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2006/08/12

男たちの文化的後遺症

2006/08/10「書評のメルマガ 上方食談 錦市場探訪 そしてサブカル」の関連だが、『講座 食の文化』第1巻人類の食文化で、「上方食談」の著者である、石毛直道さんは、こう述べる。

「私たち日本人が食物についての話を公然とするようになったのは、そう古いことではない」「日本の伝統的文化の本流からすると、大人、とくに男性が食について大声で論じることは「はしたない」こととされてきた。その文化的後遺症のためだろうか、食についての発言は、本業ではなく「遊び」としてカムフラージュされることが多かったのである」

ようするに農学や栄養学がらみでもないかぎり、男たちは食を「遊び」「道楽」として、大声で語ってきたのだが、「遊び」「道楽」となれば、その舞台は、家庭の台所ではなく外食だった。1970年代後半に「男子厨房に入ろう会」「男の料理」がブームになるが、それも当初は、外食店のプロに学ぶことだった。

そして、家庭の台所の日常茶飯事は糠漬け臭い女房のことで語る価値はなかったが、外食のプロのシゴトは、「高尚なもの」として語るに足るものだった。

つまり石毛さんは、こうも述べる。「人間のいとなみのなかで「高尚なもの」とされる思想、観念、美学などが語るにたる文化であるとの暗黙の了解がずっとあったのである。「高尚なもの」を理解できることが「文化人」の資格であった」

これが、B級だろうと、なんだろうと、男たちがいまでも外食店を舞台にウンチクを傾ける最大の理由であり動機だろうと思われる。

粋、名人芸、職人芸、究極、秀逸、逸品、三大ナントカ、五大ナントカ、旬、厳選された真善美……そういう「高尚なもの」とされる美意識に導かれた文芸的作品を、男たちはめざした。そのことによって、ただの男とはちがう「文化人」の資格を得られるのだ。もっといえば、「作家」と名のれる人間になりたい、とか。

そして外食産業の成長と外食ブームに支えられ拡大する一方の外食マーケットは、とにかく回数と軒数を重ねさえすれば「情報的価値」を持ちえたし、いくらバカでも、回数と軒数を重ねれば比較でそれなりのことはいえる。さらに、古今東西の伝統芸術や文学者芸術家の作品から引用を盛り付けたりし、文化的文芸的な装いを競った。あと、そうそう、飲食店を舞台にしての、高尚そうな交遊録や会話ね。

ここに、外食店のことは語れても食文化については語れないアンバランスな男が、どんどん生まれた。

ま、そういうことなのである。いつまで続く、ああ、バカな男の~文化的後遺症。

と、考えると、おれの本、「いかがわしさ」を礼賛する『大衆食堂の研究』や下品といわれてきた汁かけめしを評価し直そうとする『汁かけめし快食學』は、ぶははははは、高尚とは無縁だものなあ、売れないわけだ。

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