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2006/12/12

「四月と十月」の濃密

先月は、いただいた雑誌や本などを紹介する間もなくすぎてしまった。今月も、いろいろいただいている。どうもありがとうございます。

東京商工会議所から『ツインアーチ』。表紙と表2の「わが秘(うち)なる東京」に鎌田實さんが登場だ。漫画屋の塩山芳明さんから『記録』12月号(アストラ)。産業新潮社から『産業新潮』12月号、これは以前ここで紹介の北九州市の『雲のうえ』の記事に登場する「北九州市角打ち文化研究会」の会長、須藤輝勝さんが寄稿されているもので、当ブログをご覧の編集さんが送ってくださった。たばこ総合研究センター(TASC)から『談』76号、特集「情動回路…感情、身体、管理」、3日の「わたしはわたしよ」に「「なぜ溜飲を下げるのか」、情動のコントロールが始まっている!」ってことでリンクをはっている、その話で、とてもオモシロイが、おれのアタマでは内容把握に、もう少し時間がいるので、後日くわしく紹介したい。

そして、きのう、牧野伊三夫さんから、豪華、『四月と十月』の10月号が遅れて発行分と、『WHISKY VOICE』26号と『WHISKY VOICE』2007年カレンダー、の三点が届いた。ぐわーい、すごーい。

『四月と十月』には、すでに当ブログとザ大衆食のサイトで紹介の、「古墳部活動記 いにしえの美術を訪ねて 第6回」の「諏訪・八ヶ岳を訪ねて」が載っている。書いているのは、古墳部長にしてイラストレーター・帽子デザイナーの須曽明子(スソ アキコ)さん。

下諏訪の松崎緑さん店主のすみれ洋裁店での宴会も楽しかったなあ。「遠藤さんは踊りを披露してくれて」とか書いてあるけど、酔っ払って、まったく覚えていない。←左サイドの内澤旬子画伯作のアステアエンテツ犬踊りをやっていただけじゃないだろうか。

うーむ、それにしても、読んでいると、あのときの興奮が思い出される。それはそのあとスソさんの個展のときにスソさんと、先日は門前仲町の落語会で瀬尾さんと、諏訪には何かある、また行かねばならぬと盛り上がったように、何かあるのだ。

スソさんは書いている。「諏訪には古代に起源があると考えられる、ミシャグチ様を祀る信仰がある」「神社の多くは古事記や日本書紀に登場する神々を祀っていて、諏訪大社も建御名方命(タケミナカタノミコト)が祀られているが、もっと根のところに、ミシャグチという神がいたというのは興味深い」

諏訪大社の御柱祭も「奇祭」といわれる一つだが、あの地域の、どんな小さな祠にも、祠を囲むように4本の柱が立っているのはオドロキだった。「ミシャグチは土地や巨石、大樹を神降ろし場とする信仰」と関係あるかも知れないし、もしそれが「本当に古代からの信仰だったとすると、縄文時代の土器や土偶の表現にもきっと関わっていたに違いない」とスソさんは書くのだが、たしかにそういうかんじがあるし、それらは食と深い関係がありそうなのだなあ。

そこんところは、たとえば縄文の文様を見て、自然の模様をモチーフとして読みとるのはわりと簡単なことであって、それだけではない、「信仰という精神世界」それも単なる自然を恐れての信仰ではなく、食べること生きることに積極的に関係する精神世界を想像する手がかりがあるような気がした。

それはまた、古事記や日本書紀に始まる歴史からすると「奇」であり、いわゆる純粋な日本料理の伝統という伝聞などは、根本からくつがえるようなことでもあるようだ。6月6日の「肉食文化と米食文化と古墳部の旅」に写真も紹介したが神長官守矢史料館で、そのことをとりわけ強く感じたのだが。

それにしても、『画家のノート 四月と十月』は見ごたえ読み応えがある。絵などの作品とある文章は、いずれも短いのだが、古墳部で同行の同人のかたも、その周辺の美術系のかたも、観察や思考や想像が、なかなかスゴイのだなあ。だから、内容が濃密なのだ。

稲村さおりさんの、二種類のオリーブの木を買った話。ベランダに置いて、オリーブを摘む自分を想像する。が、毎日のように風で倒れるので部屋に入れて育てる。「しかし冷静になって考える。風もないところでどうやって受粉し、実をつけるのだろうか? まだ花は咲いていない。調べればいいのだろうけど、答えが分かってしまうのもつまらない」

大熊健郎さんの「生活のピアノ」。「住宅街の細い道をぼんやり駅に向って歩いていると、突然ピアノの音が聞こえてきた。思わずハッとしてその場に立ちすくむ」。小さいころの思い出。「ただの郷愁だろうか。いやそれだけじゃない。僕が聞いたのは、本当に聞きたかったのは、なんということのない普段着のピアノの音、「生活のピアノ」だったのだ」。料理も「生活のなかの」をつけなければならないほど、生活離れしている傾向もあるのだが。

川原真由美さん。古墳部で一緒だったが、「天国行きの写真」で、おばあちゃんの一周忌の写真から、おれがきのうの日記に書いた「記憶の関係」のようなことを考え述べている。「ひとが死んだあと残っていくもの、消えていくもの。作家達が残した物体。誰が創ったかなんて知らない物体、目には見えないことがら。それらはだれかの心の中に残り、次の大事なもののためにいずれは消えていくのかもしれない」。川原さんはまだ若いのに、「子供のころは、あまりに遠いことのようで実感のわかなかった自分の人生の期限を、最近はじんわり感じることができる」などとおっしゃる。

写真家の久家靖秀さんも、古墳部で一緒だったことがある。「アラ」のタイトル。ひらめ、たい、しまあじの高級魚のアラを、汁に入れてしゃぶるのがうまい。「卑しい仕草を演技的に、半ば強制する儀式」「口の中では卑しく小骨をねぶる演技をする」「食にまつわる「卑しさ」を枯れて演技的に自覚する快感がある」「舌が演技している事を皆知っているが観た者はいない」。うーむ、スルドイねえ。表現以前に感覚が冴えているねえ。汁かけめしをかっこむのも、「卑しい仕草を演技的に、半ば強制する儀式」であるかな。

宗誠二郎さんの、「うどん屋のラーメン」は、直島のうどん屋のラーメンの話。最後の「このラーメン、東京でも食べたいなぁ」に、食べてもないのに激しく同感する。

……と紹介していると長くなってしまうなあ。田口順二さんは、北九州市の学校で美術の教諭をしていて、以前におれの『汁かけめし快食學』をご覧いただき、炭鉱の生活と汁かけめしの話をメールでいただいた。「不足ぎみの力」のタイトルで、「最近、指導力不足教員とか不適格教員という言葉をよく耳にする」ってことで、あれこれ「不足」に思いをめぐらす。指導力不足の教員って、どう認定されるのか、初めて知った。牧野伊三夫さんは、この夏のマダガスカル。アンチベラの郵便局へ8年ぶりに行って見た。「しかし、以前のような感動はない。たしかに同じ建物なのだが、似ているだけで別の建物であるかのようだ。思い出の方が、現実の風景より刺激の濃いものになってしまったからだろうか」と。ふるさとの味やおふくろの味にも、こういうことがあるような気がする。

ほかに、宇田敦子さん「入力」、金田実生さん「わな」、工藤志穂さん「晴れの日、雨の日」、末藤夕香さん「日曜の高速道路」、鈴木安一郎さん「血液型カード」、須曽明子さん「ぼんやりとした思考のゆくえ」、瀬沼俊隆さん「六ヶ所村」、文・末房赤彦さん画・原陽子さん「ちょんまげ天国」。

連載の、「東京風景」鈴木伸子さんの「都電の走る風景」、「装幀のなかの絵」有山達也さん「アクション派」、「モノたちのコトバ」上野朱さん「社交嬢求む」(すごくオモシロイ)、「仕事場訪問」は牧野伊三夫さんが同人の鈴木安一郎さんの仕事場を訪ねて。「ドイツ美術学校留学記 愛しのマリアンネ」一条美由紀さんの「葬儀と喪失感」、「音の巣」青木隼人さん第一回「朝と音楽」、「美術の本」蝦名則さん「戦争画さまざま」今回は戦没画学生の文献。

「画廊の外の展覧会」言水ヘリオさんの「大城(おおぐすく)スージグヮー終末美術館」っての、すごくオモシロイ、なにがってスージグヮーって沖縄の言葉で路地のことなんだけど、ようするに路地を歩きながらヨソの家に入って、家ご自慢の庭を見るのだ、そのまたタイトルのつけ方が笑える。

どれもなかなかおもしろくて、読み出したら、ほかのことをしないで見ていたので、まずいことになった。

ああ、長くなった。

四月と十月……クリック地獄

神田神保町の書肆アクセスほか、青山ブックセンターなどにもあるらしい。お手にとってゼヒご覧ください。

参考、ザ大衆食「八ヶ岳西麓「尖石縄文考古館」で縄文人と会う」……クリック地獄

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