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2006/08/31

『明治西洋料理起源』の見どころ

8月25日に「今日締め切りの原稿のために、明治期の西洋料理店の資料を見ている」と書いたが、これは『散歩の達人』の「掘り出し本に一本!」のコーナーに、『明治西洋料理起源』(前坊洋著、岩波書店2000年)を紹介するのだ。

本当は、『マチノロジー 街の文化学』(望月照彦著、創世記1977年)にしたかったのだが、いま読者が簡単に購入できる本じゃないといけないと却下。古本屋には比較的よく出回っているようだから散歩がてら古本屋をまわって探せばよいじゃないかと思ったが、そうもいかないらしく、この本にしたのだった。

『マチノロジー 街の文化学』については、このブログでも何度か断片的にふれている。簡単にいってしまえば、都市を「マチ」から、その最初単位として「屋台」から見直していこうという、「ヤタイオロジー」から始まる「マチノロジー」がとてもおもしろい。ようするに、屋台は、最小単位の街的な「空間(地理)」と「時間(歴史)」を有しているということから出発している、と言っていいだろう。

で、『明治西洋料理起源』は、街について語っているわけじゃなく、タイトルの通り丹念に明治西洋料理起源を掘り起こしているのだけど、あきらかに「空間(地理)」と「時間(歴史)」と、そこに生きる人びとが意識されている。結果、文明開化の東京の街が、浮かび上がってくるのだ。

それはトウゼンといえばトウゼンのことで、ま、拙著の『大衆食堂の研究』や『汁かけめし快食學』でも、とくに街の飲食店やカレーライスの歴史などを語るときに欠けている、「空間(地理)」と「時間(歴史)」を意識している。しかし、コンニチの飲食談義の世界では、そういうことから離れ書誌学的な衒学趣味文芸趣味的な、まちがいデタラメの多い、そしてマニアックな言説がマンエンしている。

『汁かけめし快食學』で何度もふれているが、料理の歴史は、とくに料理は、食べればなくなるものだから、台所での再現のくりかえしの歴史なのだということだ。つまり、その時間その空間にいる人びとのあいだに、その料理がくりかえしつくられ食べられる必然がないかぎり、あこがれの西洋人が持ち込もうが、軍隊で経験したおいしい料理だろうが、くりかえしつくられ食べられることはない。

そのことについて、『明治西洋料理起源』の著者、前坊さんも意識していて、このようなことを随所で述べている。「はじめての西洋料理屋の成立は、西洋料理を自分の意志でくりかえしたのしもうとする人々の存在を前提とする」そして、ことこまかに、ふんだんにめったやたらスゴイ資料を駆使して、その「人々の存在」を探る。

そして、アレコレ考察し、「伝統にないものが忽然と出現したわけでは決してなく」という結論に達する。ま、トウゼンといえばトウゼンだけど、こういう本がふえて、いつまでもカレーライスの「元祖」はイギリスだインドだ、軍隊から広がった、と言っているような飲食談義の風潮は、はやくなくなってほしいですね。

はて、ところで、この原稿は、いつ発売の『散歩の達人』に載るのだろうか? 無事に掲載なるのだろうか。

そうそう、それから、先日届いた、セドローくん制作の「古書現世」の目録には、『マチノロジー 街の文化学』が載っていた。A5 411頁、1800円。説明に「屋台の都市学的考察、街の占い師たちの実態調査ほか」とあるが、屋台をつくれそうなほど詳細な図解やら、渋谷などの飲み横のサーベイが載っていて、オススメ。古書現世……クリック地獄

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2006/08/30

水道水を、どうするのだ

「現代用語の基礎知識2007」の綴じ込み付録「生活スタイル事典2007」に執筆を頼まれて、やることにしたら、先日見本誌2006版が送られてきた。これから2ページ分の項目を考えて書かなくてはならない、しかも、酒を飲みながら調子よく引き受け、届いた企画書を見たら締め切りが9月15日じゃないか!

それはともかく、見本誌をぱらぱら見ていたら本体のジャンルに「食文化」があって、「フードプロデューサー」という肩書の小倉朋子さんという方が執筆している。

最初の「frame work」で「食ブームの中にある原点帰り」のタイトル。ざっと食生活をめぐる動向がまとめられ、「そんななか、05年6月には食育基本法が施行され、食育の必要性や、国が挙げて食生活を指針することも余儀なくされている。自らの意思で自らの食を見る努力や、食を本気で大切と考える価値観が期待される現代」と結んでいる。

ま、何度も書いていることだが、うまいもの話と栄養素に矮小化された飲食情報に右往左往する食の姿は、オカシイ。「自らの意思で自らの食を見る努力や、食を本気で大切と考える価値観が期待される」んだよなあ。とくにいつまでたっても、飲食を舞台に「通」や「道楽」ごっこをしている男たちよ。どうせなら漫画屋のエロ本で「エロ通」ごっこをしていなさい。

まあ、それで、きのう出かけるときに気になることがあって、JR北浦和駅ホームで確認したのだ。それは、駅のホームにあった「水飲み場」だが、あれがなくなっているような気がして、もとあった場所を見たら、やはりなくなっていて、制水弁を格納したあとなどがあるだけだった。

おれはこの夏は、チトわけがあって例年とちがってウチで麦茶をつくらずに、買ってきたウーロン茶を使って終ってしまったが、いつもなら水道水で麦茶を煮て冷す。あとは、これからも、水道水を沸かしてお茶になる。んで、喉が渇くと、お茶か、湯冷ましを飲んで過ごす。これが、フツウだ。

二日酔いのときに、ヤカンの湯冷ましをさ、ヤカンの口にかぶりついてゴクゴク飲むとウメエんだよなあ。湯冷ましがないときは、水道の蛇口に口をつけて飲む、これもウメエんだよなあ。もちろん、熱いお茶の一杯もうまいけど。とにかく、そんなわけなので、飯を炊いたり味噌汁に、買ってきたペットボトルの水を使うことはしない。ペットボトルの水を買うのは、一年に、ほんのわずかだ。

しかし、どうも、スローフードやロハスを唱えたり、つまり環境にも人にも優しい生活、なーんて申している方々には、買ってきたペットボトルの水を使うひとが多いような気がする。どうもその、おいしい健康によい生活とか申すものほど、水道水から離れ、結果、公共的な生活水からの関心は遠のいているのではないかと思う。いまじゃ平気で「自己責任」の浄水器が普及している。

それは、環境への負担増であるし、なにしろあのペットボトルのゴミ量だけでもな、それに水という生命の根本が産業と消費のシステムに依存するのは、生活の姿として望ましくないと思う。もっと公共のシステムとして、質の向上に関心を持つべきじゃないか。

東京都の水は、下町の食堂の人の話でも、かなり改善されたようだが、どうやら多摩川水系のほうは、まだであるらしい。もしかすると東京西域山の手地域の人たちほど、産業と消費のシステムの商品水に依存が深く、公共生活水への関心が低いのかもしれない。

そもそも、駅のホームにあった水道がなくなっているのに、騒ぎにならないのは、どうしたわけか。あの水は飲まずに買う、ということが常識化しているからではないのか。そしてJRは、コスト減になるから、よろこんで、さっさとホームから水飲み場を撤去してしまった。

なーんて、アレコレ気になった。今日は、チョイと気になるだけで、うまく書けないので、このへんでオワリ。

「自らの意思で自らの食を見る努力や、食を本気で大切と考える価値観」を、まず水から考えていこう。なあ、バカな男たちよ。

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2006/08/29

諏訪大社新宿・三平鳥居前の茶屋トコロテングルメに襲われる

去る6月に「四月と十月」古墳部一行と「八ヶ岳周辺・諏訪の古代をさぐる」旅をしたことは、6月6日に書いた。

そのとき詳しく書かなかったが、訪れた諏訪大社上社本宮の北門の、堂々たる大鳥居に大衆食堂的発見をしたのだった。

それは、拙著『大衆食堂の研究』にも書いた、1960年代の新宿を、あるいは新宿の大衆食堂を語るとき欠かせない「三平食堂」だ。いまでは「三平食堂」はなくなったが、三平酒蔵や三平ストアなどを経営する「三平グループ」なるものである。とにかくかつては、三平食堂であり、ここの社長、いまは会長ということになるか、新宿立志伝中の人で有名。

Suwa_kitatoriiその人が、山梨の出であることはウワサで知っていたが、その会長と社長の銘が、堂々たる大鳥居に刻まれているのだ。クリック地獄で画像拡大。「東京都新宿区 株式会社 三平  会長 小林平三 社長 小林莞侍」とある。そういや諏訪は長野県だが山梨に近い。井上靖の小説にもあったと思うが、甲府の武田とはいろいろあった。

今日の話は、それではない。その右側の画像にある通りだ。鳥居の足のむこうに茶屋が写っている。ここでトコロテンを食べたら、うまかったのだ。ここでなぜトコロテンかというと、簡単にいえば、このあたりは寒天の産地だからだ。海がないのに、なぜ海藻を原料とする寒天の産地かといえば、気候が関係する。天然フリーズドライ製法ともいうべき方法に適地なのだ。ということは、今日の話の本筋ではない。

とにかくその茶店のトコロテンがうまい。そして、ここのオヤジが個性的なもので、印象に残ったのかなあ。

で、やっと話の本題だが、たぶん今朝方だと思う。ひさしぶりに夢を見た。それが、そのオヤジだと思うのだが、大きなトコロテンをつく道具をもって四角いトコロテンのカタマリを入れ、おれのほうに向ってつくのだ。すると、わらわらわらわらとトコロテンが飛び出してきておれに降りそそぐ。それがなんだかみなニンゲンになるのだ。そのニンゲンが、「うまいもの好きだぞ~」「グルメだぞ~」とあらぬことを口走りながら、おれの上に降りそそぐのだ。おれは、「ぐわ~っ」とかいいながら目が覚めた。……ような気がする。

おきて、冷しうどんを食べながらウーロンハイを飲み、よくよく考えると、そういえばきのうの日記といい、おれはよく「うまいもの好き」や「グルメ」の悪口やからかうようなことばかり言っている。どうもそのためにウラミを買ったのだろうか。ああいう連中は性格の悪いやつが多いからなあ。って、また悪口書いちゃいけねえよ。

ま、そういう話。

と、こういうことばっか書いていると、ライター仕事はこなくなるねえ。やはり「うまいもの好き」「グルメ」に「スローフード」に「食育」「ロハス」にアレコレじゃなきゃあいけないんだよね。

けつ喰らえ!

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2006/08/28

「安くておいしい」と「おいしく食べる」のあいだ

どうも「大衆食」などを名のっていると、「安くておいしい」ものや「安くておいしい」店を知っているものと思い込まれて、そのテのことを聞かれることが少なくない。それは、とても困ったことなのだ。

椎名誠さんは、かつて「書評誌「本の雑誌」の編集長をやっているのでよく「いま面白い小説はなんですか?」と聞かれる。そういわれても即座に「ハッ、いま面白いのはコレとコレであります、ハッ」というふうにこたえることができない。自分が面白がって読んでいる小説が誰が読んでも面白いとは絶対言えないからである。うまいラーメン屋についての評価とすこし似ていて「こってり味」の好きな人が「さっぱり味好み」の人に「これはうまいですよオー」と大絶賛紹介して失望されるムナシサみたいなの、よくあるでしょう」と書いている。(『むははは日記』角川文庫「活字荒野に夕日が沈む」)

といいつつ椎名さんは、「ところが一冊だけこってり派もさっぱり派も極辛派もギトギト派も包含してまず95%の確立で絶対面白い、といわれるだろう小説も知っている」と、アーサー・ヘイリー『ホテル』(新潮文庫)をあげている。これはまあ、1980年代前半時代の話だが。当時を、ふりかえっても、そのように『ホテル』を評価することについては、おれは首を傾げてしまうから、やはり、「絶対面白い」というのは、難しいものなのだなあと思う。

それは、一つには、それぞれのもつ「ストライクゾーン」ちかごろよくいわれる「ツボ」にも関係するだろう。それぞれの「ストライクゾーン」や「ツボ」が狭く小さいならば、場所や位置のちがいもあるし、「安くておいしい」対象は、かなり限定されてくる。その上、それぞれの好みの方向性を加味すれば、合致はかなり困難なはずだ。しかし、一方では自分と同好の仲間が欲しくてたまらないという状況もあるようだ。

それから、もう一つは、街には「安くておいしい」という尺度にあてはまらないで成り立ってきたモノやコトが、たくさんある。それは、人間には、「おいしく食べる」という文化があるからなのだが。マーケティングと消費主義は、そのことを忘れさせる力を持っている。

しかし、ことによると、「おいしく食べる」学習によって、「安くておいしい」モノや店が発見されているのかも知れない。となれば、「安くておいしい」モノや店を評価して歩くのもよいだろうが、それをするニンゲンの「おいしく食べる」学習能力も評価の対象になってよいはずだ。

Hatagaya_sankouenともあれ、きのうチョイと書いた、幡ヶ谷の山幸園の画像を掲載する。クリック地獄で拡大。こういう食堂をキチンと紹介するようになりたいと思うのだが、思いつつ努力もせず10年以上すぎてしまった。ここは、「安くておいしい」店ではない。と、書くと、モンダイであるが、「おいしく食べる」ことを知っている人たちによって支えられてきたのだろうなあという印象を、最初に入ったときに感じた。そういうことを感じさせる小さなコトがあった。そして、やはり、また2回目も入ってしまい、それから気になっているのだ。「街的」にみれば、こういうことは、めずらしいことではない。「安くておいしい」を尺度に「おいしく食べる」を捨てていくと、街は、どうなるのだろうか?

山幸園の画像、1階のガラスに見える灯りは、向い側からの写りこみで、実際は真っ暗だった。道路の先5分ほどの位置に京王線幡ヶ谷駅があり、おれが立っている背中には、銭湯。

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2006/08/27

「世界の海を食いつくす」日本の「魚ばなれ」の矛盾

連載の食品商業6月号「食のこころ こころの食」のお題は「「魚食べない」も時代の流れか」だった。この号の特集「ストップ・ザ・さかな離れ」に連動したテーマだ。

そこでおれは最後のほうに、こう書いた。「エビやタイやカニや遠洋マグロをありがたがる姿は、あるいはインスタント食品化した刺身盛が店頭に並ぶ姿は、本当に魚食のよさやおいしく食べることを知っている伝統の姿だろうか」

「「魚離れに歯止めを掛ける」にしても、これ以上、遠洋マグロやチリ産サケを食べるようになったら、生態系への影響で日本は叩かれることになるに違いない。それでも、もっと食べなくてはいけないのだろうか」

今日は、また、そのことを思ってしまった。

ときどきコメントをいただく、「Wein, Weib und Gesang」さんの、8月27日「鮨に食い尽くされた鮪」を見て、おれはコメントを書いてきたが。……クリック地獄

日本人が原因の、トルコのマグロ乱獲は、以前にも問題になったことがあったが……うまいもの好きがたくさんいるはずの日本だが、なんだかねえ、うまいもの好きのオシャベリだけで、食べることを愛しているわけじゃないんだよなあ。自分を「上」に見せるための、単なるネタ。……ああ、「愛」なんて、恥ずかしいことを口走ってしまった。

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幡ヶ谷、森林再生機構に1億円を!

きのう、10数年ぶりに京王線幡ヶ谷へ行った。ここには、まだ元気でやっているかどうか気になっている食堂があるのだ。待ち合わせ時間より早めに着いて、幡ヶ谷駅の南口、西原商店街の「山幸園」をめざす。

Hatagaya_komeya_1西原商店街の古い何軒かの店は、そのままあった。看板に、「東京都指定米穀登録店」とある、柴田米店、そのまんま。その前を通り過ぎ、山幸園が見えた。しかし、閉まっている。建物は、そのまま。2階の部屋の窓から灯りが見えるが、厳重に戸締りしているから、昼休みということではなさそうだ。オヤジが料理をつくり、娘がフロアーをやっていたのだから、もしかしてオヤジの具合でも悪いのか。

ここは、いま50歳ぐらいの某大手出版の編集者が学生時代に、よく立ち寄った食堂で、彼は拙著『大衆食堂の研究』を読んで懐かしくなり行ってみたのだった。それから、おれも機会があって、2回ほど行った。飲食店経営コンサルタントのように評価する人たちからすれば、×の多い店だろう。ま、詳しくは、気が変わらなかったら、明日画像と共に掲載しよう。

そして5時に幡ヶ谷駅で日本森林再生機構の庄左衛門大将と待ち合わせ。初対面の田口さんとあらわれる。これで、森林再生機構は、4名か。幡ヶ谷でなくてもよかったのだが、森林+納豆ぶっかけめしの連想から、大将がネットで発見した、納豆飯専門店「ねばり屋」へ行ってみようということになったのだ。

落ち合ってから、ま、見るだけでもと、また山幸園へ大将たちを案内。もどって北口側の甲州街道を渡り六号通り商店街へ。ここも10数年ぶりだが、活気があっていい。よさげな古本屋、その前にブックオフ。水道道路へ出るチョイ手前左側地下に「ねばり屋」はある。その先、水道道路を渡ったあたりにあったはずの食堂は、どうやらビルにのみこまれて消えてしまったようだ。食堂の名前を覚えていたつもりだが思い出せない。

ねばり屋は、元イタメシ屋だったらしき店舗をそのまま納豆飯屋にしたようだ。入口の自動販売機で食券を買う。おれは納豆+とろろの定食にビール。ま、普通だ。

出て、なんとなくよさげな飲み屋がありそうと臭う路地をうろうろすると、ありましたありました、あまりキレイではない、大きめの赤提灯と縄のれんがぶらさがり、ヤキトリの臭いがモウモウと外に流れ出す。戸はキチッと閉まり中はみえない。「よさげ~」と声をあげ、戸をガラリとやると、けっこう広いがカウンターのみ。いかにも常連という顔が揃ってこちらをいっせいに見る。しかし、6時過ぎというと真っ盛りの時間帯だから、空き席なし。うーむ、残念。では、と、生もの系の飲み屋に入る。ま、ふつうによい店で、くつろぐ。

ここで、ワレワレは、ただ飲んでいるだけではなく、日本の森林や河川や農林業あるいは食べ物などについて、あれこれクソマジメに語り合うのだった。

大衆食堂より明日がない林業に再生の道はあるのか。ナイに決まっているだろう。竹藪化しつつある檜林は、そのまま竹林になるがまかせたほうがよいのかというと、そうではなく、やはり伐採して日当たりをよくしたほうがよいらしい。モンダイは、林業というのは、キケンの多い仕事だ。肉体力も必要だ。あれはなんとかならんのか。大将いうには、全部で5千万円あれば、傾斜地の現場でも、ほぼ全自動で処理する機械と設備があるそうだ。キケンも、かなり軽減される。

それなら、まず5千万円か。おい、誰か5千万円だせよ。それだけじゃ、足りないな、当面農林業法人日本森林再生機構のために1億は必要だな。都会あたりで飲食店を食べ歩いては、うまいものやうまい店について能書きたれている連中からカネをとる仕組みをつくるべきじゃないのか、けっきょく、あの連中は森林破壊に手を貸しているようなものだからな。そのようにアヤシイ話が深まり、われわれは酔いを深め、そこからトツゼン、お互いに帰りが便利な、鶯谷は信濃路へ行き、さらに酔いを深めたのだった。

ひさしぶりに外で長々と騒いだので疲れたし、今日は涼しいこともあって、よく眠れる、眠い。

森林再生機構については、当ブログ4月16日「森林の再生か肝臓の堕落か」……クリック地獄

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2006/08/26

ロハスはチョイ気になる

ここ数年の食関係の重要なキーワードというと、「食育」「スローフード」「ロハス」ということらしいけど、「ロハス」の最近の動向は気になる。というのも、「ロハス」は当初の動きと、まったく違った様子を見せているからだ。アメリカにおける元来の意味や意義から離れて、日本人の勝手な解釈や気分が支配するところとなったようだ。そして、なにか「よい」を志向しながらも、イマイチ「食育」や「スローフード」に積極的になれなかった気分も、「ロハス」だとしっくりくる関係も見られる。

もともと、「食育」「スローフード」は、その成り立ちからして生産者志向や国家志向が強いコンセプトで、たとえば「地産地消」や「手をかけるほどよい手作り」といった考えは、とくに圧倒的多数の都会の消費者の日常生活とは矛盾が多い。

その矛盾を、消費者は怠け者の堕落者で「感謝」が足りない大バカ者と断罪することで、押し付けがましく説教臭く、それぞれの生活に干渉しながら成り立つ面があった。生産者の団体や栄養士のセンセ、その上に、政権党の諸センセ方や官僚が偉そうに旗を振っている…こんなぐあいにね。クリック地獄

都会の消費者が、より自由な感覚や発想を働かせる余地は、ほとんどない。ところが、「ロハス」は最近とくに、それぞれの勝手な解釈で、自分なりのロハスというかんじで広がっているようだ。そこには、押し付けがましい居丈高の声高の主張はない。

「ロハス」って、なーに?というと、「アメリカ生まれの造語でね、Lifestyle of health and stainability
という英語の略。「健康と持続可能な社会に配慮したライフスタイル」ということのなのよ」という答えが返ってくるあたりは共通しているが、ほかはてんでばらばら雑多なのだ。とくに「地産地消」のような強固なモデルが頑張っているわけでもなく、それは望ましいかも知れないけど、「食育」や「スローフード」のように、そうじゃなきゃいけないという教えに従う必要はまったくない。「手をかけ、時間をかけるばかりが、おいしい料理の秘訣ではない。忙しい、時間がない、そんな制約があるからこそ、工夫し知恵を絞って、新しいおいしさを発見する」といった主張も通用する。

そのように消費者の自由な感覚が通用しやすいということは、マーケティング的にもやりやすいということになるから、ますます「ロハス」は普及する。という関係もあるようだ。そこは、いいことばかりじゃやないようだが、ようするに、それぞれが「健康と持続可能な社会に配慮したライフスタイル」を送っているという「感覚」や「気分」が、あるかどうかなのだな。そこに、少なくとも、生産者志向の色濃い押し付けがましい「食育」や「スローフード」との違いがあり、自立的なライフスタイルの志向が強いほど、「ロハス」に向う可能性がある。

なーんてことを思考しつつ、きのうは締め切りの原稿を仕上げてメールで送った。書いたのは、ロハスのことではなく、オススメ本の紹介だけど。金曜日締め切りというのは、本当は月曜日の朝までに送ればよいというわかっているのだが、「健康と持続可能な社会に配慮したライフスタイル」からすれば、おれのような「作文芸人」ではない「作文労働者」は、締切日は守っておいたほうが健康と持続可能の社会のためによいという判断なのだ。というぐあいに「ロハス」をつかうことも可能か?

ま、ロハスについては、まだ書く、つもり。

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2006/08/25

メイドに萌えの昭和初期の男たち

きのう書いたように、秋葉原の街頭でメイドちゃんを見た。ウワサでは聞いたりネットで画像を見たりはしていたが、現物を間近に数体も見たのは初めて。しかし60過ぎの男は、あのむき出しの白い腿に萌え発情するほど若くはなく、灼熱の街角でボワ~と眺めながら冷静な知性で、そういえばこの格好は、むかしの飲食店風景にあったなあと思い出したのだった。

Meidoんで、みつけました、この挿絵。クリック地獄で拡大。まさしく、メイドちゃん。これは、由緒正しいお上品な日本橋高島屋食堂の「女給」さん。昭和初期の風俗ゆえ、スカート丈はいまほどミニじゃないが、しかし、ヒザややギリギリ上だから、当時としては露出の多い方だ。ホッソリ体形に、首が長く、顔が小さいあたりは、アニメチックでもある。

これが載っている本は、ザ大衆食のサイトに紹介途中のまま放り出してある、「東京名物食べある記」……クリック地獄。1929年(昭和4)発行だが、時事新報社家庭部記者が、1923年の関東大震災から復興した東京の飲食店を食べ歩いて紹介する新聞連載記事で、かなり評判だったものをまとめた。

この挿絵のところで、記者たちは、こんな会話をしている。

久「女給さんの服装もいいじゃありませんか」
M「エプロンも仲々洒落ている」
S「何処までも少女らしいかんじでいい」

当時の新聞記者といえば、インテリ中のインテリ。その会話だ。むかしもいまもメイドファッションに萌えの男たちは、その「少女らしさ」が魅力であるのか。オトナな女は苦手なのか。そういう心理が昭和初期とイマの時期に、東京の街角の風俗として露出する、なにか必然はあるのだろうか……?。

「東京名物食べある記」の挿絵で、いちばん多い「女給」のファッションは、着物姿にエプロンだ。いちおうエプロン姿が、モダンであり、モダンの「色気」として、スタンダードであったようだ。

ほかに、この絵のようなファッションもあるが、スカート丈は長くエプロンも大きい。スカート丈が短いほど、ヒラヒラのついたエプロンは小さいほど、「少女らしいかんじでいい」と、男は萌えなのかも知れない。

関東大震災で江戸の名残りの風俗は一新され、東京では地方の貧困がウソのような、「モダン」が流行する。拙著「大衆食堂の研究」にも引用したが、昭和三年八月の『東京市ノ状況』に東京市役所統計課の役人が、「粋ナ純日本式ノ建物ニ大江戸ノ名残ヲ偲バセテ江戸前ノ庖刀ヲ誇ル日本料理店ヨリ所謂カフェーノ名ヲ以テ呼バレテ居ル西洋料理店ヘノ推移ニハ現代人ノ有スル生活意識ト歓楽ヘノ欲求ガカナリ濃厚二彩ラレテ居ルヨウニ思フ」と書いたようなアンバイになる。

はて、「現代人ノ有スル生活意識ト歓楽ヘノ欲求」は、なんなのでしょうかねえ。

今日締め切りの原稿のために、明治期の西洋料理店の資料を見ている。「女給」は和装が圧倒的だが、どのみち、エプロン姿はない。

ってことで、オシゴトにもどろ。

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2006/08/24

講演声出ずバカFax絶不調

都心御茶ノ水のホテルで朝10時半から12時まで、スーパー経営トップセミナーで講演。8時半過ぎにウチを出るが、もうたまらん暑さ。ひからびたかんじで会場に着く。

OHPを使いながらやるつもりで準備していったが、壇上は狭くOHPは自分で操作できる位置にはない。どうしようか数秒瞬間的に考えるが、ま、シャベリだけでいいかと判断する。やってみると画像がないと、けっこうやりにくい。おもわず口もはやくなるし、声に力が入ってしまう。途中で疲れたかんじで声が出にくくなる、ああ、声がかすれるう~、と、マイクをひきよせつつ、なんとか終了。終ってから白板があるのに気づき、これを使えば少しは違ったかと思ったがあとの祭り。ちと、話が届きにくかったかもなあと反省。

昼食をごちそうになり、帰り、炎天下秋葉原へ出て、メイドちゃんをジロジロ見物したりウロウロするが、とにかく暑いのでデレデレヘロヘロ帰宅。

ウチにはFAXで食品商業10月号の校正が届いていたが、とにかくバカ「おたっくす」が買ったときから調子が悪く、またも、うまく受信できてない。電話をして送り直してもらう。ダメ。送り直してもらう。ダメ。送り直してもらう。ダメ。郵送してもらうことにして、しばらくすると、バカおたっくすがFax が届いたことを告げ、正常にFaxを吐き出す。どうなってるんじゃ!どうしてくれるんじゃ!

28日が締め切りだと思い込んでいた原稿が明日締め切りだと気づく。おもしろくないので、とりあえず呑むことにする。いま、まもなく16時。

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2006/08/23

衣食足って欲ふくらむ

「講座 食の文化」(監修・石毛直道、責任編集・吉田集而)に、柴田武さんが「言葉からみた食」を書いている。

衣と食と住は人間の生活を支える基本的なもので、言葉としても「衣食住」がひとつになっている。だけど、さらに分析すると「衣食」と「住」で、「衣食足って礼節を知る」という言葉があるように、衣食の結びつきはつよい。そして、たとえ住と衣がなくても、食だけはなくては生きていけない。

テナことが書いてある。しかし、ホームレス生活でも、衣食は最低必要のようだ。青い珊瑚礁、常夏の国なら、衣なしでもよいかも知れないが、日本では衣食がセットだろう。

「衣食足って礼節を知る」という言葉は、いつごろどう生まれたか知らないが、都市化も消費主義もみえていなかった時代に生まれた言葉にちがいない。消費都市生活者は、「衣食足って」さらに何かを欲しがり欲望はふくらむ。そもそも欲望をあからさまに消費に群がるのは、資本主義的な礼節のうちだ。

その消費構造は、とくに東京のような大消費都市のばあい、国があることによって成り立っているから、東京の生活に慣れると国が亡んだら生きてゆけない。消費心理は、必然的に国にぶらさがる。きのうと話は逆だ。最近の国家運営というか政権運営というかは、そのへんのことを、よく読みきっているように思う。衣食足って膨張した礼節を知る欲望を満足させられる少々のカネを渡しておけば、都市生活者の多くは「快適」に過ごす術を心得ている。趣味すらも、消費を超えることはない。

それはともかく、柴田武さんがまとめた、「食」をめぐる比喩的表現を、じっくり眺めているとオモシロイ。笑ってしまった。「礼節」のイメージに近いものは、ほとんどない。現実は、なかなか腹黒く欲深くオモシロイ。


分類    表現

欲望    面食い 初物食い つまみ食い
経済的   食いはぐれる 食いつめる 冷飯食い 共食い
支配    人を食う 大物食い
処理    煮ても焼いても食えない うまく料理する 人を肴にする
意識    焼きもち 一夜漬け 清濁あわせ呑む

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2006/08/22

人間は国が亡んだとて生きてゆける

おれが受けた戦後「民主主義」教育とやらは、国つまり国事の歴史であって、そういう歴史を教育されていると、なんとなく国があって、自分は食べていけるんだな、という気分になる。

しかし、歴史の実際は、必ずしもそうではない。古い昔のことをいえば、「食べること」が先で、それから国が生まれている。それに、比較的新しい時代、いまでも、国が亡んでも生きている人たちはいる。日本の歴史においても、「食べること」のために国が存在したことはないように思う。だからといって国はイラナイということではなく、国が必要ならば「食べること」のための国を未来に構想すべきだろう。ということで、過去の歴史も、そういう視点でふりかえってみるのは、ムダじゃない。

ま、とりあえず。[書評]のメルマガ vol.151(2004.2.9発行)から

■食の本つまみぐい  遠藤哲夫
(4)国事よりも食事が大事
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邱永漢『食は広州に在り』龍星閣、1957年。中公文庫、1975年。

 前に書いた、丸谷才一さんが『食通知ったかぶり』で「戦後の日本で食べもののことを書いた本を三冊選ぶとすれば」とやったうちの一冊。食文化的には、何度読んでもイロイロ面白いのは、本書だ。

 中公文庫のカバーには、こうある。「美食の精華は中国料理、そしてそのメッカは広州である。広州美人を娶り、白亜の洋館に在って、時に自ら包丁を手に執る著者が薀蓄を傾けて語る中国的美味求真。一読、その美酒佳肴に酔う」。食通を気どる読者が喜びそうな言葉をつらねてあるし、そういう読み方もできるが、邱さんは「食通」であることを否定している。30歳代そこそこのことだからね。

 一方、その解説、丸谷才一さん。「邱がわれわれに教えようとしたことは、やたらに格式張った儒教道徳の誤りだけではない。彼はもう一つ、まさしく昭和二十年代の後半において日本人が学ばねばならぬことを説きつづけたのだが、暢気なわれわれは、たかが食べもののことを書いた随筆のなかにそんな大それた教訓が秘めてあるとは思わなかったらしい。彼の教訓とは、人間は国が亡んだとて生きてゆける、ということであった」

 じつに東大優等生的な味気ない解説だし、それこそ邱さんが本書で天下国家より食事と、カラカラ笑いとばした事大主義日本人のオカシサだと思うのだが、そういう読み方もできる。単なる「中国的美味求真」の書ではない、イヤまさに「中国的美味求真」か。いま「食育基本法」なるものを制定し、「食育推進国民運動」なるものをやろうという日本、本書を読んだほうがマシのような。

 1954年末から「あまカラ」に連載された。『食は広州に在り』とはシャラクセエ。しかし、それが「美食」のことではなく、猫でも鼠でも蛇でも、なんでも食べてしまう広州という意味なら納得できる。邱さん自身も広州出身の奥さんがゲンゴロウを食べるのには、参っているしな。

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「食べること」と戦争観

チト忙しいのだけど、きのうの「ひょうたんの残暑見舞いが届いた」に吸うさんのコメントがあって、戦後の教育では、そういう見方が一般的かなと思ったので、簡単に、このことだけ書いておきたい。

戦争というのは、いろいろな見方があって戦争観によって、まったく違ったとらえかたになり、日本では、先の大戦についても「敗戦」ではなく「終戦」であるという考えもあるようだし、詳しくは知らないが、とてもマニアックな細かいイキサツについて議論される。

んで、おれは、とにかく「食べること」をぬきの戦争観には、あまり興味はない。そして、「食べること」を中心に見ていくと、先の大戦というのは、日本も含め大部分の国が農業国だった。つまり一時的にせよ、国土が占領されたり戦場になって荒らされたりすることは、「食べること」においても産業構造上においても、そして文化的にも大変なダメージを受ける。

どうやら、そういうことに日本の戦争指導者は、あまり関心がなかったらしい。「武士は食わねど高楊枝」の政治であり戦争だった。そのことは、「[書評]のメルマガ」vol.267で取りあげた、『肉食文化と米食文化』(鯖田豊之著、中公文庫)などにも詳しい。

単なる政治的な権力闘争的な勝ち負けの戦争観なら、連合国は単純に「戦勝国」だけど、ヨーロッパ大陸では、一度はドイツとの戦闘に負け占領下におかれた国々がある。しかも、国によっては、国土が戦場と化した。

ドイツも含めヨーロッパ諸国は、戦争準備にあたっても「食べること」の計画は周到だったが、とにかく占領という敗戦下で、「食べること」をしなければならない経験をしている。戦後の食糧難は、「敗戦国」の日本特殊のことではなく、最後は連合国側に身を置き「戦勝国」であったヨーロッパ諸国でも深刻だった。

戦争の影響や本質を考えるなら、そういうことも考えるというのが、おれの見方なのだ。実際に、歴史の流れを「勝ち負け」の最新結果情報から見ないで、歴史の流れにしたがって向こうから見てくれば、連合国にも「敗戦国」はあった。しかも、その被占領状態は、農業国にあっては、直接「食べること」に影響する。

どこかの国の指導者たちが勝手に勝ち負けを決めて、勝てば官軍で戦争犯罪人などを裁く戦争観など、とくに庶民とっては、戦争のほんの一部のことなのだ。

とりあえず、いじょ。

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2006/08/21

ひょうたんの残暑見舞いが届いた

Hyoutan先週末、めずらしい残暑見舞いが届いた。画像、クリック地獄拡大。このように、ひょうたんに直接、140円分の切手を貼り、宛名も差出人も、残暑見舞いの文章なども書いてある。このまま届くのだ。おもしろいなあ。

しかし、きのうは体調が悪かった。涼しかった田舎から帰ったら猛暑で、昼は利かない冷房だから夜寝るときは使用する。もともと冷房に弱いから、チト体調不良になった。

食品商業の原稿を書いて、たいがい書き始めると4百字×4枚相当が半日かからずに、まっいいか、ってかんじで仕上がるのだが、きのは、話がとんでもないところへ転がり枚数どうりに決まらない。最終回なので力が入りすぎか、とか、いろいろ難渋しながら、なんとか書いた。あとで酒飲みながら、力の入りすぎというより、おれの原稿書きは「知的労働」というより「肉体労働」なので、体調不良が響いたようだ、と考えて酔った。

ブログきのうの「日本の黄昏か「団塊世代」」も、読み返してみると、チト書きたいことからズレている。正確には、「団塊世代」が日本の黄昏なのではなく、「団塊世代論」が横行するような日本が黄昏なのだ。ま、またそのうちに書きなおそう。

スローフードとロハスは、世界戦略的には、アメリカのグローバリスム戦略に対してイタリアのスローフード戦略が登場、そしてそのスローフード戦略を打ち消し飲み込むようにアメリカのロハス戦略がのしてきた。と、図式的に見ることができるか。いずれにせよ、日本は、食糧自給率40%なのに、なんの世界戦略も外交戦略もなく、イタリアのスローフード戦略にとびついてみたりアメリカのロハス戦略にとびついてみたりしているわけだ。しかも、日本の伝統食の正当性を主張するために、スローフードだのロハスを用いることまでする。まあ、そのへんのご都合主義は、いかにも近代日本の姿であるけど。いくらなんでも捩れすぎだ。これは日本が「敗戦国」だからではないな。イタリアだって「敗戦国」なんだから。そして、さらに「資源ナショナリズム」に傾斜するロシアの圧力だ。

さて、今日は、なんとか体調をもどそう。今月は、これからまだ山が重なる。しかし、トシをとると体力がおちているから、体調のコントロールが難しいな。そういえば、先日、市の国民健康保険から、医者にかかって健康保険をつかうようなことをしない健康な人ということで、何か贈られた。もう7年ぐらい連続して医者にかかってないのだ。風邪もひかないサル、バカな人間ということか。

しかし、市から贈られるものは、最初は数千円換算だったが、とくにココ浦和市が大宮市と合併してさいたま市になってからは、数百円相当のものになった。逆に保険料は上がっている。ようするに、こんな数百円の表彰事務をやるのも、それなりの給料をとる役人がやっているわけで、自分たちの取り分をとった残りで、納税者を表彰しようというわけだ。ふざけんなよ、順序が逆だよ。おれはもう7年ぐらい健康保険をつかってないのだから、あんたら役人の給料を削って、吟醸酒の一本もくれろよな。

ま、今日は、こんなかんじ。

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2006/08/20

日本の黄昏か「団塊世代」

「世代論」というのは、あまり根拠のある話ではないと思うが、ことマーケティングということになると、かなり注目をあびてきたし、「団塊世代」にふりまわされてきた。ま、なんといっても、「ボリュームゾーン」だからな。

が、しかし、ただ人数が多いだけなら、ボリュームゾーンにはならないはずだ。なにしろニンゲンには個性があるはずだから、「団塊世代」というファクターではなく、別の把握の仕方が可能だったはずだ。個性がない世代というのは言いすぎにしても、消費特性なり消費傾向が「団塊」と言われるほど似ていた、ということだろう。

きのうに続き「食品商業」9月号ネタだが、食品のマーチャンダイズを語る上で必須の注目すべきキーワードが4つ挙げられている。

「団塊世代対応」「食育」「全国各地の特産品」「LOHAS」

「団塊世代対応」については、こう書かれている。「2007年から09年にかけて団塊の世代が一斉に定年を迎える。彼らは一般に経済的に余裕があり消費意欲が高いとされるだけに、彼らをターゲットとした商品開発が広がると予測されている。この世代が食に関して求めていることは、素材にこだわる、本物志向、健康に良い、高くても良いもの、旬を感じる、多くはいらない、などといったことである」

LOHASについては、「アメリカ発のマーケティング用語」としている。いま最も熱い視線が注がれている。これについては、これからいくらでもふれることになるので詳しくは書かない。もはやスローフードやスローライフは分解し時代遅れになった。

で、団塊世代なのだが、彼らは、もっともよくアジノモトで育ち、ファーストフードやファミレスの成長期の空気をいっぱい吸ってきた。ファミレスで食べるときだけではなく、自分の家の食卓でも、マジメにナイフとフォークを使う世代であると、チト皮肉まじりに言われてきた。見方を変えれば、いちばん成長期の工業製品の消費文化にどっぷりつかり、「本物」や「健康」や「特産品」や「素材」に縁がなかった世代かも知れない。

経済的に余裕があって消費意欲が高い連中をだますのは簡単そうだ。それに、他の「食育」や「全国各地の特産品」や「LOHAS]のマーケットについても、団塊世代が大きな影響力を持ちそうだ。

とにかく、まだまだ「懐古」や「癒し」「安心・安全」は続くのだ。隠棲気分や保守気分が流れであり、「冒険」や「チャレンジ」の出番は、しばらくない。ということか?

だとすると、なんだか、さみしいなあ。黄昏だなあ。

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油と水のリアリティ

しゃらくさい評論家、何の評論家かわからないが評論家という肩書のつく連中が、メディアの上で「リアリティ」なんてことを口走る。靖国では饒舌になるが、北方領土でロシアに殺され拿捕され、政府がガキの使いを派遣して片付けていても、知らんぷりをして騒がない。見上げた愛国心だ。そんな愛国心なら最初から口にしないほうがよい。もともと鈴木宗男ジケンから北方領土は捨てられ、あるいは北方領土問題を棚上げにするために鈴木宗男ジケンがおきたというべきか、そういうウワサね。以後、反中反韓をもって「愛国」となった。地下資源の国際利権にからむ動向に、不純な愛国心が利用されてきただけだ。それに、しょせんアジアの「後進国」を相手にしか強がれない。小泉も安陪も「休暇」だそうで、出てこない。北方領土で漁師が1人殺されただけだからな。だけど、これが竹島周辺で韓国にやられたのならどうだったと考えちゃうな。とにかく、笑っちゃうことがたくさんあるが、もうそういうことについては書く気がしない。どうでもよい。

リアリティだ。先に繊研新聞のことを書いた。もう一度書くのだね。
http://www.senken.co.jp/index.htm→コラム→めてみみ2006年8月をクリック地獄すると、2006/08/07に、こんな文章がある。

以下引用……

 原油の高騰に歯止めがかからない。ガソリンも値上がりが続く。レギュラーガソリンを1リットル当たり140円台で販売するガソリンスタンドも見かけるようになった。燃費の悪い大きな車にはできるだけ乗らないようにして、少しくらい遠くても歩くようにしている▼しかし、高くなったとはいうもののお茶よりは安い。自動販売機で売っている500ミリリットルのペットボトル入りのお茶が150円。1リットルに換算すると、ガソリンの2倍以上。それでも文句も言わずお茶を買って飲んでいる▼酸素バーが人気だが、コンビニで酸素の缶詰が売られるようになった。普通の空気にも20%の酸素が含まれているが、缶詰には濃度95%の濃密な酸素が詰まっている。3・2リットルを充填した缶詰が600円。酸素1リットルはガソリンよりも高くなる▼少し前までお茶や空気が売れるなど予想もできなかった。しかし今、お金を払ってペットボトルのお茶や空気を買うことに抵抗感がない。ガソリンの方がはるかに有用なのに、ガソリンよりも高い値段が手軽さや快適さの代価として認められている▼車をやめて歩いていると、喉も渇くし、息もあがる。お茶を買い、酸素も買いで、人間の維持費の方が高くついている。

……引用おわり

あれこれ突っ込みを入れたくなるところはあるが、なかなかオモシロイ視点だ。リアリティというのは、こういうところにあるのじゃないだろうか。ロハスも単純にいいことだけじゃないぜ。用心しろよ、自然愛に愛国心。

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2006/08/19

食と衣 繊研新聞を考えるがわからん

食と衣は、近い、隣同士のように近い。本当は、おなじ生活のなかにあるはずだ。が、ずいぶん違うような気がする。と思ったのは、繊研新聞という「業界紙」だ。「衣」の分野の「業界紙」である。

この新聞は、かつておれがマーケティングの現場でシゴトをしていたころは、定期購読の必読の新聞だった。はっきり言って、全国紙の日●各紙より、はるかにグレードが高い内容だった。日●の話というと、あっ、あの記者はン万円で書いてくれるよ、この記事なんかそうじゃないの、へえじゃアイツより組しやすいね、なんていうウワサが多かったという話だそうで、おれは真偽のほどは知らんふりにしたいが、一方、繊研のアノ記事は深いね誰が書いているのかな会って詳しい話を聞きたいね、なーんて話題になった。食のマーケティングの場合でも、業界紙最大手の某新聞より、繊研新聞が役に立った。

ちかごろ、気になることがあったのでWebの繊研新聞を見ているのだが、やはり繊研は、チト違うな、という印象を持った。

食と衣は、隣同士のようなものだが、食の市場調査が上手にやれるからといって衣の市場調査が上手にやれるとは限らない。ということをグサッと身にしみて感じたことがある。一度、某大手アパレルメーカーの市場調査というか消費者調査のシゴトの話があって、イチオウ受注を前提で説明を聞きに行き、これは調査の設計からまるで違いすぎる歯が立たないと思って、ハッタリと鼻っぱしが強いだけでやってきたおれも辞退したことがある。

しかし、おなじ生活が舞台なのに、なぜこんなに違いがあるのかと思ってしまう。うーむ、どうも、違いすぎるなあ、これはどうしたことか。やはり、繊研新聞の方が、はるかに社会や生活に関して素養があり、目配りがきいている。つまり、マーケット全体が、それがアタリマエで成り立っている、ということなのだろうか。

食の分野は、栄養士や外食通ぐらいが「専門家」でまかり通る世界だからなあ。

ま、繊研新聞のコラムなどは、こちらで読める……クリック地獄

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もうすぐ鍋の季節だからカキの知識

前にもお知らせしたが、8月15日発売の「食品商業」9月号の「食のこころ、こころの食」は「飢餓はこの世からなくせるか」という壮大なテーマで書いている。

今日は、そのことじゃない、まもなく締め切りのこれが連載の打ち切り最終回となる10月号の原稿でもまとめようかと、その9月号をパラパラ見ていた。表紙は、日本人の秋のVSOP(古い流行語だね~)のサンマの写真。そして本文では、鍋物セールがらみの記事が多い。

パートタイマーのためのケーススタディ「あいまいな知識が混乱を招く」に面白い話があった。これは、わりと消費者が間違いやすい。

問題は、カキ。売り場には「生食用」と「加熱用」が並ぶだろう、あれのことだ。あれを、「生食用」の方が割高なので品質もよいだろうと、加熱料理にも利用する人が意外にいる。鍋をやるのに、わざわざ「生食用」を買って、やっぱ高級な生食用はうまいね~、これがホンモノのカキの味なんだよ、高いカネを出した価値はある、なーんてよろこんじゃったり。

実際は、どうか。食品商業の、その記事だ。これは、きむらマーケティング&マネジメント研究所の木村博さんが書いているのだが。

パートの木村さんが鮮魚の中田チーフに、「こちらのお客さまが鍋でカキを食べるとき、生食用カキと加熱用カキでは価格の高い生食用のカキの方がよいかと尋ねてこられたのですが、どうでしょうか?」と聞く。

中田…鍋でカキを食べるなら、加熱用のカキの方がおいしいですよ。
お客さま…え、そうなの? 生食用のカキの方が、価格が高いから新鮮だと思っていたのよ。
中田…それは誤解ですよ、カキは殻から出されると水で洗浄されます。生食用は生で食べても大丈夫なように何回も洗浄します。一方加熱用カキは加熱されることが前提ですから、洗浄の回数は少ないのです。従って、洗浄という手間が多い生食用は価格が高くなり、洗浄という手間が少ない加熱用は価格が低くなります。また味という面から言うとカキは水で洗浄されるほど、うま味も流されてしまいます。従って、加熱用の方が生食用よりうま味が残っています。ですから鍋には加熱用カキを使った方がおいしいはずです。

というぐあいなのだ。これは、あくまでもあいまいな知識でお客にアドバイスしないためのケーススタディとして書かれた一部を引用しただけだが。客もまた、高ければ、味の品質もよいものと思いがちだ。カキなどは、生食用のように、よく洗浄して白く輝いて見えるものが「うまそう」と思われたりする。

食べ物にかぎらないようだが、値段が高い、白い、輝いて透明感がある、これに惑わされやすい。とくにオトコは、オンナのこれに惑わされやすいようだ。…って、関係ないか。

そして、よく洗浄して安全安心だけど、うま味のぬけたカキを食べて、この生の味が、ホンモンのカキの味なんだヨ。なーんて、楽しくウンチクを傾ける。

好き好きだが、うま味のぬけてしまった「生食用」カキは、清酒や白ワインで洗って食べると、うまく食べられる。黙っていれば、そのようにアルコールで洗ったことも知られずに、これが手をかけないホンモノのカキの味と思って食べてもらえる。祝着至極。

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2006/08/18

15、16、17と私の日々は……

「お盆サマ」をやってきた。「お盆サマ」という言い方は、おれが生まれ育った故郷にはなかったが、そういう言い方をする地域もあるのだな。お盆のやり方も、かなり違って、オモシロイ。

とにかく、寝床は、薄がけ一枚と厚い上がけ。寝付くときは、両方かけないと「寒い」というほどではないかんじだったが、朝方には、ちゃんと両方をかけて寝ていた。

標高約600メートルの谷底の、「過疎」なんていう言葉じゃいいあらわせない、もう「滅び」の埋め立てが、首から上だけを残して、すぐそこまできているかのような山間の「お盆サマ」は、家族4人だけで静々と終った。

先の大戦での戦死者が1名、昨年だったか、遺族に対する何だかの交付金があったので、その家の主は、そんな金は自分が貰う金じゃない墓に使おうと、戦死者の墓石を立派につくりかえたのが、この春だった。その墓石が建つ先祖代々の墓に参り、さらに、足元が滑る急な山道をくねくね登って、江戸時代中期頃からの銘が刻まれる、もう一つの古い先祖代々の墓に参った。

その「滅び」は、その家系の歴史のなかで、秒読みに入っていることを実感する。

急峻な林の中の墓所には、墓石と、いつごろつくられたかわからない、角のとれた石造りの小さな祠が並んで建っている。仏として供養されたあとは神になるのだそうで、その神になったものたちの霊だか魂だかが宿るところが、その小さな祠ということになっている。銘がわからない先祖も、そこでまとめてめんどうみられる、まことに都合のよい思案のゆきとどいた、神仏混合だと思う。この地域には、無数の小さな祠があるが、それらは、そうして出来て残ったのかも知れない。

ただでさえ20戸ぐらいの集落は、すでに1戸は住む人もない。当代でおわる家も、わかっている。しかも暮らし向きの条件は、ここ数年、悪くなるばかりだ。医者に罹るのさえも困難になってきた。毎日の食事のための買出しも難しくなるだろう。自給のための畑は、イノシシらの支配するところとなった。

しかし、険しい人生の結果なのか、根っからの楽観と諦めか、「滅び」は山の空気のように澄んでいた。飲んでは眠り、その空気をタップリ吸った。

と、ややセンチメンタル田舎だけん、をやったあとで、また下界の暑さの中にもどり、「滅び」など知らぬ都会の欲深く濁った空気を吸い、ありゃりゃりゃ、はあ、あれもやらねばこれもやらねば、なのだな。

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2006/08/14

よい本とは売れる本のこと?

「よい本とは売れる本のことだ」 前にも書いたが、このオコトバは、某出版社の社長が言い放ったのだそうだ。本音をいうだけよいかも知れない。しかし、単価100円にもならないものをたくさんあつかい、ゼニの勘定しか知らないような食品小売業の「学」のないオヤジでも、そうはあからさまなことは言わないし、しないものだ。「よい食品とは売れる食品のことだ」、なーんて言ったら、消費者に袋叩きにあうだろう。

ところが、いまや出版本屋業界では、「よい本とは売れる本のことだ」がアタリマエというかんじの動向もあるのだ。消費者が望むなら、なんでもつくる、売る。買うひとがいるから、商売になるから……。じつに粗悪なものであっても、食品より簡単にできちゃうのが、出版の分野なのだ。出版物には、食中毒菌はつかないが、もっと悪いものがつく。

それに、けっきょく、経済力のある「大」出版社、「大」書店がはびこるだけだ。そんなことは、ほかの業界では、さんざん経験している。

食品市場は、見た目は圧倒的に大ナショナルチェーンが支配しているようだが、じつは圧倒的に多くの分野で中小零細が実に多様な活躍をしている。苦しみながら、だが。それが、まがりなりにも「よい商品」の底辺を支えている。

もし、そういうところが、「よい商品とは売れる商品のことだ」という考えを持ったら、あるいは内心持っているにせよ、堂々とそれを主張し実行するようになったら、とんでもない事態になるだろう。中小零細が支える、あるいは中小零細だから、なんとかできている、良質な文化がある。その芽をつぶさないようにすることは、とても大事だろう。苦しくても、目先の利益で選択をしてはいけないことがあるのだ。

ああ、それなのに、出版本屋は……。と、思うことがあったので、なんのことかわからない人が多いだろうけど、チト忘れないように書いておきまする。

以前にも、こんなことを書いてますな。05年7月28日「倒産、そして出版とカネ」……クリック地獄

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赤色エレジー 見たい聴きたいテレビがない!

old times brass band - 渡辺勝 -/第38回 思い出のメロディー 再放送日……クリック地獄

でも、NHKはいらない。

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大川渉「酒中乱読日記」に南陀楼綾繁評の「間道」

世間はお盆休みってことらしい。あいかわらず「墓参」の口実がなくては休みもままならない日本、しかも有休消化の休みのところも少ないらしい。そのうえ、ガソリン代の値上げで、帰省をひかえる人もいるという。貧乏奴隷大国は、しかし、メディアを見ていると、こういうブログにしてもそうだが、あまりそういう実感はわかない。みな、自分は安全圏だと思っているからな。

で、「安全圏に身を置いて優雅な楽しみ」にふけっている1人が、この人、南陀楼綾繁さん。彼の女房に横恋慕する塩山芳明編集長(目下発売中の『出版業界最底辺日記』の著者ね)から鬼畜SMコミック『Mate』が届いた。例の連載「活字本でも読んでみっか?」で南陀楼さんは、「とことん平凡な人間なクセに(あるいは、それがゆえに)、「常ならぬ人生」を送っているヒトの本を読むのが好きだ。ヤクザ、パチプロ、詐欺師、いんちきプロデューサー、AV女優、殺人者、ホームレス……。本を読むだけなら、感動するのも自由だ。安全圏に身を置いての優雅な楽しみではある」って書き出し。もう、そこを読んだだけで、飲みかけのビールを、ブッと吐き出しちゃったよ。ああ、もったいない。

「とことん平凡な人間なクセに(あるいは、それがゆえに)、「常ならぬ人生」を送っているヒト」といったら、南陀楼さん自分のことじゃねえか。自分が安全圏にいると思っているアマサは、南陀楼さんの一つの芸といえるが、それはまさに「とことん平凡」な証明であるし、それに「ヤクザ」と「詐欺師」と「いんちきプロデューサー」を足したのが、南陀楼さんのような『出版業界最底辺日記』の編集者だからなあ。これが笑わずにいられるか。

だが、しかし、常ならぬ人生を送っている奇人変人はぐれものというのは、自分でそう思ったり自分でそう言ってしまってはツマラナイのであって、自分じゃ、ごく脳天気に平凡なニンゲンであると思い込んでいる。安全パイを引き切りながら平凡であるよう務めている。ところがやることなすことの結果は、常ならぬことになる。というのがオモシロイのであって、そういう意味じゃ、まさに南陀楼さんは常ならざるニンゲンの名人級といえるだろう。

その点、口は悪いが、ひとの女房に横恋慕し嫉妬に悶えている塩の字なんぞは、ただの小心者。というのが、先日の本人がいない飲み会で、みなが一致したことであるが、ただし、ズンドコジョッキー6月の読了本の中から『カップ酒スタイル』(いいざわ・たつや、ちくま文庫)をベスト3の2位に選んだことは、大いにけっこうじゃないか。なかなかどうして、小心者だの横恋慕だのといってはいけないや。そういや塩の字といいざわさんは、なんとなくアノヘンのゆがみぐあいが似ているような気がする。

それはともかく、この南陀楼さんが紹介の、坂入尚文著『間道』新宿書房は、チト読んでみたいなという気になった。じつは、南陀楼さんは、そういうわけで、「見世物とテキヤの領域」という副題に惹かれ、優雅に他人の異常と不幸を楽しもうと本書を買ったらしいのだが、「しかし、この本には先に挙げた「非常人の記録」を読むときとは、少し違う手触りがあった」というのだ。

それがなんであるか、あとは書店で手にとってみてね。著者の坂入さんは、「いまでも車で寝泊りし、各地の高市で飴細工を売っているらしい。まさに、つげ義春のマンガに出てくるような、寂しいが美しくもある人生である」とな。

えと、それから、もう大分まえだが、入谷コピー文庫の堀内恭さんから、大川渉さんの『酒中乱読日記』其の1と2が送られてきている。まだ読んでない、スマン。大川さんは、おれがインターネットを始めたころ「散人雑報」というサイトをやっていた。かつての四谷ラウンドから発行の『下町酒場巡礼』の正・続が話題になっていたころだったと思うが、それでまあ、当時はインターネットのマナーも悪かったこともあるが、けっこうイヤガラセのようなものがあり、閉鎖してしまった。その「散人雑報」の一部が収録されている。『下町酒場巡礼』は、キチンと読めばわかると思うが、あれが「巡礼」であるのは、それなりに意味のあることなのだ。昨今、その「巡礼」だけをタイトルに真似するやつがいるようだが、ちゃんと巡礼の意味を問えよな。といっても、そんなこと考えるアタマがないから真似をするのだな。出版文化というか活字文化も頽廃の一方だ。

ま、大川さんは、高尚な趣味人であるから、高尚なんかクソクラエの下品なおれとは、まったくあわない。ということではないんだな、これが。とにかく、このあいだ飲んだときに、またそのサイトを始めるから、おれのサイトで宣伝してといわれ、あいよリンクはるよといっていたのだが、まだ始まってないようだ。はやく始めてくれ~。

ああ、それから、15日発売の『食品商業』だが、お盆の関係か、もう出来て届いた。今月号のお題は「飢餓はこの世からなくせるか」という、国連が扱うようなテーマだ。いまや国連は殺人戦争を合理化する舞台となって、飢餓を拡大する一方なので、このようなショーバイ雑誌で扱うのだね。『食品商業』の連載は、おれがここでいくら宣伝しても読者が増えないので、連載は9月15日発売の10月号で打ち切りです。ちょうど全10回の区切りですね。ああッ、連載が、なくなる~。でも、ちょうどよいか。うへっ、まもなく、その最後の締め切りだ。

あと、イロイロ届いているけど、ありがとね。今日は、ここまで。

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2006/08/13

こんな飲食表現をしてみたい

どうにも身体がデレリンコンなので、寝転がって延ばした手の先にひっかかった本棚の本が、小沢信男さんの『いまむかし・東京逍遥』(晶文社)。何度も読んでいるが、パラパラめくると、植草甚一おじさん63歳のときの、1970年5月1日の日記からの引用が目にとまる。おれも今年63歳だもんな。

そのなかに、「三軒茶屋へ行くとヒサモトのコーヒーが飲みたくなるが、そういうときは、からだの調子がよく、気持がのんびりしている証拠だろう」という文章があった。

食べたり飲んだりしたことを、こういう風に書けるようになりたいものだなあ、と思う。こう書けるニンゲンになることが先決だけど。

と、忘れないうちに、ここに書いたのだが。忘れて、けっきょく、偉そうに飲食店や飲食物を裁くようなことを書くのだな。

しかしきのうの酒は、安くてまずくて気持のよい酒だった。きっと、からだの調子がよく、よい仲間と飲んでいたので、気持がのんびりしていた証拠だろう。って、これじゃ、ほぼ盗作か。やれやれ、酒の修行はずいぶんしてきたようだが、ニンゲンの修行が足りない。

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安いマズイは健在だった

8月9日「安くてマズイ居酒屋礼賛」に書いた某地域の某店は安いマズイで健在だった。きのう雷が荒れまくった都内、5時に男ヤナセさんと、そこで待ち合わせ、お仕事の打ち合わせ。のち、女ウチサワ、男ムカイ、女ハタナカ来る。この顔合わせで飲むのは、今年初めてだそうだが、そんなかんじはしない。でも、その間に女子2人は入院手術し、男子1と女子1は本を出し、男子1は子どもができ、と、みなさんアレコレ忙しくしていたようだ。ま、みな30代だから、アレコレ盛りというわけだ。思い出したが、その男子1と女子1の本は買ってあるのだが、まだ読んでない、そういやこのあいだ大宮のジュンク堂へ行ったのに、塩山芳明大罵詈雑言先生の本も、まだ買ってなかった。ついでに書くと、きのうは塩の字の悪口を言いながら飲んだ。

ああ、そんなことはいいのだ。それで、やはり、その確かに某店は「やる気」を出したようで、メニューは普通の居酒屋のようになっていた。マグロとアボガドのカッティーズチーズかけのようなものまであって薄気味悪い。それを食べたけどね。酒も、純米、吟醸などを揃えている。知らなかったが、ほかの地域へも数店出店している。

しかーし、安い酒は、やはりそのままで、もうやはり感動的に安く、そしてマズイ。そもそも、この店は生ビール中ジョッキが350円なのだが。酒は140円からだ。ああ、しかし、この酒は、ほんとうに悪い酒だ。感動して飲みすぎたせいもあるが、今朝は頭痛が激しい。おれは二日酔いは残っても、心地よい二日酔いが普通であり、頭痛が残るなんてことはめったにないが、今朝はほんとうに苦しい頭痛で、いまやっと、このことを書かねばとキーを叩いている。きのうは注意深く味わって飲んだが、どうもあの酒は微妙に舌に苦味が残るかんじがあるのだが、清酒でそんなことがあるのだろうか。じつに素晴しく珍しい味だ。

愛想のないこともあいかわらずで。入って行っても、誰も「いらっしゃいませ」とか言わない。よく来たなコンニャロ好きなところに座って、というかんじだ。フロアーをやっている中年壮年ガングロ茶髪の男1女1は、注文を聞くと黙ってプイッと去っていく。おれの仲間は、ここは初めてだから、注文が通っているかどうか不安というが、ちゃんと通っている。ま、そんなアンバイで、じつにマズイ酒を気持よく飲んで、ヨレヨレになって帰って来た。

40席ばかりの1階は満席で、2階に案内される客がいるほど混んでいた。飲んでいる席から窓越しに見上げると、むかし90年前後のおれの仕事場の一つだったビルが見えた。あのころも、この場所から、こうやって酒を飲みながら見上げた。一瞬、あのころと、なにも変わってないなあ、という感じがした。ここは、その地域に3店舗あるうちの一番新しい店で、そのままやっているのだ。

とりあえず、頭が痛くてたまんないので、これまで。

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2006/08/12

男たちの文化的後遺症

2006/08/10「書評のメルマガ 上方食談 錦市場探訪 そしてサブカル」の関連だが、『講座 食の文化』第1巻人類の食文化で、「上方食談」の著者である、石毛直道さんは、こう述べる。

「私たち日本人が食物についての話を公然とするようになったのは、そう古いことではない」「日本の伝統的文化の本流からすると、大人、とくに男性が食について大声で論じることは「はしたない」こととされてきた。その文化的後遺症のためだろうか、食についての発言は、本業ではなく「遊び」としてカムフラージュされることが多かったのである」

ようするに農学や栄養学がらみでもないかぎり、男たちは食を「遊び」「道楽」として、大声で語ってきたのだが、「遊び」「道楽」となれば、その舞台は、家庭の台所ではなく外食だった。1970年代後半に「男子厨房に入ろう会」「男の料理」がブームになるが、それも当初は、外食店のプロに学ぶことだった。

そして、家庭の台所の日常茶飯事は糠漬け臭い女房のことで語る価値はなかったが、外食のプロのシゴトは、「高尚なもの」として語るに足るものだった。

つまり石毛さんは、こうも述べる。「人間のいとなみのなかで「高尚なもの」とされる思想、観念、美学などが語るにたる文化であるとの暗黙の了解がずっとあったのである。「高尚なもの」を理解できることが「文化人」の資格であった」

これが、B級だろうと、なんだろうと、男たちがいまでも外食店を舞台にウンチクを傾ける最大の理由であり動機だろうと思われる。

粋、名人芸、職人芸、究極、秀逸、逸品、三大ナントカ、五大ナントカ、旬、厳選された真善美……そういう「高尚なもの」とされる美意識に導かれた文芸的作品を、男たちはめざした。そのことによって、ただの男とはちがう「文化人」の資格を得られるのだ。もっといえば、「作家」と名のれる人間になりたい、とか。

そして外食産業の成長と外食ブームに支えられ拡大する一方の外食マーケットは、とにかく回数と軒数を重ねさえすれば「情報的価値」を持ちえたし、いくらバカでも、回数と軒数を重ねれば比較でそれなりのことはいえる。さらに、古今東西の伝統芸術や文学者芸術家の作品から引用を盛り付けたりし、文化的文芸的な装いを競った。あと、そうそう、飲食店を舞台にしての、高尚そうな交遊録や会話ね。

ここに、外食店のことは語れても食文化については語れないアンバランスな男が、どんどん生まれた。

ま、そういうことなのである。いつまで続く、ああ、バカな男の~文化的後遺症。

と、考えると、おれの本、「いかがわしさ」を礼賛する『大衆食堂の研究』や下品といわれてきた汁かけめしを評価し直そうとする『汁かけめし快食學』は、ぶははははは、高尚とは無縁だものなあ、売れないわけだ。

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マダガスカルは「汁かけめし天国」だと

先月1か月、仕事兼アソビでマダガスカルへ行っていた知人から手紙があって、「マレー半島系の黒人たちが住んでいて米が主食。まさに、汁かけめし天国でしたよ」と書いてある。うれしいね。なんとなく見過ごされがちな汁かけめしだが、あっちこっちにフツウにあるのだ。『汁かけめし快食學』を読んで、もっともっと見直してほしいね。さて、朝酒でもやりながら、豆腐の残り汁をめしにかけて食べるか。でろでろでろ。

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2006/08/11

不幸なイメージや閉塞感に満ちた食からの脱出

まったくもって、こんなに食べ物があるのに、こんなに不幸なイメージや閉塞感に満ちた食の時代は、ちょいとめずらしいのではないかと思う。まるで、誰かに操られるように、自分たちの食べ物を呪い、自分の生きている時代を呪い、そして何かにすがり「癒し」とかを求めるのだ。ああ、なんてこった。と、思っちゃうね。

一つ、日本のメイン文化は、よほど欲が深い。一つ、日本のメイン文化は、かなり観念的で独善的で説教臭い。一つ、日本のメイン文化は、本質的に疑い深く陰気である。と、思っちゃうね。

兼好法師も鴨長明もクタバレ!
ワビサビをまちがうな、あれは快楽主義ぞ。
粗食?そんなものは封建支配者が庶民を最低の生活で絞り上げるために考え出したことだ。
自然食?そんなものは上層の富裕な連中が自然を独占的に支配下におくために考え出したことだ。

もっと大らかに陽気に明るくやれないのか。バカ話して笑っているていどの、その場かぎりの陽気や明るさじゃなくてさ。

もっとガツンといけないのかね、えっ。なんか辛気くさいんだよなあ。仔細なことにウンチクをかたむけて、うふふふ、キミとボクはおなじテイストのようだね、ほかの連中の栄養素コレステロール脂肪率は、このへんがコキタナイし汗臭く貧乏臭くロハスでもレトロでもないし、ホラこの微妙なモツの屁の匂いの天下一品の凛とした輝いているところがさ、自分の言葉でわかっていないんだよね、とかやっているかんじの姿は、いったい正常なのか。

と、トシリンの世界が君を待っている3日目「AMIGO!!の国メキシコ編」とコメントを見て、またツクヅクしみじみ思った。……クリック地獄

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2006/08/10

旅人文化振興会が 中央線ブログだと

いやあ、やりますんねえ旅人文化。旅人文化ブログなんでも版に続いて、「中央線ブログ」だと。英語版だけだけど、おもしろそうだなあ。みなさん、よろしくね~。諸外国人にも紹介してくれよな。

旅人文化ブログなんでも版……クリック地獄


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書評のメルマガ 上方食談 錦市場探訪 そしてサブカル

ふう、はあ、今月末に講演する某スーパートップセミナーのレヂュメ、今日締め切りで、なんとか作ってメールで送った。

きのう、「書評のメルマガ」vol.275が発行になった。8月5日「なぜ「食文化」がないのか」に書いたように、石毛直道さんの『上方食談』小学館から「錦市場探訪」を取り上げた。あらためて思ったが、これはやはり食文化研究あるいは食文化エッセイの端緒というにふさわしい。もっともっと多くのひとに読んでもらいたい一文だ。これを読めば、まだまだ30年以上たっても昨今に続く、うまいもの話やうまい店話が、いかに内容のない陳腐なものだかがわかるだろう。

飲食にからめて、ブンガク的ブンカ的なペダンチックな装飾を弄し、ようするに飲食をダシにして、どうじゃ自分はブンガク的ブンカ的なんじゃゾ偉いんだゾと見せたがるだけで、さっぱり飲食に迫っていない、それでいてブンガク的ブンカ的にも、どうってことない平凡である。あっちこっちの文献から寄せ集めて並べただけの知識で、深い斬新な考察もない。

これは、もともと飲食は道楽でしかなかった男に多いのだけど、たいがい恥さらしをしているようなものだ。ま、もっとも、何かを書いて公表するということは、自分の恥をさらすようなものだけど、そういう自覚も、このテの男たちにはない。でも、そういうものが売れるということは、まだまだ食文化に関する認識が低いということでもあり、ま、仕方ないんだね。なんども書くように、まだ「食文化」が意識されて30年かそこらだから。でも、それほど悲観することではなく、いまあげつらねた愚かしい男たちの食談義が続く一方で、そういうものとは一線を画すものが、ガイドブックらしいガイドブックも含めて、どんどん生まれている。

そりゃそうと、関係あるのだが、その「書評のメルマガ」vol.275には、大阪の「ちょうちょぼっこ」の次田史季さんが、『東京大学「80年代地下文化論」講義』(宮沢章夫、白夜書房)を読んでのことを書いている。これがとてもおもしろい。おれは、その本のことは知らないし、とくに文化論に興味があるわけじゃないのだが、次田さんの、この指摘は、日ごろ感じてきたことであり、ものすごく共感してしまった。

以下引用……

「サブカル」という語をあまり聞かなくなった原因は、ハイカルチャーとサブカルチャーの境界があいまいになってきたからというのもあるけれど、「サブカル」というジャンル自体のおもしろさが少なくなってきたからとも言えそうである。また、この講義中によくでてくる「かっこいい」という言葉を使わせてもらうと、「サブカル」=「かっこいい」ものではなくなってきているような気配を感じる。「サブカル」というジャンルがなくなること自体はしょうがないのかもしれないが、周辺やはみだすものをいったりきたりできるところがなくなって、メインか細部(≒「おたく」)のどちらかしかないという状態にはならないほうがいいんじゃないかと思う。

……引用おわり

江原恵さんなどは典型だったと思うけど、70年代から80年代前半の食文化ブームは、サブカル系の人たちによって支えられていた。男たちが語る飲食も、それまでの食通文士たちが中心の、文学趣味や、いい気な男の道楽や、権威主義をのりこえる内容と気迫があった。

ところが、80年代後半から90年代の食文化はグルメブームに飲み込まれ、メインに吸収されていく。その過程で、ガラリ変わるのだ。そして昨今は、先に述べたように、またかつての食通文士たちをアコガレのモデルにしたような、だが違うのはオタクっぽく、だけどオタクにもなりきれない、細分化する消費社会を反映してか、マニアックな仔細な情報や知識にコダワルみっともない男たちがメディアを足がかりに這い上がるためのネタになった。

けっきょく、サブカルは、周辺やはみだしでもいいサブカルの魅力に生きたい、ということではなかったのだな。立身出世はしたかったが、当時の立身出世の「型」つまり管理的な組織のなかで地味に努力するのが嫌だった、気分的な「はみだしもの」にすぎなかったのだ。と、全部が全部を、そう決めつけるわけにはいかないが、グルメがブームになりメディアを舞台にメインへの足がかりが開けると、もうサブカルもへったくれもない。とくに食文化周辺にみられる昨今の現象は、じつに、「かっこいい」とは正反対の、飲食の仔細を知ったかぶりして得意になったり、いっぱしの仕掛人ぶったりと「みっともない」サブカルのなれのはてが目につく。

もっとさ、アウトサイダーでもいい、有名にならなくてもいい、かっこよくやろうぜ。いまのメインなんて、みっともないじゃないか。気どるな、力強く、汁かけめし快食やろう…って。

とか、おれのようなジジイがいっても、しょうがないんだよなあ。おれのようなジジイは、本来、アウトサイダーに走りたがる連中を諌めて偉そうに呑気にしていられる立場のはずが、先を争って飲食をネタにメインに走りたがるおれより若い連中があまりにも多いから、こんなイヤミや皮肉をいうことになる、ああ、イヤだねえ、こういう姿もみっともないねえ。ああ、イヤだイヤだで自己嫌悪におちる前に酒を飲もう。

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2006/08/09

安くてマズイ居酒屋礼賛

こういうことを書くと、浜田信郎さんの「居酒屋礼賛」に批判を加え蹴飛ばし撃破するつもりかと思う、白か黒か、上か下か、右か左かといった二択しかない単細胞ニンゲンがいるので断っておくが、そういうことではない。

町も居酒屋も人もいろんな顔をしているのだということをいいたいのであって、東京は、とくにそうである。東京のおもしろさは、そういうゴチャゴチャなのだということを、いいたいだけなのだ。

ま、太田和彦流美学は、それはそれで一つの見識であるだろうけど、それ一つで世界が成り立っているわけじゃないし、それ一つだけで世界が成り立つわけじゃない、じつに複雑怪奇多様な絵柄をしている。中南米やアフリカのように、という言い方は偏見にみちていて適切かどうかわからないが、北半球東西文明的な向上心や洗練とは遠い生き方、あるいはダメさ加減にもっと陽気に沈殿し楽しんでもよいのではないか。みながみな太田和彦流美学で這い上がろうとする必要はないのではないか、ということをいいたいだけなのだ。

ということで、東京の某地域の某居酒屋だ。

ここは、地域の名前をいって、そこで安くてマズイことで有名といえば、おれの知り合いの、おれよりかなり若いくせに、おれより長くフリーライターをやっているし稼いでいる、週刊誌などに東京の高級店から低級店までをカバーする、いわゆる「グルメ」記事を書きまくってきた男にも、すぐ通じるし、おれは、バブルのころ数年間その地域に仕事場があって、よく飲んだのだが、とにかく、その地域で「安くてマズイ」といえば、その某地域を知るたいがいの飲兵衛は、その某店をいい当てるといったアンバイに有名なのだった。

だから、ここまで読んだだけで、その地域と店名を当てられる人がいるはずなのだけど……そういう低級な趣味を持ち合わせている人は、このブログを見ているかどうかは、わからないからな。

ま、それで、しかし、あのバブルのころでも、ちゃんと安くてマズイを通して生き残り、しかも、たしかその地域に大きな店舗を三つ持っていた。おれは、この三つ全部を利用していたが、ほかは知らない。だけど、やはり、この店は、この地域ならではだよなあ、と思わせる安くてマズイ個性があった。

とにかく、ここの日本酒の安さ、そのマズさ、もう何杯でも飲めて悪酔いできるうれしさ。これこそ「国民酒」ではないか。それに、昼間からだらしなく飲めるうれしさ。これこそ「国民酒場」ではないか。そのうちの一軒は、おれが仕事をしていたビルの一室から見下ろせる位置にあって、真昼間から、じつにあやしくもいかがわしく輝いている貧乏なやるせない堕落した情熱なリズムなのよ連中が出入していた。ここはまあ、あのバブルのころは、完全に、バブルの日本ではなかった。それぐらい、バブルのときだって、バブルに関係ない連中がいたってことなのか。

ま、その詳しいことはいいや。とにかく、よくガイドブックや情報誌に載るような、洗練された凛々な居酒屋ではない。そういうところも堂々と生きている東京のおもしろさがあるってこと。

ま、東京のおもしろさといえば、恵比寿あたりにフランス人がレストランをつくると、すぐメディアが寄ってたかって持ち上げ紹介し、そのあげくオーナー店主が商売がうまくいかなくて放火事件を起こしてしまうなんていう、とってもオシャレなトレンディなお店もございますのですが。そういうオシャレでトレンディな店にすりよっていくメディアやお客さまなどは振り向きもしない店もある。

が、しかし、このあいだ、そやつ、そのフリーライターから電話がって、その店がだいぶやる気を出している、ヤバイ、という。あいかわらず安いことは安いが、あのマズさがなくなっているのだという。これはもしかしたら、太田和彦流居酒屋礼賛が、東京の居酒屋を均一化しはじめている兆候ではないか、ヒジョーにヤバイというのだ。

おれは、でも、そうなれば、また別のところに、安くてマズイ居酒屋が生き延びていくから心配しなくていいよ、とか、そのようなことをいって興奮する彼を落ち着かせたのだが。

ああ、それで、ようするに、きのう書いた季節労働編集者と会って打ち合わせするのに、その都内の居酒屋を思い出し、そこで会って、その変わりようを確かめることにした。という、今日のはなし。

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2006/08/08

念のために「食文化」 覚え書

ま、講演のためもあって、「食文化とは」について、あらためて調べたり考えたりしている。

「生活文化としての食物を理解しようとするには、「生産」「流通」「消費」の三要素を構造的にとらえる必要がある」と、江原恵さんは『【生活のなかの料理】学』(百人社1982年)で述べる。このひとは、いつもリクツっぽいが、まっとうで簡潔明瞭だ。

「ヒトは食の営みなくしては生存できないから、日本における食の歴史は、この国土に人間が住みついた時点に始まる。そしてその食を人間以外の動物ではほとんどみられない何らかの手段によって、より望ましい「たべもの」とする行為を、広義の文化(たとえば、食材をそのままではなく焼いたり煮たりと手を加え、より食べやすくして食べるなど)と解すれば、食の文化もまた、この時点で成立したものといえよう」と、石川寛子さんは『近現代の食文化』(弘学出版2002年、石川寛子・江原洵子編著)で述べる。わかりやすいが、江原さんが主張する、「「生産」「流通」「消費」の三要素を構造的にとらえる」が、忘れられやすい表現だ。

「より望ましい「たべもの」とする行為」は、生産、流通、消費の構造のなかで、行なわれてきた。なかには個人的行為も少なくはないが、その構造ぬきというのは、ターザンでもないかいぎり不可能だな。

ともあれ、人間の歴史は「おいしく食べる=おいしく食べたい心」の歴史だったといえるだろう。権力闘争や英雄に偏向した貧しい歴史は、それを理解できない。

食文化研究の「大家」石毛直道さんは、『講座 食の文化』第一巻「人類の食文化」(財団法人 味の素食の文化センター1998年)の冒頭、「監修のことば」で、こう述べる。

以下引用……

 「食べること」を文化として考えていくのが「食の文化」の立場である。
 食べることに関する従来の研究の主流は、おもに食料の生産にかかわる農学の分野、食物の加工をあつかう調理の分野、食べものが人体にどう取り入れられるかを調べる生理学・栄養学の分野に話題が集中していたように思う。そこでは、食べる人の心の問題にはあまり考えがおよんでいなかったのではないか。
 ”日常茶飯事”ともみえる「食」のなかに文化を発見し、学問研究の対象とする。
 すると、そこに現われてくる「食の文化」の本質は、食べものや食事に対する精神のなかにひそむもの、すなわち人びとの食物に関する観念や価値の体系であるといえる。食べることに関するモノや技術、人体のメカニズムをいわばハードウエアとすれば、これはソフトウエアに当たるものである。

……引用おわり

これも、「食べることに関するモノや技術、人体のメカニズムをいわばハードウエアとすれば」というなかに生産や流通の構造がアイマイになりやすいキケンがある。

同じ本で、責任編集者である吉田集而さんは、こう書いている。「食文化の研究は「食」を文化の問題として取りあげることである。文化とは、人間が後天的に獲得したもの、あるいはつくり出したものである。生得的あるいは生理的、本能的なものではないものであり、技術であれ、制度であれ、組織であれ、人間が後天的につくり出したものであり、とりわけ重要なものは価値観である」

これは、「ぶんか」とはについて明快であり、かつ江原さんの主張に近い。ただ、構造の把握より価値観の把握に比重が偏るキケンがある。

おれとしては、「食べ物」を「文化財」としてとらえる、という表現で、食文化を掘り下げるのがいいかなと思っている。いまのところだが。酒を飲むと、変わるかも知れない。いま少し安ワインが入った状態で、そう思った。

きのうひさしぶりの編集者H岩さんから連絡があり、書評を書いてくれと。本は古くてもよく、おれが選べる。ただいま、本を捜査中。

もう1人ひさしぶりの男、そのときどきによって職業が違う、いまは編集季節労働に従事しているヤナセさん、シゴトの話は呑みながらということに。

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2006/08/07

冷し中華、冷しラーメン、サラダラーメンの日本て、いい国だなあ

夏になると「サラダラーメン」「ラーメンサラダ」なるものが居酒屋メニューに登場するようになったのは、ここ1、2年というかんじがするのだが、おれが気がつかなかっただけだろうか。

サラダ蕎麦やサラダうどんがあったのだから、サラダラーメンがあってもおかしくはないが、では、それと冷しラーメンとどこが違うのか、あるいは違わねばならないのか気になりだした。そして調べると、さらに、冷し中華と冷しラーメンの違いも、気になりだした。

ウィキペディア(Wikipedia)には「冷し中華」の項目があり、「冷し中華(ひやしちゅうか)は、麺料理の一つ。別名に冷麺・冷やしラーメン・冷風麺など地方によって呼び方が異なる。日本で創作された中華風料理である」と…クリック地獄

で、例によって、「冷し中華」の元祖を名のるところがある。仙台の「北京料理 龍亭」そのサイトには「冷し中華の歴史」があって、われこそは元祖であり、仙台は冷し中華発祥の地だと主張している…クリック地獄

ところが一方、「元祖山形冷しラーメン」なるものもあって、デイリーポータルZでもレポートしている…クリック地獄

これは、仙台の冷し中華とかなり違って、これを同じ料理とするのは無理ではないか、となると、冷し中華と冷しラーメンは違うもので、それぞれに元祖がいるということになるのか、と気になるのでウィキペディア(Wikipedia)をさらに検索すると、「冷やしラーメン」の項目があり、これでは、冷し中華と冷しラーメンは、違う一線があるのである、という。だけど、地域によっては、同じであるともいう…クリック地獄

では、サラダラーメンは、どうなのか。冷しラーメンとは違うのか、そもそもだよ、つけ麺のスープを麺にかけてしまえば、冷し中華だか冷しラーメンだかサラダラーメンだかになってしまうのではないか。と思ったりしながら、サラダラーメンを検索すると、ぎゃっ、グーグルのトップにある「ベーコンdeサラダラーメン」は、ラーメンの麺ではなくてスパゲティではないか…クリック地獄

そこまでいくか。こうなるともう、わけがわからない。田中康夫も、そういう中でよくがんばった、日本て、いい国なのだなあ~と飛躍した感想が浮かび、そうだ、こんなことを調べているヒマはないのだ、ということに気がつく。

しかし、かつて、サラダ蕎麦やサラダうどんが登場したときは、そこにマヨネーズがあるがゆえに「サラダ」であり、日本人にとっては「冷+マヨネーズ」がサラダの必須条件であるように思えたのだが、あれは「なんとなくクリスタル」の、もうむかしのことでござんすね。俵万智の「サラダ記念日」は、1980年代後半で、そのころには男も昼飯どきには、コンビニのサラダを買うようになっていた。とくに女に媚びる男はね。そしてバブルなメッシーやアッシーが生まれたのでした。女に媚びるマーケティングは、気まぐれの女にふりまわされて、まだバブルを続けている。と、わけのわからんおわりです。

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2006/08/06

コンビニの棚化するカテゴリーの生活の行方

きのうの「なぜ「食文化」がないのか」で書き足りないことがあった。「文化」というとなんだか気どったかんじだけど、「食文化」の場合、チトちがう。このコトバを使うことで初めて、「大衆の食生活」や「日常茶飯の食」が関心や興味の対象になった。

それまでは、うまいものやうまいものを食べさせるよい店、あるいは食物や農学や生産や加工や料理や栄養…という関心や興味のもたれかただった。この流れは、あいかわらず続いていて、「グルメ」「B級グルメ」「クッキング」「外食」「飲食店」「食品」「栄養」「健康」など、いろいろな表現でカテゴライズされている。

だけど、「大衆の食生活」や「日常茶飯の食」や、そこにある文化に対する関心や興味ってことになると、はじかれてしまう。「料理」というカテゴリーでは、なぜか、レシピが中心である。そこで、ま、いまのところ、「食文化」ってことでないと、「大衆の食生活」や「日常茶飯の食」をすくえないわけだ。

だいたい近頃のカテゴリーは、コンビニの陳列棚みたいだ。細分化されていて、どこに何があるか、わかりやすい。つまり、そのほうが、売り買いしやく、経済効率がよいわけだ。それは産業の思想であって、なにかアレコレ考えながらウロウロしようという考えは非効率であり排除されている。

こういうカテゴライズは、いま、なかなかおもしろいことになっている。スーパーでも売り場や陳列棚はカテゴリーによって整理されているわけだけど、あまりに整理がすすんでしまうと、客の店内滞在時間が短くなってしまう。つまり欲しいものに、簡単にたどりつき、素早く買い物ができる。となると、店内滞在時間が短くなる。しかし、売り上げをのばすためには店内滞在時間を長くしなくてはならない。というわけで、一方ではカテゴリーを細分化し整理しながら、一方では店内滞在時間を長くするためのアレコレの対策をする、という状態になる。ああ、深化する矛盾。

買い物を楽しむのも食事の楽しみの一つで人生の楽しみの一つ。リクツではそうだが、人びとは経済効率一本やりの産業の隷属下にあるため、休日のデパートやショッピングセンターでの買い物以外は、日々の買い物をゆっくり楽しむ余裕などない。アレコレ考える余裕もなければ、そんなことはしたくない。ガイドブックにしたがって効率よくよい飲食店に入り、あるいは絞られた興味や関心のテーマにそった本やビデオやテレビ番組を見て、またそのためにも、買い物や食事をゆっくり楽しんではいられない。

だから、わかりやすくカテゴライズされた売り場は便利だ。店の方も、あるところまでは、その方が効率のよい商売ができる。そのように「進化」してきたのだが…。

消費せよ
人生を楽しめ
疑いを持つな
物欲と嗅覚の肥大したブタになれ
何も考えない消費者であれ
そして労働者であれ
流行はつくってやる
嗜好は用意してやる
従順なものは保護してやる
生産・流通・小売・金融・サービス・医療・娯楽・スポーツ・セックス
すべて私たちが用意する

……と三友京一郎はいうのだが、そしてそういう産業体制下で、効率のよいカテゴライズとベクトル合わせがすすみ、ベストセラーや高視聴率を叩き出す仕掛け人が巧みに演出し、そこに生活は組み込まれてきたのだが。とはいえ、そうは産業の思惑どおりに全てがいっているわけではなく、しかし、そのことについて書こうとかすると既存のカテゴリーに収まらない。というかんじだろうか。

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2006/08/05

これはやりたい!と思った、「つまみ料理万歳!!」

そうそうそうそう、このあいだ見つけて、これはやってみたいと思って、それから何度か油揚を買ってきたりしたけど、けっきょくまだやってない。

忘れないうちに、ここに書いておこう。チョイと古いエントリーなのだが、「望月家のとんだゴハン」1月30日の「つまみ料理万歳!!」だ。

「かりっと焼いた油揚げにクリームチーズを塗って
鰹とネギを醤油であえたのをのっけてみました」

「私、天才かと思っちゃいましたよ」

まさに天才だ!

でも、まだやってない。
必ずやって、ビールを飲む!

いま、つまみなしで飲んでいる…でろろろろろばあ。仕事、すすんでねえ~。

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なぜ「食文化」がないのか

暑い。この部屋の温度計は、まもなく確実に40度をこえる。毎度のことだ。西日が差し込む部屋は厳しい。厳しい日々は、ニンゲンに何かをもたらすか。何も、もたらさない。厳しくすれば、ニンゲンは正しく育つように思っている人もいるようだが、そんなわけはない。厳しく鍛えれば、ニンゲンは強く育つように思っている人もいるようだが、そんなわけはない。だいたい、いまだに犬の訓練とニンゲンの教育を同じように考えている人がいるから、おどろく。ああ、脳みそが熱くて、わけのわからん正しいことを書いているようだ。

今月の末にスーパーのトップセミナーで講演するレヂュメを10日までに出さなくてはならないことを思い出し、のろのろやっている。食品商業に連載中の「食のこころ、こころの食」の内容にそった話ということが依頼の趣旨なのだが。ま、食文化とは何か、食文化からみたスーパーとか、そういうことだね。

きのうは、書評のメルマガの締め切りで、石毛直道さんの『上方食談』(小学館、2000)について、書いて送った。正確にいうと、この本に収録されている、「錦市場探訪」だけを取り上げたのであり、「ほかは用がない」と書いた。

「錦市場探訪」は、『ミセス』1971年6月号(文化出版局)に掲載され、大変話題になった。おれは、その年の9月に企画会社に転職して、食のマーケティングに関わったのだけど、まだ、その石毛さんと京都の錦市場の人気が継続していて、高まるばかりだった。そしてそれからのち、石毛さんは、食文化研究の中心人物であり続ける。

日本で「食文化」が意識されだしたのは、この「錦市場探訪」のあたりからで、これだけが端緒というわけではないが、そういう意味で、書評のメルマガに取り上げたのだな。

70年代後半に「食文化ブーム」が沸騰し、「食文化」という言葉は大いに広まり、大学の講座にも登場するまでになったのだが……。でもね、いま、たとえば、yahooのカテゴリーには「食文化」というのが、ないんだなあ。これはどうしたことかと思うのだが、ま、そうなのだ。書店の分類にも、普通はない。サイト「ザ大衆食」や拙著『汁かけめし快食學』などは、「食文化」というカテゴリーがないと、非常に困るのだけど、ない。

なぜこうなるかいつも考えて悩み酒を飲み考えるのを忘れるのだけど、産業分類的な思考がガンコにはびこっていて、文化分類的な思考がなかなかできない現状であると判断せざるを得ないのだな。じつに知的な職業の人びとですら、脳みそは、産業の虜、ま、奴隷なのだな。

日本は産業先進国であるかもしれないが、文化はかなり後進的というか幼児のレベルというか、それはまあ仕方のないことだと思う。食文化だって、わずか30年だ。文化は自動販売機で切符を買うようなわけにはいかない。

しかし、なぜ、いま、スーパーのトップセミナーで「食文化」なのかというと、これがオモシロイ。つまり、産業的なカテゴライズというのは、経済効率一本やりで行なわれてきた。カテゴライズとベクトル合わせ。それを繰り返し緻密にしていくことで、経済効率を上げ利益を生む仕組みをつくってきたわけだ。これは、別の言葉でいえばセグメンテーションだけど、一方で、カテゴリーとベクトルにあわないことは、捨てられてきた。ときにはニンゲンごとね。

それにセグメンテーションを繰り返していると、だんだん捨てることの方が多くなり、その中には、なくてもよいように見えるが捨て続けると悪影響がでるものも含まれていたりする。成績一番の子は、何十人かいるから一番なのであって、一番になりたいからといってほかのものを殺したら殺人犯であり、一番ではなくなる。でも、そういう思考で、モノゴトをやってきた。100人の中から1人の天才を見つけるために、99人を捨てるようなことをしてきた。ベストセラーだけが、価値あるものとして注目されてきた。ベストセラーだけに関心がいくと、ロングセラーを育てる育て方は忘れてしまう。1%の需要のために供給することをムダと思うようになる。そういうことが積み重なってきたわけだ。

しかもニンゲンというのは、経済原理的な思考だけで動いているわけじゃない。前に誰かがどこかでいっていたけど、おなじ商品が、値引きをしないコンビニで、安売りをするスーパーより売れていることがいくらでもある。経済原理とはちがう、なにかの文化性が、購買行動を決めていることがあるわけだ。

カテゴライズとベクトル合わせを繰り返していると、隘路にはまって伸びていくはずの売上曲線や利益曲線が、どこかで低下を始める。休憩をしないで、おなじ労働を続けていると、疲れや飽きから能率が落ちるように。それどころか、新しい政策を考えるとなると、もう視野や狭いし頭は固くなっていて融通がきかない。

ということで文化的な思考も、ということになるのだが、これは自動販売機で買うようにはいかない。であるけど、やっておかなくてはいけないことだと、はやく気がつくのは、よいことだろうな。

しかし、これだけ食べものがあふれ、これだけ飲食店があって、食べ歩き本もこれだけあって、「食文化」のカテゴリーがないとは、ニンゲンの脳みそが、いかに産業に隷属しているかを象徴しているようでもある。

ああ、暑いのに、こんなに書いてしまった。バカだなあ。

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2006/08/04

大衆食堂が潰れる? 貸金業モンダイ

優雅な散歩などしながら、大衆食堂を食べ歩いて「採点」している方は、ご気楽だが、たいがいの大衆食堂は零細経営だ。数少ない立地に恵まれているところはともかくとして、経営は楽ではない。その上、とくに小泉内閣になってからは、政治の軸足が完全に産業界と富裕層に移り、街の生業が成り立つ条件は、かなり厳しいものになっている。

と、今日は、論文のような書き出しだな。

金融業者の悪質な取り立てが問題になり、金利も含めた貸金制度の改革が検討されているわけだけども、社団法人全国貸金業協会連合会が「意見書」なるものを発表している。

「はてな」に「埼貸協ブログ」というのがあって、そこにのっているのを見つけた。埼貸協とは、埼玉県貸金業協会の略。「はてな」ユーザーというと、こういうナマナマしい人たちではなく、メディア貴族とその周辺の人たちといった美しくも輝いている芸術文化な亀田る芸能のイメージがあるので、おどろいた。

それはともかく、「上限金利を現行利息制限法レベルに引き下げた際の影響について」ということで、このように「意見」を述べている。

以下引用……

《利用者にとっては》

◇多くの借り手が信用供与の停止・制限を受ける事となる

(1)推計値ではあるものの、クレジット・信販業界を含む消費者信用マーケット全体から信用供与の停止・制限を受け、また、資金回収を迫られる借り手が700万~800 万人にも上る。

(2)このような借り手像は、「中小・零細企業勤務者」「ブルーカラー」「自営業者」「賃貸住居居住者」「勤続が短い者」など社会的に弱者といわれる庶民である。

(3)この制限・停止、また、回収を受ける庶民のなかから、所得の収支コントロールが出来なかった人が経済的に破綻し、自己破産・民事再生などの法的手続きに頼り、あるいはヤミ金等に流れてしまう可能性がある。

(4)日賦特例が廃止されると、主な利用者である大衆食堂などの飲食店10 万軒の資金繰りが悪化し、その結果、相当数が潰れる可能性がある。

(5)事業者金融を利用している中小零細企業約30 万社は、返済を迫られ、その多くは倒産する可能性がある。

……引用おわり

じつに、メディア貴族たちがつくる記事より、こういう実務的な文章の方が、低層で懸命にやってもどうにもならずあえいでいる姿がナマナマしい。おれは、おれのフリーライターというシゴトは「ブルーカラー」の「自営業者」だと思っているうえ、家賃の安い木造ボロアパートの「賃貸住居居住者」であるから、ぐへっ、おれのことかと思ってしまう。

とにかく(4)だ。「大衆食堂などの飲食店10 万軒の資金繰りが悪化し、その結果、相当数が潰れる可能性がある」と。この人たちは、日賦の主な利用者であると。

「日賦」というのは、一般には「日掛け」といわれている。と書いても、インターネットをやる余裕のある人たちには、わからないかも知れない。

これはおれの認識としては、「サラ金」といったものが登場するまえからの、かなり古い仕組みだ。簡単にいえば、むかしのトイチといわれた高利貸は、これを主にやっていた。というのも、おれが小学校4年生のころ、家業は1回目の倒産をするのだが、そのとき、うちのオヤジは、この日掛けに手を出して苦しんでいたので、知っているわけだな。「三丁目の夕日」などには登場しない戦後昭和の闇ですよ。

ようするに、これは、一日にいくら返すかが基準になって、貸金と利息を含めた返済期間が決まる仕組みなのだ。たとえば、ま、無理のないところで一日500円の返済としましょう、それで初回だから5万円貸します、と。それで、元金の5万円分と金利分を、毎日500円づつ払っていく。無担保で簡単に借りられるかわりに、金利が高く、返済条件が厳しいのだけど、毎日500円ぐらいなら返せらあと思ってしまうので、借りるときは厳しさを感じない。

しかも、このへんの仕組みは、なぜなのか、よく知らないが、貸したものが毎日集金に来ることになっている。どうやら、いまの制度でも、70%は、そのように集金することになっているらしい。銀行送金や直接持参というのは、認められていないらしい。そして、金利も、9%だから、ほぼトイチに近い。トイチというのは、10分の1、つまり10%だから。昭和30年代は、ちゃーんとイマも生きているのだなあ。

むかし、おれのオヤジが町の高利貸から借りたときは、町では有名なコバヤシという婆さんからだった。駅前通りで鉄工所を営んでいた亭主が死んで、彼女は、それでくっていたのだと思う。その彼女が、毎日着物姿で茶巾着をぶらさげて取り立てに来た。ウチでは、そういうことがあったかどうか記憶にないのだが、この婆さんは、その日の分が払えないと、家の中にあがりこんで、そのへんにあるものを持って行ってしまう、「ごうつくばり」で有名だった。

うちのオヤジも、それなりにこの婆さんには苦しめられたらしい。この婆さんには、若い美人の養女がいて、彼女は、ある夜駆け落ちするのだが、そのときの様子は、よく覚えている。彼女の駆け落ちの相手は、ウチの裏の家に下宿していた、たしか警察官だったような気がするが、警察官と駆け落ちは似合わないから記憶ちがいで単なるサラリーマンだったかも知れない。とにかく、彼と彼女は、ウチにときどき遊びに来ていて、おれも可愛がってもらったりしたが、その2人が、ある夜、雨か雪が降っていた、ほうが駆け落ちの情景としてはよいのでそういうことにしよう、血相変えて来て、あの婆は、どうしても結婚を認めてくれない、もうキチガイのように邪魔をする、ガマンできないからいまから駆け落ちするから荷物を預かってくれ、居場所が決まったら連絡するのでそこへ送って欲しいということだった。うちのオヤジは、ただちに、うれしそうに、ああそのほうがいい、あの婆じゃろくなことにならない。と、まあ、そういうことで、2人は、まさに手に手をとって、夜行列車に乗るべく、雪か雨のなかへ消えて行ったのだった。あとで、おれのオヤジは、うれしそうに、あの婆ザマアミロと大笑いしていた。

ま、どうやら、そういう名残りのようだが、とにかく担保もない日銭商売のものにとっては、今日の自分たちの食べる分や仕入れ材料費にもこと欠くようになると便利というか、もともと銀行には見捨てられているのだから、日掛けに手を出すことになる。

しかし、なんだね、青木雄二さんの「ナニワ金融道」では、借り手は困ったときには頭を下げて借りに来るのに、返すときになると金融業者を悪くいう、という話があったけど、そういう面もあるし、いわゆる町金融というのは、政府や銀行が見捨てたところを援けている面もあるし、しかし、しかも、そこへ金融して儲けているのは銀行だったりして、ようするに銀行が悪玉の大将というわけだな。

なにを書こうとしたかわからなくなったので、おしまい。

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2006/08/03

定番商品 鶏唐揚げとコロッケの待遇の違い

スーパーの惣菜の定番商品というと、日本全国どこでも売れているものを指し、鶏唐揚げ、とんかつ、メンチかつ、ひれかつ、などだそうだ。コロッケも定番のはずだけど、「販売政策」上からは、外れる。

食生活からすれば、コロッケは定番中の定番だろうけど、販売政策からすれば、「1個60円~80円の商品を懸命に揚げて販売しても、売上げは大きく伸びない」「1個(または1パック)300円前後の商品をヒットさせれば大きく売上げは伸びるが、1個60円のコロッケをたくさん販売しても売上げは知れている」「コロッケは定番として大切な商品だから売り込まなければいけないかもしれないが、そんなに努力をしなくても、放っておいても売れる商品なのだから、これは売上げプラスの”押さえの商品”なのである」ということだね。

こういう考えは、販売側としてはトウゼンだろう。コロッケの原価計算を、どうしているか知らないが、小売単価100円ぐらい、それ以下のものだと、原価計算は何十何銭、つまり1円以下2桁まで計算することがある。パンなどそうだが、何十何銭を計算しておかないと、売上げ計算上は問題なくても、利益で大きな違いが出る。ま、食品は、神経を磨り減らす細かいコトがつきまとう。

これは、生産者も同じで、たとえば、いま野菜が高くなっているが、でも、胡瓜などは1本100円はしない。シメジのたぐいは、1パック80円ぐらいか、特売で2パック100円のこともある。スーパーで、その店頭価格だと、生産者のところでは、いくらで取り引きされているだろうか。じつに、作るのが嫌になってしまうほど、利益の出ない価格で取り引きされるものが少なくない。

また、肉などそうだが、スーパーでパックされて並ぶときは、売りやすく利益が出しやすい量でパックされるが、生産者の手を離れるときは一頭だ。取り引きされる金額の単位は大きいようでも、飼料代などの原価はバカにならない。計算すると、やっているのがバカらしくなる。

ところが、大都会で暮らす一般の消費者は、そういうことは、あまり考えない。自分が買う値段で、品質も安全も、完璧でトウゼンと考える。とくにスーパーで買うときなどは、対話などないから、そこで双方の意思にもとづく「取り引き」がされているなんて、ほとんど意識しない。

しかし、生産者も販売者も、じつに際どいシゴトをしている。もちろん、消費者も、際どい生活をしている。そのなかで、どう品質と安全を確保するか、不安を言い募って騒いでいれば、それが転がり込んでくるほど、アマイ状況ではない。

そもそも食料自給率40%という現実は、自分たちが目先の快楽と損得だけで選択し無理を重ねた結果であり、米国産牛肉問題も、その一連のなかにあるのだ。それだけを切り離して、バブルでぶよぶよになった頭で騒いでも、一歩も前進できない。今回の騒動は、そのことをよく表している。輸入されたものが、国産品に混入されないよう、十分な対策すら立っていない。となれば、混入されるのが、常識というものだ。そういう実態が、米国産牛肉輸入反対ということで、放置されてきた。米国産牛肉に対する不安によって、豚や鶏は国産も輸入も全て完璧に安全になってしまった。

三菱自動車、ナショナル、トヨタ、パロマ……BSEより焦眉のイノチのキケンがたくさんあっても、BSEほどには騒がれない。ようするに、イノチが大切なわけではないのだ。

ま、そういうことだ。

ぐふふふふふ、可愛そうなコロッケのことを考えていたのだが、話がそれてしまったな。

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2006/08/02

おかしなおかしな、米国産牛肉問題

そういえば、米国産牛肉の輸入が再開されるのだった。ま、一つの「正常化」と言いたいところだが、もともと「全面輸入禁止」措置を反省してのことではなく、「安全」が確認できた?からとのことらしい。

それは、まあ、おかしな話だ。どうして、もっと激しい輸入反対運動をしないのかね、えっ、ひとのイノチに関わると大騒ぎしていたのに、こんなことで終っていいのか。いいのなら、あの大騒ぎは、なんだったのだ。偽善だったのか。と言いたい。

中国産野菜や米国産牛肉に反対するなら、完全阻止までトコトンやってもらいたい。あたかも、ひとのイノチが大事ってな知ったふうな正義風ポーズだけはびこっても、なんにもならいんだよ。

もともと、おれは「全面輸入禁止」も国内の「全頭検査」も必要ない、急いでやることはないという考えで、何度も書いた。そんなこと書くと、まるでひとのイノチの大切さをわかっていないかのような扱いを受けたな。書くたびにクチビル寒しで、書くのをやめてしまったが。ま、再度、リンクをはっておこう。これで全部じゃないと思うが。

けっきょく、大騒ぎのあいだに、日本のBSEがどう発生したかの原因究明は、いっさい行なわれなかった。あたふた多額のカネを投じて、「全頭検査」をやって、それであたかも国民の安全が守られているかのようなイメージがつくられた。国産は安全という、根拠のないイメージがつくられた。反中国反米感情の溜飲は下がったかもしれないが、しかし、安全に向って一歩前進したというわけではなかった。ま、そういう政治に利用されただけさ。

やっぱり不安を煽り騒ぐだけの日本人は幼稚でバカなのか。……ということは、おれは日本人ではないのか? だははははは、むなしい笑い。

04年2月14日 経団連の奥田
04年2月17日 牛肉と食育
05年5月13日 失われた全体像の末路
05年6月28日 狭いスキマの感情論、狭いスキマのあらし荒れる


貧乏人のクセに、ちったあ自分のことを考えろ。
さっさと「豊かな日本」の中流意識を捨てることだ。

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2006/08/01

幸福なき快楽

「幸福なき快楽」というコトバは、数年前だったか? コンニチの消費社会の特徴を語るために流行ったことがあるような気がする。このコトバは、検索してみると、ルソー様のオコトバのようだが、そうとは知らなかったし、ルソー様に回帰することが目的ではなかったように思う。

ま、そのことはぬきに、「幸福なき快楽」というコトバを思い出し、とくにコンニチのような細分化された欲望と消費の時代をよく表しているなあ、とあらためて思った。

このブログでは、「幸福」について、何度かふれている。それは、主に、健康と味覚に矮小化された食を批判する意図があってのことだ。たとえば、こんなぐあいだね。

06年5月26日 健康の増大、幸せの縮小
06年3月4日 「成功」の食と「幸福」の食
05年12月27日 嗜好と「食育」と「健康教」「栄養教」
05年6月4日 家庭にあるコト

このことを思い出したのは、きのう書いたように、大書店に並ぶメディアには、ビンボー人の影が薄いことに気づき、では、誰がそこにいるかというと、細部に興奮し快楽する人びとなのだ。そして、その細部の快楽のためには、必ず消費がつきまとう。近年の「ブーム」といわれるものは、ほとんど、それだ。

人びとは、とても細分化されたマニアックなタコツボのなかで快楽する。同類仲間が共感し興奮しあい快楽する。その快楽を「幸福」と錯覚する。その快楽が継続しないと「幸福」を感じられない。こういうブログも、そのためにカテゴライズされ活用されるのだが。そうなると、消費は、もう麻薬のようなものだ。ガマンできない、カネ出しちゃうね。いやはや、すごいことになっている。

「健康」も「グルメ」も、ようするに、それなのだ。

反中国も反北朝鮮も、もちろん反米も、ま、「靖国」も「反靖国」も、それなのだ。声高にそれを叫ぶことで、自ら興奮し快楽し、溜飲を下げる。そのためにメディアを必要とし消費する。

それらは、出口のない、隘路にはまった欲望と消費の姿ではないだろうか。
それは生活を消費に矮小化してきた結果なのだ。
だからさ、もっと「幸福」の食を意識してみよう、と、あらためて思ったのさ。

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