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2006/12/02

表現以前のモンダイ

こういうことは知らん顔をしてすごすのがオリコウというものだと思うが、根がバカだし、たまたま「目撃」したし、自分がこのブログを含めて書いているかぎり、また身近に知っているひとのところで起きた、こういうことに知らん顔するのもなんだなと思って書くのだが。

「酒とつまみ」の掲示板をご覧いただくとわかるが閉鎖されている。おれは、その直前にたまたま見たのだけど、記憶で書くと、そちらのことに疎いので名前は忘れたが、ナントカというコメディアンが、「酒とつまみ」に連載があることから、そのナントカを出せ住所を教えろ、という趣旨での脅迫じみた発言、なかには「右翼」を名乗る人が(とうぜん本当に右翼なのか、右翼を貶めようと名乗っているのか判断はつかないが)、日本は自由な国だから殴り殺す自由もあるのだぞ、といったふうな書き込みがあった。見ているうちにドカドカ書き込みがあり、やがて掲示板は閉鎖された。

これは、「週刊金曜日」や「酒とつまみ」でブログ検索すると、かなりヒットするのでわかるが、「週刊金曜日」が主催の集会で演じられた、そのコメディアンのコメディ?が、その人たちの逆鱗にふれたらしい。

詳細について、おれは知らないし興味はないのだが、感じたことは、近年思っていることに関係する。

一つは、もともと「左翼」だの「右翼」だのという「型」の分類は、いいかげんだ。というのも、おれは「左翼」だといわれたり「右翼」だといわれたりするし、そういうことをいうやつに、いったいどっちなんだ、その基準をハッキリさせろといいたいぐらいなのだ。かなり観念的ではないか。

で、なぜ、そんなに雑に人間を「型」にわけてしまうかというと、一人一人を具体的に理解しようという努力が足りないからだろうと思う。やたら「政治」が好きな連中ほど、そういう傾向が強い。それを、どうやら「党派性」とカンチガイしている幼稚さもある。そして、これはもしかすると、多発する自殺の土壌に共通する、何かがあるのかも知れないと思ったりするが。

それから、もう一つは、それと関連するが、とくに80年代以後に顕著になってきた現象だと思う。政策的な批判や論議などより、なにか自分の感情や志向や嗜好にあわないものを、罵倒したりバカよばわりして溜飲をさげることが目的であるかのような表現が多くなった。とりわけ、相手の弱点を鵜の目鷹の目で見つけては、襲いかかる。「辛口」だの「毒舌」だの、そういう類が多い。

これはメディアの過剰生産の結果、紙や印刷の低価格化競争、あるいはこのブログのように各人の表現手段となるメディアが安く簡単に手に入るようになったことにも関係するだろう。これが、表現の過剰な競争と過剰な表現を生んでいるのだと思う。

相手や対象を理解する努力もせずに、すぐさま安直な過剰な表現で、ただただ罵りあるいは揶揄し、ときには大げさに礼賛し、自分の「正しさ」に自己満足する。相手のことなど一つも理解してない。思想的にちがうからということではなく、自分は正しいから、間違っているやつを罵倒してもよいと思い込んでいるフシもある。それは「殺してもよい」に通じる。もともと存在を理解しようとしなければ、抹殺へ簡単につながっていくのだ。表現が過剰になるのはトウゼンだろう。

見るほうも批判精神に欠け、ただただ溜飲を下げてよろこんだり、おなじ感覚や志向や嗜好であることをよろこんだり。その背景には、もう一つ、「趣味的生活」に満足する傾向があって、「政治談議」もその一つになっている。政治談議そのものが趣味なのであって、現実の生活をよりよくというビジョンや願望に欠ける。そういうところには、「人生社会に対する批評精神」の稀薄が発生する。

「人生社会に対する批評精神」の成長が、これほど、バブル崩壊の苦労を味わいながら育っていないのは(あるいは苦労とも思っていないひともいるようだが)、イジョーとしか思えない。それは、先にもどるが、過剰供給のメディアに囲まれ、判断の基準がメディアにふりまわされているからだろう。

ブログなどを見ても、新聞やテレビの報道をもとに、喜怒哀楽しているケースが多く、そこからの印象をそのままブログなどの表現に持ち込む。自分独自の調べや考えを練ることをしない。まるで新聞やテレビなどのメディアの付属品のようだ。もっと、直接、事物や人にふれあい、理解することを大事にしなくてはいけないと思う。そこにあるものがあったり、あることを信じたり、ある行動をとるには、それなりの歴史や理由がある。

そういう意味では、天皇の存在も、その信仰も含め、おおいなる歴史と理由があるだろう。理解するのは、とても難しいが、理解しないで否定するのは安易すぎる。おれは、無神論者であるから、こんなことを考えないですむなら、どんなにいいだろうと思うが、そういうことなのだ。それに料理の歴史ひとつ、たどれば、天皇と向き合わざるをえない。そういう歴史が存在する。

ってことで、とにかく、コンニチのメディアの供給過剰状態下では、表現の場は比較的容易だし、その自由は物理的に拡大している。だから、すぐさま急ぎ大慌てに表現し、ナニモノかになった気分になるより、表現以前のことに、もっと努力すべきだろうと思うのだ。

ここに荒川洋治さんの、よいオコトバがある。

文章には、文章になる前の状態があり、そこからリズムをもらいうけて文章がはじまる。そのかくれた発祥の地点は作者の個性に関わるものだけに、もう少し話題のなかにとりいれていいかもしれない。目に見える文章やことばは分析の対象にされやすい。それはだが文章というできごとの一部にすぎない。

……引用おわり。『夜のある町で』(みすず書房)「おかのうえの波」より。
文章にかぎらず、オシャベリやコメディも含め、あらゆる表現にいえることだろう。表現以前と表現されたことの背後にあるものに思考を、もっとこらすことをしないと、メディアにふりまわされた社会や人生になってしまう。

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コメント

けっきょく、なんでしょうかね、
あまりセカセカせずに、
ゆっくり見ながら考えながら、
ってな感じでやれるとよいのにと思うのですが。

チャップリンのモダンタイムスは、
機械にふりまわされる人間でしたが、
機械にメディアと情報が加わって、
ますますふりまわされやすくなったのか。

投稿: エンテツ | 2006/12/04 11:00

う~ん、これが直接見たことはないのですが、
ITニュースなどで使われている「お祭り」とか
「炎上」とかいわれることなんでしょうねえ。
他にも「ブログ消耗」「ミクシイ疲労」なんてのも
目にしますが、何ともいやな響きのネット言葉です。
かっての喪失感のなかで、「自分の中に他者が
見えるか、他者の中に自分が見えるか」と自問
してきたのですが、現実とネットの両世界とも
大勢が段々見えなくなりつつが悲しいことですね。

投稿: ボン 大塚 | 2006/12/02 21:40

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