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2006/07/28

古書ほうろう「ふちがみとふなと」で妄想す

きのうのコト。古い調査資料をわたすため急遽でかけなくてはならなくなった。デハと、赤羽まで来てもらってビール一杯やってのち、古書ほうろうの「ふちがみとふなと」ライブへ行くことにする。

出かける前に大衆食堂本の企画、これで決定版!というかんじが浮かんだので作り、編集さんにメールで送る。

赤羽5時半待ち合わせがヤロウの都合で延びにのび6時過ぎに、バカヤロウ飲む時間が短くなってしまったじゃねえか、それに「まるよし」は混む時間だぞとブツクサ言いながら、とにかく「まるよし」に。もう男たちで一杯だ。カウンターをかきわけるようにして二人分確保。やはりなんだね、朝からの酒も真昼間の酒もいいが、夕方一日の労働を終えたカタギな男衆のあいだに混じって飲むのもいいね。それにしてもミゴトに男だけ。クールビズやっているところが多いから、ネクタイしている人は少ないが。おれの左どなりの中年男は、職場でイジメにあっているような屈託をかかえた顔で、タバコをふかしながら、本日の晩酌の決まり分らしい酎ハイとヤキトリ5本をウツウツと大事そうにやっている。タバコの煙のほとんどは、おれの顔にかかるが、ま、いいのさ。

30分も飲まないうちに2人でビール3本あけ勘定を払って、一人で西日暮里へ。途中でビールはもういいから、ウイスキー水割缶とカップ酒を買い、7時ちょっとすぎに着く。南陀楼綾繁さんがいる。来るのがわかっていたら塩山芳明さんの「出版業界最底辺日記」を持ってきてあげたのに、「まだ買ってないでしょう、送りますよ」と言われる。フン、おれは出版業界モノなんか興味ないし、私小説風を気どったルサンチマンな悪態も嫌いだ、だいたい「最底辺」なんていうがインテリヒエラルキーのことで、出版業界最底辺といえば場末の大衆食堂で財布の中身を確かめながらめしを食べている、製本の奴隷的日雇い労働者とかのホームレス直前男たちじゃねえか、その上にあぐらかいているインテイリヒエラルキーのなかで言いたい放題が、なにが「最底辺」だ笑わせるねえ、あんな本はいらねえよ、と腹の中じゃ思いながら「最近、本屋へ行ってないもので、まだ買ってないけど、ご祝儀かわり買うから、いらないよ」とニコニコ顔で応じる。

こちらの腹を知らない南陀楼さんは、週刊文春で坪内祐三さんが取り上げてくれた、と言う。おれは腹のなかでは、フン、解説は福田和也で、坪内が文春で取り上げたなんて、いかにも身内びいきな出来レースだ、おれの本や大部分の人の本なら発刊1か月以内で書店に本があるうちに書評紹介に取り上げられることはまずありえない、それで販売に苦戦を強いられる、これだから出版界は永田町と並ぶムラボスコネ社会だってんだよ、しょせん塩の字もそういう業界事大主義に染まった男さ、それに福田や坪内の書評紹介をありがたがって、それだけでよろこんだり買ったりするやつがいるからなあ、出版も読書も全体的に質が落ちているってことだ、しかも変えようという意欲もない、情けねえなあ、と思いながら「そりゃよかったなあ、これで増刷まちがいないね」とニコニコ顔で祝福する。

というのは冗談で、ま、おれは、知り合いが書いた本は、なるべく買うようにしている。ムラボスコネ社会の奴隷的末端の本屋へは、めったに行かないから、まだ買ってないが。こうして悪口言っているふりして宣伝しているわけだ。つらいなあ。

それはともかく「ふちがみとふなと」は、一昨年12月、大阪で一人ふらふら入った飲み屋にスゴイ偶然にも、南陀楼さんと前田チンさんがいて、連れて行ってもらったライブハウスで聴いたのが初めて。それ以来だ。あのとき、なぜか、坂本九と「上を向いて歩こう」が連想されてしまい、気になっていた。そして、わかったのだ。ふちがみさんは、歌うとき、アゴを突き出し上を向き、手をふって歩くようにして歌うのだ。そして、ふなとさんは、坂本九のように美男とはいえない顔のつくりで、細い目、坂本九のように白い歯を出して、もしかすると出っ歯なのかも知れないが、ずっと農夫のような黒い顔に白い歯を出し楽しそうに笑っているような顔でベースを演奏するのだった。

しかし、どうも、それだけじゃない。「上を向いて歩こう」は、時空を超えるかんじがあるが、ふちがみさんのうたが、輪をかけてそうなのだ。時空を超えているというか、時間を超越あるいはゴチャゴチャに。それと、ふなとさんのベースの音が合って、ブワワワワワと時空を超えるのだ。もう時間も空間もなくなる、これは音楽の力とはいえスゴイことだ。そこでトツゼン縄文時代と思われる広葉樹林の中から上を向いて手をふって歩きながら歌うふちがみさんがあらわれ、彼女はズンズンズン歩いてきて、本当に、古書ほうろうの書棚の中へ歩いて行ってしまうのだった。その彼女が、シャベリのなかで「時間を入り混ぜたような感じが好きで」と言ったので、おお、やはりそうかと思い、「ふちがみとふなと」の、おれにとっての魅力の謎が解けたような気がした。彼女のうたには目覚まし時計で起きるサラリーマンや「ヤラセロ」というトラック野郎が出てきたり、きわめて具象的だが、時空を超える抽象は具象の積み重ねによるということなのかも知れない。

アンコールで南陀楼さんが「威張っていけ」とか「威張っていこう」をリクエストした。それは人を見下げるという意味の「威張る」ではなくて、ふんずけられても何があっても、胸を張って堂々といこうという意味での「威張って」なのだ。ところが、その歌を聴きながら、それをリクエストした南陀楼さんの気持がわかってきた。原稿が遅れても、本の発行が遅れても、威張っていこうということだな。で、そこからあらぬ妄想が湧いたのだが、南陀楼さんは、ブログの日記を見てもそうだが、実際会って、原稿や本が遅れている話をするときも、けっこううれしそうで楽しんでいるかんじがある。それを、それで誰かが困っているのを見てよろこぶサド趣味なのかと思っていたが、その歌でどうも逆なのだと気がついた。つまり遅れると、やはり負い目があるし、どうやら追求されたり、しょうがねえやつだなあという立場になることがあるようだ。そのときのマゾな気分が、彼はたまんなく心地いいのだなあ、そこで「威張って」と自分を励ます気分が、よい快感なのだ。と、気がついたとき、そういえば、夫人の内澤旬子さんは、皮モノが好きだ、彼女が黒い高いヒールのブーツをはいて、黒い皮のパンツに皮のチョッキを素肌につけ、皮のムチを持って、裸で腹ばいになって出っ張った腹のうえで宙に手足をバタバタさせる南陀楼さんのケツにヒールの先をたて、コノヤロウ、めしってのはナただ作ればいいんじゃないんだぞ、私事しながら仕事するなんてとぼけたこと言ってないでちゃんと稼がんかこの大甘ヤロウ、とか言いながらムチを入れると、南陀楼さんはヒイヒイヒイウヒヒヒヒヒごめんなさいスミマスミマセンと涙ながらに歓喜の声をあげ、「威張っていこう」をうたう……。なんともはや、とんでもない妄想が湧いた。

ライブが終り、おれが、まさかそんなことを想像したとは知らない南陀楼さんと「じゃあね」と別れ西日暮里駅までの道、この妄想を思い浮かべ、アタリかもなあとニヤニヤするのだった。

西日暮里の駅も電車の中も、浴衣を着た若い女が目立った。どいつもこいつもバカ面している。ハヤリで、むかしのガングロが、いまじゃ浴衣を着ているかんじだ。いまのレトロ和ブームとは、そういうものなのだろ。

帰ってメールを開いたら、大衆食堂本の編集さんからメールが入っていて、「面白い!」とあった。これで忘れて遅れた分は、いくらか取り戻せたか。まだ先のほうが長いが。あとはガンガンやるだけ。でも、これから、生ビールの夏だからなあ。

と、日記風に書いてみた。

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