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2006/10/26

大衆食堂の呼称と歴史

拙著『大衆食堂の研究』では、「大衆食堂」という用語を、かなり限定して使っている。つまり、その最初の書き出しが、こうだ……。

 食堂、といっても大衆食堂のことである。
 こうまでことわらなくても、いまでは、「食堂」といえばほとんどが、「大衆的な食堂」という意味での、大衆食堂である。そこで、あえて、東京の大衆食堂については、こういわなくてはならない。
 昭和三〇年代にして一九六〇年代の「たたずまい」をとどめている大衆食堂のことである、と。
 なぜこういう言い方をするのか、しなくてはならないかということは、これからなんとなくわかってくるはずだ。

……引用オワリ。

ワガ体験的「大衆食堂」を書くために、このように限定した。60年代の後半から国民の「中流意識」が盛り上がり、70年代には「市民意識」へ発展もしくは転化する、そのもとの根っこにあった東京の労働者の日常食における食堂を意識していたからで、読んでいただいた方にはわかるだろう。実際、当時の大衆食堂とは、そういうものだったと思っている。東京は、いまでは想像しにくいほど、「京浜工業地帯」という言葉がピッタリな工業社会日本の中心にあって、汗臭い労働者の町だったのだ。

で、『大衆食堂の研究』では、そのセンでの歴史についても少しふれているが、これは「外食文化史」というものからは、ほど遠い。こんど大衆食堂について書く機会があれば、もっと昭和外食文化史のような視点で書いてみたいものだと思っている。

最近ときどき、大衆食堂の歴史について質問されることがあって、上野の聚楽を「元祖」とする説についてであることが多い。ワガ体験的「大衆食堂」からすれば、『大衆食堂の研究』にも書きザ大衆食のサイトにも引用しているが(ザ大衆食「上野駅前上野百貨店の聚楽台と西郷丼」)、それを「元祖」とする考えはない。

まだ、自分でも、外食文化史における大衆食堂の歴史を、どう考えたらよいか確信できる方法もないのだが、ハッキリしていることは、何度も述べているように「大衆食堂」というのは、単なる風俗的な呼称なのだ。だから、かりに、その言葉の始まりという意味での「元祖」はあるかも知れないが、実態としては風俗的な呼称にすぎない。

その呼称の系譜を追っても、遠藤という苗字の元祖はわかっても、遠藤とはどういう人間であるかは明らかにならないように、大衆食堂の「像」は明らかにならない。そして、聚楽は、大衆食堂の呼称の「元祖」でもないし、その前身の須田町食堂は名前が記録に残り有名ではあるが、それをもって当時の大衆食堂を代表あるいは包括させられるだけの内容や勢力を持っていたわけではない。明治期の創業のヤマニバーなど、須田町食堂以外にも、似たような商売の方法をとるところがあって競っていた。それは外食産業史的に見たら、今日のチェーン方式の経営あるいはファミレス的業態の萌芽や先駆とみることはできるかもしれないが、大衆食堂の「元祖」とするには、無理があるように思う。

いまの時点から「大衆食堂」はこういうものだと決め付けてふりかえれば、聚楽や他のどこかの食堂を大衆食堂の「元祖」とできるだろうが、その決め付けの根拠が必要だし、それでも実際には「大衆食堂」は風俗的な呼称にすぎないという事実は消えない。

おれは、いまのところ、当時、その「大衆食堂」という呼称が生まれる時代の人たちが、どういうふうにその実態をみていたかを知ることが、大衆食堂の「像」を明らかにするために必要ではないかと思っている。ようするに、「元祖」を決めたいのか、「像」つまり実態を明らかにしたいかだろう。おれはムリヤリ元祖を決めることには興味がない。

それで、まず「大衆食堂」という呼称が生まれた時代だが、これは割とハッキリしている。「大衆」という言葉が流行する昭和の初め1925年前後から、昭和13年(1938)に東京府料理飲食業組合大衆食堂部がきるまでのあいだと見てよいだろう。(ザ大衆食「食堂の歴史あれこれ」)

ということで、まずは、またもや、きのうから持ち出している『東京食べある記』だが、ここに「「大衆的な食堂」という意味での、大衆食堂」のイメージに近い記述がある。

「簡便な安価な食堂」という見出しで、「東京の食味界で、大衆的に深く強く根を下して、安価第一で繁昌して居るのは、蕎麦屋やすし屋の他に、おでん屋の他に、「食堂」の存在を見のがしてはならなかった。」と書き出す。そして、このように述べる……

 ほんとの大衆的食堂では、東京市営の公衆食堂が市内に十数ヶ所あつて、勤人連の一部や労働者階級のために、無くてはならぬ有用な機関の一つとなつて居た。土橋に近い平民食堂、昌平橋の昌平橋食堂、上野駅に近い栄屋食堂、水道橋の水道橋食堂、牛込の飯田橋食堂、浅草のまこと食堂、深川の伊勢屋食堂、芝の玉川などでは、味噌汁、香の物、御飯で、朝食十銭から十二三銭かで、空腹を充たすことが出来た。この他浅草の田原町には、昔の一ぜん飯屋が進歩した三州屋があったし、四十何軒も同じ名のヤマニバー、本郷バーがあったし、須田町食堂など云ふのも、到る所に看板を見ることが出来た。本郷、ヤマニ、須田町の三食堂が、銀座のセンターにまで進出して、小料理物や洋食や和洋酒を、安価第一主義で提供して居るのも、当節柄としての現象らしかった。
 所謂食堂の食べ物の風味は、第二主義であっても、経済的には第一義的の使命があることを、合点せずには居られなかった。

……引用オワリ(漢字は変換の都合で新漢字にした)

「大衆的食堂」という表現で、著者は新聞記者なだけに、わりと実態を包括的にまとめていると思う。
「バー」とつくのは、かりに和洋中のメニューを扱っていても、いまでいう「洋食屋」の系譜と考えて間違いない。
市営食堂の系譜は、やがて東京府料理飲食業組合大衆食堂部に吸収され、戦時下の外食券食堂、戦後の民生食堂、東京都指定食堂へとつながることは、『大衆食堂の研究』に書いた。この東京都指定食堂は、一時は千数百店あって、戦後の大衆食堂の成り立ちの大きな潮流を担ったといえる。

長くなったので、とりあえず、こんなところで。

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