難」だけが話題になりがちだが、電気とガスがなければ食糧が手に入ったとしても料理して口にすることができない状態があり、電気ガスつまり近年の言葉でいう「ライフライン」の復旧が急がれた。

「食糧安保」という言葉があるが、電気ガスのエネルギー源を輸入に頼る日本の場合、食糧だけではダメなのだ。電気ガスがなくては、コメすら食べられない。「食糧安保」をいうなら「料理安保」も必要だろう。

となると「安保」という言葉自体が、とても古い「炭や薪」時代の国家感覚であり、ま、仮に「安保」でもよいのだが、それは「脱国家・超国境」のエネルギーの時代として考えられなくてはならない。もうすでに、そういうエネルギー構造のうえに、日々の料理があるのだ。と考えると、どうも近頃の「食育」にせよ「愛国」にせよ、あいかわらず「炭や薪」時代の国家感覚のままだと思われた。

しかし、「炭や薪」時代の国家感覚やナショナリズムならば、あの「四島返還」問題は、どうなったのだろうか。靖国参拝で満足する国家感覚やナショナリズムとは、なんだろうか。もしかすると、靖国参拝のクローズアップは、「四島返還」問題から目をそらす役割をしてはいないか。となると、いまサハリンですすんでいる、大規模地下資源開発にからむ国際利権関係が気になる。「料理安保」の視点からすれば、イラン・イラク、尖閣列島、サハリン……、そこらあたりの関係を、別々にみるのではなく関連付けてみなくてはならないようだ。ムネオ外しをしたミッションの企みは何か?とかね。

ということであると、あの「スローフード」と「ロハス」だが、スローフードはアメリカのグローバル戦略に対抗するイタリアの戦略として聞こえているようだが、一方で似て非なる「ロハス」はアメリカ生まれだ。となれば、イタリアの「スローフード」に対抗するアメリカの戦略が「ロハス」ということか。

「スローフード」も「ロハス」も、「地産地消」を謳っている。日本では、どちらにせよ、「炭や薪」時代の国家感覚につながりやすい動きのように見えるが、元の発祥国に視点をおいてみれば、それはイタリアのグローバル戦略でありアメリカのグローバル戦略だろう。「脱国家・超国境」のエネルギーの時代の戦略なのだ、という感じがしないでもない。

いま「雑穀」もブームであり、たとえば蕎麦も含まれるが、この日本の雑穀ブームを追っていくと大手商社にぶちあたる。伝統の雑穀料理だから、「地産地消」かと思えば、そうではない。だが、イメージは、「炭や薪」時代の国家感覚の伝統食だ。納豆や豆腐など食べれば食べるほど、輸入依存度は高くなり、商社が頼りだ。「国産愛好」「伝統愛好」が商社頼りになってしまう構造。

そして、その商社は、「脱国家・超国境」のエネルギーとも密接にからんでいる。商社といえば、あの田中ロッキード事件から、あまり表舞台に出てこないが……。そして田中ロッキード事件といえば、油田開発つまりエネルギーが絡んでいたらしい。ふーむむむむむ……と、野菜炒めから思わぬ連想ゲーム風にアレコレ考え、けっきょく何もわからないのだが、ま、とにかく、一方に「炭や薪」時代の国家感覚があり、一方に「脱国家・超国境」のエネルギーに頼る料理がある、というわけだな。

騙されないようにするのは、ムズカシイ。イイカゲンがちょうどよいか。

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