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2006/12/25

「和」の伝統

クリスマスの今日から正月に向う年末の風景はオモシロイ。「洋」なクリスマスの飾りつけから、そのなかに「和」の正月の飾りがまざり、そして「和」の正月へと変わる。というぐあいに見える。

クリスマスというとメインの料理はトリだが、近年はイブの食卓に刺身や手巻き寿司なども混ざった「オードブル」がのるようになり、スーパーの店頭にも昨夜などは豪華刺身の盛り合わせなどが大量に並んでいた。これが明日あたりからは、ますます「和」のオセチっぽくなる。しかし、そのオセチにハムなどの肉類も欠かせない。

ここで、「洋=欧米」と「和=日本」の関係をどうみるか。日本人は元来「和」の伝統であるべきで、クリスマスの「洋」なんてのは、日本人の堕落だ。と、とにかく「日本型」はよくて、なんでも「欧米型」は悪く、「欧米型」になびくのは日本人の堕落とする言論は、食の分野で根強いものがある。

しかし、「洋」も「和」も混ぜて飲み込んでいる、この現実こそ日本の文化であり伝統の姿なのかもしれない。そのようになんでも「和」していくところに「和」の文化と伝統があるのかもしれない。「日本料理は、純粋な伝統文化ではないということである。雑種文化なのである。」と江原恵さんは、『まな板文化論』に書いている。

その話のために江原さんは「和漢のさかいをまぎらかす」を引き合いに出している。『まな板文化論』よれば、「和漢のさかいをまぎらかす」は「茶の湯の祖」といわれた村田珠光が説いたことだそうだ。この江原さんの話は、いまひとつわかりにくいのだが、ようするに茶の湯は日本の創始でも、中国から伝来の物や文化が多く関係している。それを「和」だの「漢」だのとイチイチ識別することなく、その「さかいをまぎらかす」ところに日本の伝統芸である茶の湯の美学が成り立っていた。「さかいをまぎらかすことを尊ぶ伝統的な思想」があって、日本の文化とくに料理文化は発達してきた。という主張で、これがつまり江原さんがいうところの「雑種文化」なのだ。

ま、たとえば日本語だが。日本で広く普及した「文語体」は、「和漢混淆体」といわれるわけだけど、そしてそれは現在の口語体にも生きているのだが、実際の暮らしの中で使われているときに、イチイチここは「和語」の伝統ここは伝来の「漢語」といった識別はしない。つまり、「さかいをまぎらかす」ところに日本語は成り立っている。日本人の生活とは、そういうものである。それを、イチイチわけて識別し「純粋」な「日本型」の「和」の伝統だけを残し、他を排除しようとすると、たちまち現実は崩壊してしまう。「さかいをまぎらかす」ことで「和」を生かすことが「伝統的」な生き方なのかもしれない。「和洋折衷」は「和漢混淆体」と同質の文化であり、「和」のみが伝統なのではなく「和洋折衷」の姿そのものが伝統なのだ。

クリスマスから年末の風景をみていると、そんなことをスルドク感じるのであるよ。

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