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2007/01/31

おどろきな「アイドマ(AIDMA)の法則」

チト調べものをしていて、「現代用語の基礎知識2007」を見たら、「アイドマ(AIDMA)の法則」のところに、これらは、広告宣伝以外の「説得的コミュニーケーションを効果的にするにも有効」と書いてあるのでおどろいた。

この用語は、おれが1970年代にマーケティングの仕事についたとき、イチバン最初に覚えた専門用語で、その内容は、ここに書いてあるのとほとんど変わらない。

つまり「広告宣伝を効果的なものにするには、「注意を引くこと(Attention)」「興味・関心・利益に訴える(Interest)」「欲求に訴える(Desire)」「記憶してもらう(Memory)」「買ってもらう(Action)」の五つの観点が大切になる」ってわけで、それにしたがったプログラムやプランは基本的なことだった。

ま、ひとの行動のもとには、InterestやDesireがあるということで、これは好食の「好き」にも共通するかもしれないが、70年代のマスマーケティングの手法は、批判あるいは否定され、エリアマーケティングだの最近では「パーソナルマーケティング」だのといわれるようになっても、まだ「アイドマ(AIDMA)の法則」は生きていて、しかも「説得的コミュニーケーションを効果的にするにも有効」というぐあいなのだ。

であれば、ますます、「好き」を生活の基本におくことは、おもしろいのだが、ここで問題が一つあるなあと思ったのは、「説得的コミュニーケーション」が、権力的な側から、あるいはカネをふんだんに投入できる側から行なわれたら、どうなるかということだ。ほら、たとえば、タウンミーティングみたいに。

みな「説得」されちゃうのだろうか。このばあい、そのてにはのらぬの焼き蛤になるには、ここでもまた、自分の「好き」にこだわるしかないのかも知れない。

あと、「説得的」というが、どうもちかごろのブログ上の議論など見ていても、「把握的」「理解的」「受容的」「批判的」「否定的」「攻撃的」といった違いすらわかっていないのではないかと思うことがおおい。把握も理解も受容も、批判も否定も攻撃も、おなじような感じでごちゃまぜのようだ。ようするに対象の、それこそ「把握」も「理解」もできてない。そんな中で「説得的」だけが効果をもつとは思えないのだが……。はてね。

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「好き」を大事にするってことで、「たらし焼き」「どんどん焼き」

2007/01/20「それで好食「たらし焼き」なのだが」を書いたまま日にちがすぎた。

このあいだも納豆データ捏造問題があったばかりだ。「身体によい」「健康によい」「やせられる」といった、いわゆる「健康志向」に食が偏向し、「好き」が犠牲になっている印象がある。これでは食は「文化」ではなく「生理」かよと思ってしまう。

ま、このあいだの敗戦まで、「好き」は生活の基本ではなかった。「好き」なんぞは、「ぜいたく」「わがまま」と非難され、「好き」どころか「欲しがりません勝つまでは」テナことにまでなって、男女のあいだもそうだったが、「好き」という個の根本に犠牲を強いる、さまざまな規範や因習などが強い社会だった。

ま、その社会の制度は変わったが、制度はなくなっても、文化や習慣は、そうは簡単に変わらない。いくら「旧制度」を批判し否定し民主主義や個人主義を謳歌したところで、それぞれの「好き」という素朴な感情を育てる文化が成長しないかぎり、そうは簡単に変わらないのだ。すぐ「ぜいたく」「わがまま」といった言葉がとびだす。特定の人たちの「好き」を押しつける。「健康増進法」「食育基本法」といった、個の「好き」に干渉するような法律が、簡単に決まってしまう。

と、書いても、それこそ「好き」という素朴な感情を育てる文化が成長するわけじゃない。

で、「たらし焼き」と「どんどん焼き」だが、そういう話になると、まず、そのいわれや歴史やちがいを、のべたり知りたがるひとが少なくないと思うが、それがそもそも、マチガイなのだ。

で、まずは、またまた、おなじ投稿文を引用するのだが……「私の家では、夕飯を食べる前にお茶を飲みますが、その時にたらし焼きを作って食べます。たらし焼きはうどん粉と重曹と砂糖を入れてフライパンで焼きます。とてもおいしいですよ。」

「たらし焼き」の作り方は、ここに書いてあるとおり、じつに単純だ。砂糖も入れずに焼いて、醤油や砂糖醤油で食べる家もあるらしい。とにかく、これを作って食べてみることなのだ。

できるなら、まず、うどん粉だけ水で溶いて焼いてみたほうがよい。できたら、うどん粉の種類を変えてみる。それから、少しずつ、いろいろなものを加えていく。それで好きになれなかったら、「たらし焼き」と「どんどん焼き」のちがいなど、ほんとうはおなじものだと思われるが、考えても意味はない、無駄だ。ほかの好きなものに向かえばよい。

とにかく、この投稿者は、このたらし焼きが好きで楽しみにちがいない。この単純なものを、「とてもおいしい」という。ちょいと見栄や気取りがあったら、こういうものを、広報誌に投稿することはないだろう。あるいは見栄や気取りがあったら、私の家では伝統と文化を守っていますとか、いまの人たちはゼイタクになりましたがウチでは…などと余計なお説教が入ると思う。ようするに見栄に負けない「好き」がある。それを主張する生活がある。そのようにかんじた。

ついでに。なにもくわえないたらし焼きは、露骨にうどん粉の味がわかる。うどん粉の微妙な旨味が、わかる。おそらく、「たらし焼き」だろうが「どんどん焼き」だろうが、そこから始まったのではないか。

これを試してみないで、うどんやお好み焼きやもんじゃ焼きなどの能書きをたれているようだったら、さっそくやってみてほしいね。

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2007/01/30

坐骨神経痛

ごくたまーに坐骨神経痛が出る。腰からケツのあたりを中心に、ビリビリビリと電流が流れるような痛みがひろがる。激しいと、立つこと歩くことができない。息がつまる痛さ。そういう症状は、最初のときと、その5年後ぐらいの2回だけで、あとは今回もそうだが、ヤバイなと思ったときに用心して、ひどくならずにすんでいる。

今回は、1月2日に、ちょいと重い荷物を左肩にかついで、かついだ瞬間にちょっとマズイかなと思ったが、そのまま歩き片側かつぎもいけなかったが、ちょうど寒く冷えていたのも災いしてだろう、翌日あたりから左側のケツを中心に、かなり痛みがはしるようになった。

しかし動けないほどではなかった。一日に2回湯につかるなどし、出かけるときはパッチなどをはいて、とにかく温め、ひどくならないよう用心した。ほんとうは酒はよくないのだが、これをやめるとほかの神経がイカれるので、やむなく飲み続け、ここ2、3日で、ほぼ回復した。

最初に、これになったのは、35か6のころで、あのときはひどかった。5月の連休前に、後立山の八方尾根―唐松岳―五竜岳―遠見尾根というコースをやって下山、なか一日おいたぐらいで、巻機山へ行った。

どちらも単独行で、スキー板をかついでいた。このスキー板が、ゲレンデ用のしかも当時おれがイチバン気に入っていたメタルの板なのだ。とにかく重い。すでに短い軽い柔らかいグラスファイバーだかカーボンの板で、華麗なるピポットターンを、見せびらかすようにゲレンデで滑ることが流行っていたが、おれはその流れに反逆するように、長い重い硬いメタル板をかついで山へのぼり、ガオーッと野性の雄たけびをあげながら、ゲレンデではないところを思いっきり滑って楽しんでいた。

そのときは、厳冬期とはちがうが、後立山では唐松岳でテントの一泊だったから、天候悪化にそなえ、装備は重かった。そして、天気はよかったが、とにかく冷たい風が強かった。

坐骨神経痛が出たのは、巻機山を下山してからだった。

ここは高校山岳部時代から十分なれ親しんだ山で、ふもとの民宿に泊まり、約1900数十メートルぐらいの山頂まで登ってスキーでくだることは、すでに何度もやっていた。その日も、おなじように、朝早く出て、割引沢―ヌクビ沢コースをのぼり、そこを滑っておりることにしていた。

とくに沢コースは、毎年の雪の状態によって、様相がまったく変わるし、このコースの場合、大きめの滝が連続してあって、雪崩の巣もある。歩いてのぼりながら、滑走でくだるコースの雪の状態を確認する必要があるのだ。

雪崩にまきこまれたこともあるし、残雪期には何度か危険な目にあっていたので、スキーでくだるばあいでも、雪崩の危険が高まる11時までには雪崩の巣を通過したいと思い、早朝に民宿を出た。

装備は比較的軽かったと思う。ま、あの板は、重かったが。そして、快晴だったが、冷たい風が吹いていて、ヌクビ沢をつめきって大きな雪庇をこえて稜線に出たら、立っていられないほど風が強かった。いそいで比較的風のかげになるところを見つけ、ガスコンロで湯をわかし、食事をしたのだが、その最中でもドンドン身体が冷えるのがわかった。

食事を終え、登山靴をスキー靴にはきかえ、スキー板をつけ、そりゃあ、というかんじで大きな雪庇をジャンプしてヌクビ沢に飛び込むようにスタートする。この雪庇を蹴り宙に飛び出す瞬間が醍醐味なのだ。このシーズンは、とくに大きな雪庇が残っていた。

そして、すり鉢状の斜面を、雪崩の巣に向かって一気にくだる。そこで合流する割引沢へ突入するかんじ、向こう側に見える山の斜面へ激突するように滑りのぼり左へカーブを切り、割引沢に入る。うーむ、このあたりは、豪快で忘れられないね。

途中一か所、アイガメの滝という大きな滝のところで雪面がポッカリ口をあけているため、一端スキーをぬぎ、高く巻いて下におりる。それ以外は、疾走だ。だれもいない、大自然にわれ一人の疾走、気分は最高ですね。

で、この日は、冷えていたので、硬くしまった雪面は、デコボコ道ジャリ道を自転車で走るようなものでスキー板は細かくガタガタする、それを押さえスピードにまけないようコントロールするために、けっこう腰から下をつかっていたようだ。

とにかく、沢から離れるところまでくだったときには、ヒザはがくがく、アゴもがたがた、しばらくしゃがみこんでいた。

その夜も民宿に泊まって酒をくらって、たしか翌日そこを出るころから、どうも腰のへんがビリビリビリおかしいかんじになってきたと思う。そして、上野駅に着いたころには、脂汗が出る痛さ、当時町田市の小田急沿線の駅近くにあった住まいにやっとたどりついた。

痛さは増すばかりで、横になっても痛い、どうやっても痛い。まずは近くの病院へ行った。医者は、坐骨神経痛だとかいって、注射を打ち、それが一週間たっても、ゆるゆる歩けるぐらいにはなったが、たいしてよくならない。

知り合いに紹介されたのが、鍼灸師だった。当時の鍼灸師は、かなりいかがわしいイメージだったが、とにかく上手だというので、そこへ行った。

カワイさんという、おれより少しトシ下、団塊の世代ぐらいの女性だった。地下鉄丸の内線の東高円寺駅から南へむかう路地を入って、古いモルタル二階建てのアパート、その一階のイチバン奥の一日中日が当たらないような部屋が、「診療所」だった。

うーむ、いかにも、いかがわしい鍼灸師らしいたたずまいだなあ、と思いながら入った。玄関すぐの四畳半ばかりの台所にソファーとイスを置いて待合室。その奥、6畳の間にベッドがあった。うーむ、なんだか、いかがわしい。しかし、カワイさんは、明るいかわいい女性だった。その薄暗いアパートは母上の持ち物なので、まだ渋谷や新宿に開業できないからと、そこでやっているのだった。

カワイさんも、やはりこれは坐骨神経痛だといった。冷えたのと重い荷物などで神経に負担がかかり圧迫されたのが原因でしょうと説明し、針と灸をやってくれた。これがまあ、じつに気持よいのだな。で、1時間近くだったと思うが、おわったら、なんと、ふつうに、苦痛をかんじずに歩けるのだ。

ほんと不思議だったが、4、5日は毎日かよい、そのあと一週間に一回だったかな、1ヵ月ほどで、完全になおった。でも、カワイさんは、用心しないと、また出ますよ、といった。そのとおり、5年ほどあと、また懲りずに、エートあれはどこの山だったかな、たしかまた後立山の鹿島槍だったかスキーではなかったと思うが、とにかく雪があり冷たい風が吹いて重い荷物を担いで、また神経痛が出てしまった。そのときはすぐカワイさんのところへ行った。

しばらくして、カワイさんから渋谷に開業した知らせが届いたが、あいにくこちらは症状が出ることなく、そのままになっている。

ま、思い出したことを思い出したときに書いた。ということですね。

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2007/01/29

いづみやでオヤジ文化の継承を誓う

きのうのいづみや大宮店は、日曜日ワザワザ出かけてきた好きもの5人の男たちで、飲み放題をタップリ飲んだ。昨年秋、新婚早々岩手に転勤単身赴任した男も、ちょうど東京に来た帰り、顔を出してくださった。年齢も20台、30台、40台それにおれ60台というぐあいに少人数ながら多彩。

太っ腹のいづみやの社長には出血大サービスしていただき、ありがとうございました。それになによりうれしかったのは、いづみやの、まだ20代のイケメン後継者とゆっくり飲めたことだ。若い後継者があとを継ぐと、女客を意識した白っぽい店に変わってしまうのではないか、というのがワレワレの懸念だったが、このイケメン後継者は、みかけとはちがい「いえ、そんなことありません」とキッパリ、なかなか頼もしく、ワレワレは大喜びだった。

オヤジ文化はオヤジに価値があるというより人間くさいがゆえに継承されなければならないのだ。いまやオヤジっぽい店が減っていくなか、いづみやはオヤジ文化の殿堂として貴重な存在になりつつある。その継承を、ワレワレは酔いでボロボロになりながら誓うのであった。女たちも男にチヤホヤされてよろこんでいないで、「女」という肩書をはずし一人の人間として、人間くさいオヤジ文化に目覚めるべきだろう。とか、酔ってわけわからなくなるのだった。

いつどうやって帰ってきたか、覚えてない。
ひどい二日酔いというか、きのうはついに二日酔いが回復しないまま行った。最初の生ビールをのむとき悪寒がはしるぐらいひどかったが、飲むうちに元気になり、今日は三日酔い状態だ。三日酔いぐらいになると、なんだかヤケクソな気分だ。クソッ、今夜も飲んでやるか。ってな。

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2007/01/28

きのうは祖師谷きょうは大宮

きのうは世田谷の祖師谷大蔵、ヤスヨ女王様をめぐる4人の男たちという顔ぶれで、しこたま飲んだ。ふりかえってみたら、毎年新年会やらサッカー観戦やらやってきていたのに、昨年は一度も顔あわせすることがなかった。そのあいだにヤスヨは大腸ガンがみつかって手術。タロウは鬱病で通院(妻も鬱病ひきこもり)、ヨシダの若ハゲはすすみもしなければ回復もせず、ヒロシの過激偏食はかわらずどこかしら悪い。それに40歳前後は、シゴトというか会社組織の重圧も大きく、肉体と精神の曲がり角のようだ。周辺には自殺者もけっこういるらしい。その曲がり角をこえれば、おれぐらいのトシまでは生きられるだろう。生きたからっていいかどうかはべつだが。まあ、とにかく飲もうじゃねえかって、飲みすぎた。頭痛胸焼け、二日酔い気味だが、今夜の大宮いづみやにそなえて、これから体調を整えるのだ。

今夜、いづみやで飲もうぜ。


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2007/01/27

明日28日、大宮いづみやで、大雑把にだらしなく飲もうは、どうなるか?

2007/01/23「大宮いづみや 1月28日」に告知した、28日は明日になった。この間、そこに書いてあるように、いづみやの社長と調整しなくてはならないことがあったのだが、お互いになかなか連絡とれず、きのうの夜中にやっとメールが届いた。

見ると、こんなアンバイで、ああもう、おれのメールと話がかみあっていないよ、もうどんどんご自分で決められて楽しむ体制にある。いづみやの社長は、ほんとオモシロイひとなのだ。で、えーい、もうめんどうだ、なんだっていい、おことばに甘えて、飲みまくろう。ってことにしました。

ここにあるように、このブログの告知を見た方(もちろんお連れも含むのでしょう)のみ参加可能で、酒は飲み放題ってことですね。

「先生の頁を見た方のみの参加です。何人見えるか楽しみです。場所は先日申し上げましたとおり、第二支店二階、日時は28日(日)午後六時より九時までです。とりあえず六時まで本店か第二支店の1階で飲んで待って頂き、六時になったら第二支店の二階に移動して、お金の心配しないで浴びるほど飲んで頂く。つまみの必要な方は、申し訳ないけれど各自券売機で買ってください。どのような方が見えるか、どんな進行になるか、筋書きのないドラマを見るようで楽しみです。」

メールの最後には、こんな顔文字などが……還暦60歳の社長が。、

 「(+_+)   \(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?」

あんた、酔ってメールしているのか。 ま、こちらも同じだが。

それで、いづみやが初めての方は、イチオウ一階の店内の雰囲気もごらんになられたほうがよいのではないかと思うのですが、それは各自別料金です。おれは5時45分に、第二支店の一階奥のテーブルにいるようにします。そして6時ごろ2階へ移動するようにします。

おれは、濃紺のVネックセーターの下に、目立つようにオレンジのシャツを着ています。
人相は、こんなアンアバイね……クリック地獄

会場は、こちらのページの写真、向かって左です。右は本店ね。……クリック地獄

おれもいづみやの社長も、かなり大雑把な人間なので、キッチリした運営などする気は、はなからありません。なりゆきまかせ、だらしなく飲む。そのことについては、先の2007/01/23「大宮いづみや 1月28日」に、だらしない参加心得がありますから、必ず読んで、ご納得のうえ参加ください。

しかし、はて、ほんとに、何人集まるのだろうか? 
少なければ少ないままに、多ければ多いなりに……楽しもう。
ああ、いづみやの社長は、「うちはギャルなんて近づけない店がコンセプトだ」なーんて云ってますが、女性の参加も大歓迎です。

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そういえば「賞味期限」切れモンダイだが

あいかわらず、マスコミの連中は賞味期限だか消費期限モンダイにくらいついて「不正」「隠蔽」追及の得点かせぎをしているようだ。ま、この連中の自らの「不正」「隠蔽」体質は問わないことにしよう。

そういう記事を見ながら、思い出したことがある。探したら、それは、2005/09/03「怒るド田舎の食料品店」に書いた。……クリック地獄

これは、賞味期限が切れたものを売っている、ある食料品店のことだが、客が文句をいうと、その文句をいう客を怒鳴りつけるという話だ。背景には、切ない過疎モンダイがある。それだけに「生きる」ということ「食べる」ということが、このように切実にあらわれる。

この人たちは、食育基本法の「食育」などで、食品廃棄物を少なくする地味な努力を続けていると表彰されるべきだろうが、そういうことはない。「正義」と「公明」なマスコミが出てくれば叩かれる対象だろう。もちろん、もともと、こういう話を、マスコミは追いかけない。

いったい、マスコミは、なにをどうしようというのか。ま、センセーショナルな話題で、目先の得点が稼げればよいのだ。

なにかに「特化」したグルメは、じつに詳細な知識を所有している。そういう人の数は、かつてとくらべたら、ずいぶん増えたにちがいない。全体的に食品に関する知識は、「向上」とはいえないかもしれないが、「増大」はしているはずだ。にもかかわらず、ほとんどは趣味であって生活ではないがゆえに、生活には生かされない。

それはちょうど、人権問題の集会などに参加して差別などを糾弾して人権擁護に詳しい人間になったつもりでも、自らのうちや自らの生活のなかにある他人を理解する力の成長とは関係ないのに似ている。

趣味は趣味にすぎない。なぜなら、そこには生きるというテーマがないからだ。なるほど趣味で料理を始めておもしろくなり、日々の生活の料理が楽しくなるということはある。だが、実際やってみたことのあるひとはわかるだろうが、趣味と生活では、料理のテーマや原理が根本的にちがう。人権問題だって、自分が「生きる」一個の人間として、おなじ「生きる」一個の人間を理解することから出発しなければ、ただただ問題を追及し糾弾するだけの知識でおわる。そういうものと、生活のための創造の知識はちがう。

ひとの知らない細かい知識を知って、どうだお前はこういうことを知っているか知らないだろう、ぐらいの話は、生活ではない。

……って、はて、なにを書こうとしたか。ようするに、「不正」だの「隠蔽」だのと騒ぐ、その基本に、自ら「生きる」ということにおいて自分の生活をどうしたいかという、テーマなりビジョンはあるのか、ということなのだな。

怒るド田舎の食料品店のほうが、「生きる」ということにおいて、はるかに人間らしさの真実があると思う。

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2007/01/26

幻堂特製豪華幻づくし箱詰め太陽酒造赤石たれくち

Maborosi1幻の日々も第4コーナーをまわり最後の直線コースをひたはしるおれだが、きのうのこと、明石の方面から、ダンボール箱が宅急便で届いた。なにごとゾとあけると、おおおおおっ、これは、すべて幻の……画像クリック地獄拡大。

酒は年間約100石しか造らない(造れない?)、まさに幻の酒、太陽酒造のしぼりたて生原酒「赤石たれくち」。それを囲むように、幻堂出版シゴトの幻の本、いや、塩、いや、タオル……。すべては簡単に手に入らない幻づくしの数々。おおっ、幻よ、ありがとう、まぼろしよ。

そしてまた今日も、まぼろしか。

とりあえず、ここまで、つづく。以下、加筆。

って、まぼろしどころか、現実はめんどうなことだらけ。でも、めんどうがあるから現実はオモシロイのだな。しかし、たいがいシゴトとなるとカネがからむめんどうだから、どうもやはりめんどうはめんどうだ。

それなら、さっそくと幻堂から届いた、まぼろしの太陽酒造「赤石たれくち」を飲む。「この酒は、しぼりたての生酒です」と説明がある。NHK「男の食彩」8月号の記事のコピーもあって、「創業は江戸末期。今の蔵は明治二〇年のもの」。昔ながらの甑(こしき)の釜やもろみを搾る木の槽(ふね)など、「機械」ではなく「道具」をつかう。だから多くは造れない。「醸造量じゃ約100石。17キロリットルというのは一升瓶で一万本足らずか」こういう小さな酒蔵が、まだがんばっているのだが。

とにかく、常温で飲む。香りはほんのりで控え目、ムムッ大丈夫かと思いながら、口にふくむ。おっ、おっ、これは、アレだ、スノッブなグルメがよく口にするホメことば、アレだ。「とてもお上品で繊細なお味です」。ってことですましてはおもしろくないな。原酒とはおもえない、やさしい口あたり。ほんのりと甘い、たよりないぐらい甘い、かよわい甘さ、うーんそよ風の甘さと云おうか、のどごしはするするする岩肌を滑る清水のごとく、そして口の中にコクのあじわいがシッカリひろがる。すばらしい。

「赤石」は明石の古名だそうだ。その明石の幻堂なかのさんが、「明石では、一番旨い酒のよーに思います」とおっしゃるだけある。

しかし、おれ、こんなに旨い酒、タダでもらっていいのだろうか、こちらからお返しできるようなものは何もないが……はて、タダほどコワイものはないというが……ま、いっか、好きなものは遠慮なくいただくという生き方にしたがい、グイグイ飲む。うめえ、ありがとうなかのさん。

酒のほかに、本や記念タオル、それから、モンゴルの塩まで。コレをなめながら酒を飲めということなんだろうね、どうもお気遣いありがとうございます。

うれしいことに、入手困難な気になる新刊も同梱されていた。昨年12月発行の、西野空男さん編集の漫画雑誌「架空」一号(呉市・セミ書房)は、特集・まどの一哉、ほか、みつもと義春(三本美治)、木下竜一、甲野酉、吐血ミンチ、堀道広、川崎ゆきお、斉藤種魚、倉光純、高木ひとし、炭子部山貝十、権藤晋、全ゐ国許、西野空男の面々。ナンザツで知っているひとも多いね。

これは新しいこの20日発行の、「実験アキレス」14号(編集発行・勝由子)、それから昨年10月発行の「風のラジオ」八号(尼崎市・猫町西村発行)。

これから読む見るのです。そのまえに、酒を飲んでしまうのです。

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2007/01/25

みそやみそ、「酒とつまみ」9号発売大絶賛

きのうは、「みそ健康づくり委員会」というところでしゃべった。インタビュー記事としてまとめられるが、プレス用なので一般には出回らない。味噌蔵は1100以上あるのだそうだ、種類にしたら何千。思っていた以上あるので、興味がわいた。
23日に『酒とつまみ』9号が届いた。見たら、「瀬尾幸子のつまみ塾」は「今夜すぐに作れる味噌つまみ」。簡単に作れてうまそうなのばかり、酒がすすみそう。『酒とつまみ』9号は一段とオモシロイ。

もくじは「酒とつまみ」のブログにある……クリック地獄

あまりにオモシロイので、23日の夜酔った勢いでブログに下記のコメントをした。……

本日、9号拝受、ありがとうございます。いやあ、おもしろい。これなら季刊といいながら、年刊でも文句はいえない。いやあ、おもしろい。
酔客万来の松尾貴史さん、おもしろい。巻頭特集「酔っぱらいの記憶なき失態」のバカども。ま、おれだってお仲間だろうが、おもしろい。そして、読者の「下ネタはほどほどに」「読者も増えてきたんだから、そろそろ下品なネタは控えたほうが」という投稿に対する、編集部の回答、おもしろい。いい根性みせている。そうでなきゃな。応援するかいがあるってもんだ。
んで、なんだか大法螺堂提供の幻堂出版の広告におれの名前が出ているんだが。おれは、そんなに長生きするのだろうか?と思った。
ああ、ま、酔っています。とりあえず、お礼。1年に1回でもいいから、こういう雑誌をつくり続けてくれ。

……以上。ま、ぜひごらんくださいよ。

いま発売中の『散歩の達人』2月号の第一特集は、「経堂、千歳船橋、祖師ヶ谷大蔵、成城学園」という長いタイトルで、当ブログに何度も登場の「太田尻家」が載っている。ぜひ、ごらんを。松木英子さんの連載は、「バレンタインにはステキな夜を(ぷっ)」というサブがついて「テーブルコーディネートですって in 成城」も毒のきいたおもしろさがますます冴えわたる。 「この本に一本」には、『読みキャベ』(さくらいよしえ著、交通新聞社)が紹介されている。酔って醜態さらし「ふがいない嫌悪感を覚え、深く反省することになる」「酔っ払いの心の痛みを緩和してくれるクスリ!!」ということで、とても気になる。どうやら、そんな酔っ払いを続けられるクスリのようなのだ。『酒とつまみ』とあわせて読もう。

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2007/01/23

大宮いづみや 1月28日

チト体調悪く気分低下。めずらしく気力がイマイチ状態。めったにないことなので、もしかするとこれを「ウツ」というのだろうか、とその気分にひたっている。ま、飲みすぎて、こうなった、というだけか。きのうは泥酔混沌脱力放心呆け状態だったが、本日ようやく少し快方へ。

とりあえず日にちが近づいているので、2007/01/09「ぐっ、いづみやから悪い誘惑」の飲み会の件、27日か28日と告知したまま調整に手間取り、ようやっと28日6時からに決まりました。

場所は大宮駅東口前のいづみや第二支店の1階奥。
こちらのページの写真、向かって左です。右は本店ね。……クリック地獄

あとひとつ、いづみやさんと調整とれていないことがあって、いづみやさんからご好意で「いづみやファン、大集合。還暦祝い、飲み放題」と題して、1000円で飲み放題をやってもよいという提案があって、ただいま調整中です。これだと会場は、第二支店の2階になります。

おれとしては、1月28日は、今回は例の60周年サービスだけで十分で、2月24日の土曜日にコレをやって、二度うまい思いをしたいという提案をしています。

とにかく、どちらにせよ、1月28日は午後6時から大宮いづみやにいます。とくにオフ会というわけでもなく、とくに知人を厚遇する趣旨でもなく、ナントナクだらしなく集まってだらしなく飲んで9時ごろでオシマイ、というかんじでいこうと思っています。注文も各自勝手で、清算も各自。話しに加わってもよし、話したくなければ、ジッと黙って飲むだけでもよし。自分の好みを押し付けてはいけない。だらしなく、だらしなく。これ、大衆食の会からのやり方。

当日、トツゼンの参加でもよいですが、できましたらだいたいの人数把握をしておきたいので、コメント欄か、下記メールアドレスにメールをいただきたく思います。

ed_meshi@■yahoo.co.jp
■は削除し、タイトルに「いづみや」と明記してください。文は、「参加希望」と短めに。

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2007/01/21

身も蓋もないことだらけ

不二家の製品と納豆がスーパーの棚から消えた。

消えた事情はちがうが、どちらもマスコミが火元だ。いや、不二家については、不二家が火元という見方もあるだろうが、消費期限だか賞味期限だか、それを過ぎた材料を使用したモンダイを拡散させ、会社の「不正」や「隠蔽」の体質の追及へと火を広げたのはマスコミであり、そして不二家の製品は安全かどうかにかかわらず店頭から撤去され消えたのだ。

だけど、どうしても不二家の体質が悪質なのだということに着地しようというマスコミの姿勢は露骨に見える。古いネタまでひっくりかえして弱みさがし。そうでなければ火を拡散させた自分たちの「正しさ」を証明できない。いや、ま、「不二家」という大文字が紙面や画面に出るだけで得点があがるという、じつに身も蓋もない得点かせぎの可能性が高い。とにかく、この報道ぶりを、たとえば、以前から人のイノチを奪うほどの欠陥車をつくり販売し続けている三菱に対する報道ぶりとくらべてみよう。まったく身も蓋もない「差別待遇」ではないだろうか。

納豆については、放送内容にモンダイがあったことが明らかになり、それはいまや素早くテレビ局の「不正」や「隠蔽」の体質の追及ではなく、孫請けの責任になろうとしているが、とにかく、まったく身も蓋もないありさまだ。不二家のことだって、ブログの炎上のように、身も蓋もないありさまだ。

そして、その火元を見て大騒ぎしたのは、確証はないが、おなじ種類の人たちではないかと想像する。

不二家の製品や納豆が消えたスーパーの店頭で、ボウゼンというより、戦慄がはしった。恐ろしいことだ。こうも簡単に大勢がなびいてしまう。ま、じつは、「食育」についても、それをかんじている。

納豆でやせるなんていう話は、そんなにうまい話があるかというような内容で、それを信じるなんて、商品取引屋や株屋のコレは絶対あがります儲かりますというような話を鵜呑みにするようなものだった(まっとうなら、商品取引屋や株屋でも、そういう言い方はしないだろう)。そのていどのことまで判断つかなくなっている。

不二家の件については、すでに2007/01/17「え~、とりあえず不二家の件」に書いた。

たしかに、この世の現実は、身も蓋もないことだらけなのだ。

ようするに、身も蓋もない現実を、どう生きるかだ。そんなにごリッパなキレイゴトな回答はないということについて、もっと覚悟が必要なのではないかと思う。その覚悟がなければ、誰かが言うからではなく、自分自身の根拠や自分の判断力をシッカリさせることはできないのではないか。

クソまみれの真実を、自分の手をよごしてクソのなかに手をつっこみ、掴むことをしたい。

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2007/01/20

それで好食「たらし焼き」なのだが

2007/01/03「神棚の下で好食「たらし焼き」に感動す」での引用を、もう一度。埼玉県秩父市のちちぶ農業協同組合が発行する広報誌「やまなみ」11月号に載っていたものだ。以下引用……

私の家では、夕飯を食べる前にお茶を飲みますが、その時にたらし焼きを作って食べます。たらし焼きはうどん粉と重曹と砂糖を入れてフライパンで焼きます。とてもおいしいですよ。

……引用おわり。これだけの短い文章。

これに、おれは「なんとまあ、このいとも単純な「たらし焼き」とお茶で、とてもうれしそうに、おいしそうに、夕飯に入る様子が目に浮かぶ。これはまさに、今年のコンセプト「好食」の風景ではないかと思った。」と書いた。

原始の食欲とは、かならずしも大飲大食ということではなく、このようなことであると、「たらし焼き」と「どんどん焼き」について書こうと思ったのだが、今日は、きのうカネを紛失したショックのうえに、日にちをカンチガイして予定をたて、いろいろ調整やらややこしいことになっているので、とりあえず、こんなところで。

きのうのところに、ネタにした旅館の料理について、どういうふうに春夏秋冬の見立ての料理になっているかを、ちょっとだけだが加筆した。

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2007/01/19

そして切ない「様式美」と「型」

大酒飲みたい!といわれたら、頼もしいやつカワイイやつと思う。野田のやよい食堂の大盛り食いたいといわれたら、おれは食い切れねえけど、ニンゲンそうじゃなきゃなあと思う。

しかし、鯨飲馬食を礼賛しようというのではない。好食のこころは、そこにあるわけじゃないだろう。「原始の食欲」といってきたが、ようするに「一個の生き物として」の食欲、食べることが好きである、ということがカンジンのようだ。

1月14日の「ファンダメンタルな好食」に引用した、内田春菊さんは、「一個の生き物として人を愛したい」と、そこで書いているが、「人」を「食べること」に置きかえてもよいかも知れない。

「うまいもの好き」や「食べ好き」を宣言しているひとは、いまや都会の炭酸ガスのように充満しているが、そこに「一個の生き物として」という生物性あるいは野性が、どれだけあるだろうか。

たとえば、ハシの上げ下げから持ち方で人を評価したり食育したりしようという人たちは、どうだろうか。かなりちがうように思う。彼らは食べることをちっとも愛していないのではないかと思うことがある。少なくとも「一個の生き物として」食べることが好きなのではない。だから生き物とはちがうハズの人間ということで、ハシにこだわる。手で食べることを軽蔑する。ハシの持ち方がちがうと、まるで悪人であるかのように非難し直させようとする。あのハットリ先生をはじめ、食をショーバイにしている「専門家」には、そういう人たちが少なからずいるようだ。

またたとえば、グルメや情報通のみなさんがよく口にする「珠玉」や「究極」だが、これはある様式や型があって、その美の極致や緻密さにおいて「珠玉」や「究極」でありうるわけで、「珠玉」だの「究極」だのという人たちには、「一個の生き物として」の感覚などないのではないかと思うし、実際書いているものを見ても、そういうかんじがすることがおおい。

彼らは、きのうの種村さんの言である「食べるという営みにまつわる根源的な原始性が、一寸の隙もなく完成された様式美のなかに閉じ込められて、家畜のように飼いならされているのだという抑圧の感情」などない。権威主義の、じつに鈍感な人たちというかんじがしないでもない。

立ち飲みなど、野性味がほんらいだと思うし、そこにおける「作法」というのも、野性味を殺すのではなく、それを包括し生き生きとさせる力強さであった。しかし、近年なにやら気どった紳士淑女のみなさまの「社交」の様式や型として異質の場になりつつある。

ま、そういうことは、まだこれから書いていくとして、「日本料理は目で食わせる」とのシタリ顔がまかりとおっているわけだが、そんなことでシタリ顔しているようじゃ、とても原始の食欲どころじゃない。

今日は、そのことを書こうと思っていたのだが、前置きが長くなってしまった。とりあえず、画像の説明だけしておく。

Ryouri画像クリック地獄拡大は以前のものだが、ある古い格式の高い温泉旅館の夕食だ。

競争激化のこんにち、古い格式の高い旅館でも、とんでもなく安く泊まれることがある。で、そういうときでも、様式美と型でがんじがらめの旅館には、想像力や創造力がはたらく余地はないようだ。特別サービスの安い宿泊代だから夕食は味噌汁にイモの煮ころがしかナス味噌炒め、あとハムカツでいいじゃないの、それを旅館のプロらしくうまくつくって出しましょうよ、とはならない。そうは、なれないのだ。「プロらしく」となったとたん、格式ある旅館、料理長の「様式美」と「型」が、むくむく昂然と頭をもたげる。

このときの、切なさは、それに留まらなかった。おそらく、これまでのその旅館の様式美と型は、イチオウそれに適した「厳選された素材」といったもので成り立っていたのだろう。しかし、競争激化のこんにち、おまけに特別サービスの安い宿泊客だ、原価の高いものから「厳選」するわけにはいかない。それなら、そうそう、いまは食育基本法のおかげで地産地消なのよ、あんなものウチの懐石料理にはつかえないと、これまで使ってこなかったけど、このさい安上がりの地産地消の「厳選」でいきましょう。

ということかどうか。とにかく、地元でとれた有機野菜を使ったというのをウリにした懐石料理がこれなのだ。「お献立」には料理長の名前まで入っていた。そして、エピゴーネンのカタマリのような様式美と型に、地元産食材は、みるも無残に閉じこめられていた。

見ておわかりだろうか。中央部分は春夏秋冬の見立てになっている。手前の小船の容器、箸付は薄緑色の料理で、春。その上、四角の容器は口替りで煮物、秋。その左が、留鉢で酢の物だから、夏のイメージだろう。右端は、造りであるが、かまくらで冬。というぐあい。その季節感の基準は一貫してない。春は、料理は銀杏豆腐だから、薄緑で春を表現したつもりだろう。夏は、ワサビ菜をつかう酢の物だからだろうか。秋は、紅葉麩、といったあんばい。ようするにご都合主義のこじつけだ。

これなら、そのまま芋とコンニャクと地鶏を煮てくれただけのほうがよかったのになあ、なんでこんな春夏秋冬花鳥風月にこだわらなきゃいけないのよ。もしかして有機野菜の料理法を知らないんじゃないの、これじゃ捨てるところがたくさん出るでしょう、と皮肉のイッパツも言いたくなる切なさ。

これで料理長は春夏秋冬を食膳に整えて得意かもしれないが、こっちはそうはいかない。皿のなかのモミジなんか見たかねえよ、こんなケチくせえ麩で秋かよ。刺身をかまくらに盛り付けるの、こんなのうれしくないよ、そっちが大量に料理しておく都合だろ。なんだいこの地鶏はみるかげもなく薄切りにされてチマチマ巻細工にして、そんな手わざなど興味ないし、ああ、こっちの食欲を、そうやってあんたらのエピゴーネンに誘導し閉じこめようというのか。そうはいかんぞ、こちとら、大衆食堂で原始の食欲を鍛えているのだ。

などとブツブツ、しかしけっきょく、原始の食欲はみなたいらげ、何となく満たされない気持を酒にたくし大いに呑み、酔ってしまえばどうでもよく、あとで酒代がかかったなあ、これがやつらの手だったかと。

それにしても切ない、「様式美」と「型」にとらわれたプロの料理。
「一個の生き物として」というのは、人間社会がつくってきた型や観念にはめられない自由なこころ、ってことだろうか。

人間がつくりだしてきたコトやモノ。
その根源には、原始の欲望があるはずだが。
いまや携帯電話を持っているかどうかで、
諸事情やこころまで影響うけることになった。
携帯もっているかどうかで、「愛」まで左右されかねない。
携帯もってないですからね~。あなたは、ポイよ。
携帯で好食のこころが左右されることは、あるだろうか?
たとえば食事中の携帯の呼び出し…。
クソクラエ、携帯。

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2007/01/18

原始の食欲に目覚めよ

さて、それで、1月15日「女暴君的好食記」の続きだ。その好食のこころはなにか。

種村季弘さんは、「天下に名のある美食家でも、私は大食いの記録をちゃんと残している人しか信用したくない」と書く。

また「ヴァルター・ベンヤミンというドイツの詩人批評家に「とれたての無花果(いちじく)」(1930年)と題するエッセイがあって、こんなことを言っている」と書く。以下引用の引用……

ほどほどの食事しかしない人間は、食べるということをこれまでに一度も経験したことがなく、中途半端な食べ方しかしてこなかったのである。そんなことでは、まあ食事のたのしみ位は心得られても、食うことへのやみくもな欲望にはお目に掛れない。これは食欲の平坦な街道を外れて、ガツガツむさぼり啖(くら)うというあの原始の森に踏み迷う邪道なのだ。

……引用おわり。

おお、むさぼり喰らう、わが原始の食欲よ、邪道の食欲よ。

そういや、おれは大衆食堂のめし採集のつもりで行ったのに、出てきためしをみると、鼻息荒くはしを持ち、さっさと食べてしまうことが圧倒的におおい。しばらく何も考えずに食べ、一段落してから、そうだ写真を撮らなくてはならないのだったと気がつく。しかしそのときすでに遅く、とても写真に撮れる状態ではないモノが目の前にある。こうして何軒食べ歩いても、写真がたまらない。

また、たとえば鍋料理など、各人の小分けになっていない料理のことだ。それらが出てくると、猛然と闘争心が先にたち、しばらくものも言わずに手と口だけを動かし続ける。すると相手は鍋をさして、「ねえ、牡蠣はいくつずつたべていいの」とか牽制してくるが、知るかそんなこと早い者勝ちだ、というぐあい。

あれらはみな、原始の食欲の発露か。そしてとどまることを知らない大飲大食こそ好食のこころなのか。そうかそうか。

と思いたいところだが、どうも、もっと深い意味がありそうだ。

その原始の咆哮ともいえる食欲を、しばりあげ「型」にはめこむ「様式美」こそがモンダイなのだ。「型」「様式美」によって、押し込められた原始の食欲に覚醒しなくてはならない、目覚めよ原始の食欲、解き放て原始の食欲、発情せよ万国の食欲、これこそ好食のこころのようだ。

京都の祇園なんぞで、横丁のお茶漬屋に入り、花鳥風月を盛り込んで「食膳全体が名園さながらの食べられる風景となって」いるを前にすると「舌から胃の腑までが一つの厳密な様式美のなかにひしひしと囲い込まれてゆく実感が快い」。と、種村さんが書くようなことは、おれだって、祇園ではやったことはないが、何度か味わった。

ま、最初は、自分が、そこらの野良犬とちがう、厚い座布団のうえで暮す座敷犬になったようで心地よいものだ。が、しかし、やがて、寺の伽藍やワビサビな茶室に座らされているような窮屈をおぼえ、そしてわが自由な野性の野良犬性に気づき雄たけびをあげたくなるのだな。

つまり種村さんは書く。「もっとも、どうかすると長居が過ぎて、関東育ちの人間には、あまりにも手の混みすぎた庭園風のたたずまいが鼻についてくることもないではない。すると食べるという営みにまつわる根源的な原始性が、一寸の隙もなく完成された様式美のなかに閉じ込められて、家畜のように飼いならされているのだという抑圧の感情がやにわにもくもくひろがりはじめて」

そういうことなのだ。野山をかけめぐる自由闊達な原始の食欲を、チマチマとした箱庭のような花鳥風月にとじこめてしまおうという様式美。それは、また、チマチマとしているがゆえに、瑣末な能書きで成り立っている。こんにち、がんらいは原始の食欲の大衆に支えられ野趣に富んでいたラーメンや蕎麦や立ち飲みまで、「珠玉」だの「究極」だのと能書きたれるあれである。

こうして、大衆食の分野まで、原始の欲望は閉塞に追い込まれた。野良犬大衆が、ちっとばかり消費の余裕ができたぐらいで、座敷犬になった気分でいる、その自らの錯覚が閉塞を、より強いものにしている。

ある「型」や「様式美」からすれば、そこにおさまらない自由奔放であるがゆえに邪道の食欲に、人間の真実としての生と食があるのだ。

と、一気に書き下ろしたあたりで、今日はオシマイ。
好食のこころは、原始の食欲にあり、ってところか。
大飲大食、やりましょうね。

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2007/01/17

え~、とりあえず不二家の件

このココログは昨日の15時ごろから今日の15時ごろまでメンテナンスがありまして、ログインできませんでした。

不二家の件について、メールをいただいていますが、1月13日「正義なんかクソクラエ」が不二家の件に関する、おれの「見解」というか「気分」です。もう何度も書く気はありません。

消費期限や賞味期限の表示があるものでも、ひごろから、自分の眼や鼻や舌でたしかめ、表示に関係なく使えるかどうかや使い方を判断することでしょう。それが「食育」というもので、メーカーがおかしなことをやっている信用ならないから「選食力」をつけなくてはならない、なーんていう「食育」じゃ、とても解決になりませんよ。不二家以外のメーカーは、全部アンシンなのでしょうか。不二家を叩けば、ほかは安心だという保障はありますか。ついこのあいだまで、不二家だって安心していたのじゃないですか。そういう根拠は、なんだったのですか。誰かが言うからではなく、自分自身の根拠や自分の判断力をシッカリさせることでしょう。

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2007/01/16

形而上と形而下をふらふら

きのは、ひさしぶりに東京さ行って、ひさしぶりに映画を見た。1月4日「『こほろぎ嬢』お正月公開でも見に行くか」に紹介した『こほろぎ嬢』。これが想像していた以上によかった。尾崎翠の原作そして山崎邦紀さんの脚本とあれば、形而上の観念の世界にちがいない。それに山崎さんのブログからは、モノローグつまり朗読と映像で見せるものだと想像ついた。こういうたぐいは、おれのような形而下的人間には、だいたい制作者の詩的な自己陶酔が鼻につくだけで退屈きわまりないのが多い。そう思いながら臨んだ。

しかし、考えてみれば、監督はエロ映画を300本撮ったという浜野佐知さん、そして自らエロ&薔薇監督をやりながら、浜野組の脚本を担当してきた山崎さんのコンビだ。安い制作費で客をイカせるコツはよく心得ているのだ。それが全編、鳥取ロケによる制作ということだろう。

映像があきない。美しい海の風景山の風景、それは風と空気の風景でもあるが、そして舞台になる建造物は文化財も含め明治期のもの、よくこれだけ揃えたというかんじ。あとで山崎さんに聞いたら、ロケより、その前のロケハンのほうが時間がかかったという。そうだろう。そして、そのような風土的抒情的映像のあいだに、滑稽あるいはグロな、あるいはエロチシズムを感じさせる映像がテキトウに入る。

見ながら朗読のような会話、あるいは会話のような朗読に身をゆだねる。脚本の言葉の選び方もつながりもいい。「おもかげをわすれかねつつ こころかなしきときは ひとりあゆみて おもひを 野に捨てよ」「心たのしくて苦き詩を求め 心が苦しければたのしき夢を追う」「地上が苦しければ地下にたのしき夢を追う」そして「人間の肉眼といふものは 宇宙の中に数かぎりなく在るいろんな眼のうちの わずか一つの眼にすぎないぢゃないか」「豚の眼になってみたらどうだ」。このあたりがテーマ的なことではないかと鑑賞した。上映時間の1時間半は、退屈などころか、あっという間にすぎてしまった。

おわって、監督と山崎さんに感想をのべる。映画のほめかたなど知らないから、「私は形而下にしか興味がないような男だけど、退屈しないで寝ないですんだ」というと監督と山崎さんは「そういう言い方があるか」ギャハハハと3人で笑い、山崎さんとおれはチョイと一杯へ。3時半からの回を見て、映画館を出たのは5時半ちかくだった。

おれは、このあと中野で6時半待ち合わせ。しかし山崎さんとの飲みながらの話はおもしろく、もう遅刻覚悟で興にのる。映画のなかの一場面に柿を食うところがあるのだが、そのことから食べることとエロチシズムのことへ話がはずみ、「けっきょく、孤独を肯定するか否定するかなのだよね」とおれがいい山崎さんが「そうなんだよ」ってあたりで、もうこれ以上遅れられないから中野へ。

中野はやどやゲストハウスの新年会のようなものだが、経営する会社WGの役員体制が変わったというか実態に即して整ったし、難しい問題もあって飲みかつ複雑な話が重なる。あいだに、見てきたばかりの映画の話もはさみながら。というのも、当面難問の相手は、金融屋、不動産屋、地上げ屋、チンピラ、貪欲家主やその代理人、表面仲良し影では裏切り……といった形而下のカタマリのような連中なのだ。しかし、ひとはみな違う肉眼ちがう心を持ち孤独だから、カネに頼ったり、仲間をつくりそして裏切ったりする、ビジネスというのは形而下のことのようだが、じつは孤独という形而上の観念が相手だ。もともと、貨幣そのものが、国家的幻想を背景に成り立つものだし。

そしてだから、ビジネスに有用でない孤独は、「役に立たない」と切り捨てられる。ところが十人十色の人間には、魂レベルのコミュニケーションはできても、リアルなビジネスレベルのコミュニケーションなどできないひとは、いくらでもいる。それがオチコボレやヒキコモリというふうに、あるいは精神病者や性格欠陥者のように見られる。しかし人間はみな精神病者であり性格欠陥者なのだ。

そうそう映画の最後のほうで、こほろぎ嬢がネジリパンを食べる、棒状のネジリパンを女の口が咥えるのだ、そして彼女は、役に立つことは何もしていないできないけどパンは食べなくてはならない、というようなことを思う。その場面は、孤独と食欲と性欲を思わせる。

とかとか、とりとめないが、時間がなくなったので、ここでトツゼン中断。
あとで、書き足す、かもしれない。

この「孤独」については、2007/01/12「飲食の楽しさの格別な意味」にも関係すると思うのだが。孤独というとマイナスイメージあるいはネガティブにみられる傾向があるが、そんなことはない、自然な姿のような気がする。

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2007/01/15

女暴君的好食記

惜しくも2004年に71歳意で逝去された種村季弘(たねむら・すえひろ)さんは、その著書『食物漫遊記』(ちくま文庫)で、武田百合子さんの映画随想を「女暴君的好食記」と呼んでいる。

以下引用……

 彼女の映画随想を一読して見給え。人は彼女の映画鑑賞の度毎に映画館に持ち込まれる、肉マン、アイスクリーム、サキイカの類の物量的厖大さにただただ圧倒されるであろう。そして見よ、ローマの闘技場の特等席の女貴族もさながらに、彼女が肉マンを一かぶり頬張る間に、豪華絢爛オールカラーのスクリーンの上では毎度一ダースもの人間が全身蜂の巣となり血まみれになって、さっさとあの世へ送られてゆくのである。
 こんな女暴君的好食記の前に引き出されれば、大抵の美食エッセイはたちまちのうちに顔色を失う。

……引用おわり。

種村さんは「好食」について書いているわけではないが、ここから種村さんがイメージしていたであろう好食を感じられる。そしてこの本の全般を通じて、たくみなレトリックの背後に、この武田百合子的好食が種村さんの好みであったのではないかと読みとれなくはないのだ。

いまの引用は、最初の「序章 嘘ばっかり」にあるのだが、冒頭こういう書き出しだ。「よだれが出るほどうまそうな物をチラつかせながら、あれがうまかった、これはこたえられない、と能書きを並べた食通随筆を読まされていると、正直のところ、あんまりいい気持はしない。」

そしてこんなことも言っている。「相手方に美意識なり教養なりがみっしり詰っていて、こちらが空っけつでは、一方的に相手側の言辞がこちらの真空に流れ込んできてしまう。これはお説教。もしもあちらさんの内容(なかみ)が悪質だったらどうします。」と。種村さんのように美学と教養がみっしり詰まったような人に書かれると、痛烈だねえ。

2章「一品盛りの味」では、「ちなみに食通随筆で妙に利いた風なのに鼻白むのは、食べることにつきまとうこの原始感覚を避けて通る傾向があるからである。細部に凝るのはいいとして、あまりにも味覚のニュアンスに沈溺して、食うというまるごとの欲望から離れてしまうので、頽廃のにおいが醸されてくる。」

グルメとくに「ラーメン」とか「蕎麦」とかナントカ料理といった特定の料理に傾斜したグルメに、こうした傾向は強いように思うが、「食うというまるごとの欲望」このあたりに、好食の一つの気持がありはしないかと思うのだね。

いま急いで書いているので、こんなところで。あとで書き加えるなど、あるかも知れない。

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2007/01/14

ファンダメンタルな好食

12月29日「本気で考える「好食」」から1月8日「「好食」の方法」、9日「おいしい灯り」、11日「ミステリアスのほうがオモシロイ」、12日「飲食の楽しさの格別な意味」と、思いつきでコンセプトにした「好食」の「概論」のようなものをアレコレ考えていて、今日もそれがらみの覚え書きだ。

ナンダロウアヤシゲの日記の1月12日に「第1回「全国〈古本女子〉サミット」を開催します」というのがあって、その案内がある。

文面を見て、古本よお前もか、と笑ってしまった。べつに否定的な意味ではない。すべてはこうなるのであり、こうなった先になにがあるかということに、じつは好食は関係するのだ。

とにかく、その冒頭。引用……

いま、古本の世界では、買う側も売る側も女性が元気だ。
彼女たちはこれまでの常識にとらわれず、自分がいいと思ったものを選び、
見捨てられていたものに新たな価値をつくりだしている。

……引用おわり

こういう表現は、過去20年間ぐらい、活性化されたあらゆるマーケティングの分野で使われてきた。いわば使い古しだが、まだこういう表現が通じる分野があったというのはオモシロイ。古本業界の体質が、きわめて男社会的で古いものだったのだろう。そして、いまだ男社会的だから、この表現は、読んでわかるとおり、男的視点を感じさせる。「男」だから「女」だからといっているうちは、それ自体が男社会の視点なのだ。

たしか手元にあるはずで見つからないが、1986年サンマーク出版から発売のベストセラー、『女がわからないでメシが食えるか―女性市場・女性心理のつかみ方 』で、ほぼこういうことは言い尽くされていた。そして女が集まるところ、男も集まる、ということも。著者の桜井秀勲さんは、誌名を忘れたが、『微笑』など売れた女性週刊誌の編集長でならした方だ。

この流れは60年代の女性のパート進出に始まると、おれは思うのだが、そのことはいまは置いておくとしょう。モンダイは、しかし、日本がいわゆる「国際社会」の指摘を受け入れて、またそれを受け入れざるを得ない国内状況もあって、男女共同参画社会基本法を制定し、男女共同参画社会を法的に理念としたのは、やっと1999年だった。

共同参画というが、あくまでも男が仕掛人である状態は、そう変わっていない。つまり女は、男の足下、社会的に低い位置におかれていたのだが、男の手のひらの上の自由ぐらいは法的にチャンスが拡大したということだろうか。たしかに手のひらに持ち上げられることで喜ぶ女はいるかもしれないし、持ち上げられないよりはマシということもあるかもしれないが、共同参画の根本は、男や女としてではなく、マズ「ひとりの人間として」であるはずだ。

そして実態としては、その法に関係なく、男女のありようは「ひとりの人間として」、性の面も含めいろいろに変わってきたし、変わっている。それを「乱れ」というわけだ。これは、食の「乱れ」についても関係する。男女のありようの変化は、「家庭」や「家族」といったもののありようの変化でもあるし。

「乱れ」なのか「変化」なのかということもあるが、こういうときには、根本から考えてみようという機運が生まれる。それが、食より男女のありようのほうに先行してあらわれたように思う。たとえば毎日新聞は1990年代のなかごろから、その変わる男女のありようについて、何回か特集を組んでいた。じつは、記事にはなっていないが、そのための取材を受けたことがある。それから、たとえば、内田春菊さんの、そのタイトルも『ファンダメンタル』だ。

『ファンダメンタル』1993年のあとがきで、内田春菊さんは、こう書いている。引用……

「ファンダメンタル」の一番大きなテーマは、
「社会の中でどーとかこーとか、ということをできる限り抜きにして、人を好きになる気持を考えてみたい」
であった。というか私は、人を好きになるときにはそうでなきゃ困るだろう?といつも思っている。だから、お金持ちでなきゃ関わりたくないとか、有名な人だから寝たいとか、そういう人がいるらしいというのがようわからん。話としては聞いていても、知り合いにはいないし、心の淋しい気の毒な人だとしか思えない。たとえばある仕事で有名な憧れの人と出会おうとする。いくら嬉しくても、その人をひとりの人間として大切に考えることを忘れてはいけない。ひとりの人間として考えるということは、年上だの若いだの、強いだの弱いだの、貧乏だの金持ちだのというような勝手な物差しを当てて決め付けたりしないことだ。でないと愛しあえない。

……引用おわり。

食についてもおなじようなことがいえるのではないだろうか。有名店じゃないといけないとか、有名ブランドじゃないといけないとか、老舗や産地ブランドやら、店やモノのランクづけ、つまりは料理の「肩書」や「地位」や「年齢」などど、そういうものにふりまわされるのではなく、「ひとりの人間として」飲食そのものを好きになる気持を考えてみたい。ってことなんだな「好食」は。

『ファンダメンタル』のような漫画と、グルメ漫画の落差は、あまりにも大きい。日本の性欲と食欲をめぐる文化のちがいなのかも知れないが。

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2007/01/13

正義なんかクソクラエ

料理の腕がよいジャズマンでケチなジャズバーをやっている男から、ひさしぶりにメールが入った。

あけましておめでとうございます。
いやなに、不二家の賞味期限切れ食材使用のニュースを見ながら、グレイト・エンテツならなんと言うかなあ~と思ったもんで…………大会社のスーパー衛生管理の落とし穴と言うものの、賞味期限なんて単なる目安、要は保存する技術。自分の目と鼻に誇りを持って現場担当者が判断したとしたら、ひどく彼が不憫に思えるのですが……………

という内容。

以前なら、こういうニュースにはすぐコメントしていたが、もう最近はもうウンザリで、BSE問題あたりから、いちいち何かいう気がしなくなった。一日の厳密な差を問題にして騒ぐ連中は、「賞味期限」と「消費期限」のちがいなどや、その根拠の妥当性などを、その一日の差を問題にする重みをもって厳密に知っているわけでもなく、ただひたすら騒ぎ、そして生産中止、当事者の誰かさんの生活を追いつめ、あるいは会社を倒産などに追い込むなどして、「溜飲」を下げておわるだけだろう。(この件、「賞味期限」と「消費期限」、報道によって違いがあったような気がするが)

いままた鳥インフルが問題になっている。かつての浅田のときには、まだブログになっていなかった、右下サイドバーにある「発作なメシゴト日記」になんども書いた。もうあのときで、ウンザリだった。あの大騒ぎの結果は、なんだったのか。大騒ぎした人たちは、そこまでちゃんと見極めたのだろうか。浅田の誰かさんを自殺に追い込み、倒産させ「溜飲」をさげて、それでよいはずはない。雪印のときも同じ。BSEも同じ。実態も根拠も、よくわからない、だが不安だし気にくわないから騒ぎ、「溜飲」をさげておわる。その気にくわないうちには、「正義」のマスコミ、国民の耳であり声であると自称するマスコミへの対応が悪かったウソをついた、ということも含まれている。

なるほど、ウソをつくのはいけない、法律を守らないのもいけない、たしかにそうだ。そして、しかし、実態も根拠もよくわからないうちにバカ騒ぎをして、当事者を悪者にしたてあげ追い込んでいけないという、倫理も法律もない。さらにいえば、だれもが自分が個人的に大切な何かを守るためにウソをつかなくてはいけないこともあるだろう、法律だって万全ではない。一本調子にはいかないから、そこにコミュニケーションが必要になる。しかし、そのコミュニケーションのメディアが一本調子の「正義」では、展望が開けない。

けっきょく、企業に対しては「初心にかえれ」という空念仏が正義づらしておわる。そしてまたおなじような問題が起きる。何回も、こういう問題がおきるのは、もしかしたら自分たちの判断の根拠や騒ぎ方の対応もオカシイのではないかと自省することもない。「正義はワレにあり」だけがデカイつらし肩をそびやかし大声をあげ溜飲を下げているだけだ。なにも改善されない。この世は、そういうクソッタレなのだ。

正義なんかいらない。だれかの弱みにしゃぶりついて溜飲をさげたいとは思わない。クソまみれの真実を、自分の手をよごしてクソのなかに手をつっこみ、そこにある真実を掴むことをしたい。正義なんか、かっこ悪いよ。好き嫌いをいえば、賞味期限や消費期限ていどの正義や、マスコミていどの正義など、おれは大嫌いなのだ。クソクラエ。

自分が個人的に大切にしたい何かのために、暴力団まがいの脅迫をかんじさせるマスコミに、その場かぎりのウソをついた当事者がいたとしても、理解できるし、同情したい。

というわけで、今回のこの件に関しては、ちゃんとニュースを追いかけることもしてないのです。おわかりいただけたかな。

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2007/01/12

飲食の楽しさの格別な意味

きのうの「ミステリアスなほうがオモシロイ」に関連。茂木健一郎さんの『食のクオリア』を見ていたら、こんな記述があった。引用……

もともと、私たちはお互いが何を感じているかということは決して知ることができない。私たち一人一人の感じていることの質感(クオリア)を、お互いに決して知ることができない。私たちは、誰も、自分が「ご飯の味」だと思っているものが、他の人にとっても同じであるということを確認したことはない。チョコレートの甘さや、トンカツをほおばる時の感覚が、自分にとってそうであるように他人にも感じられていると確かめる術はないのである。

……引用おわり。

そして、このようにも述べている。「しかし、食べることがもたらす幸せな気分には、お互いに感応することができる。「一緒に食べる」ということは、お互いの幸せな気分が壁をこえて行き交い、感応し、増幅するプロセスである」「だからこそ、一緒に食べることで、私たちは一人で食べるのでは決して到達し得ない至福の高みへと昇ることができるのである」

これは、全体の文脈としては、茂木さんの専門の脳科学からの話だから、現実には、食文化の社会環境や家庭環境も関係するだろう。つまり、そういう場として飲食を好む文化や習慣があったかどうか。

日本には、それが不足していたのではないか。これまでの日本の支配的な飲食は、別の感覚やこころを持った個の独立した存在を認め、一緒に飲食をすることで「お互いの幸せな気分が壁をこえて行き交い、感応し、増幅するプロセス」として飲食を楽しむことはマレだった。

でも、「食べることがもたらす幸せな気分」は多くの人たちが知ってきた。それは、ようするに貧乏で食糧も十分ではなかったから、食べることそのものが困難をともない貴重だったことによるだろう。「貧しく飢えたこころ」が飲食の幸せをもたらしていたのだ。

飲食を好み楽しむ文化や習慣そのものが存在したわけじゃない。感覚やこころが異なる個の独立した存在を認めたがらない全体主義的な環境が長いあいだ支配的で、いまでも「一心同体」を美徳とするような風潮はある。そこでは飲食は、社会の、集団の、あるいは家族の、「一心同体」の儀式にすぎない。実際に、戦前はもちろん、戦後の給食においても、つい最近まで、楽しい会話をしながら食事をするのではなく、黙々と食事をすますことがヨシとされていた。そして、それに対して、たまーにの「無礼講」の宴会が成り立っていた。

そんなことだから、高度経済成長とやらで食品産業や外食産業が成長し、生活もローンという借金がやりやすくなり少しばかり余裕が生まれると、「貧しく飢えたこころ」のまま飲食に飛びつくことになった。そして、飲食を生活のなかの楽しさ幸せとする文化や習慣を育てるのではなく、先を競っての食べ歩き飲み歩きへと怒涛の集団行動でなびいた。それが「B級」ということばで安酒場や安定食までのみこんでいる「グルメ」という現象だ。

それは、独立した個の存在のためではなく、「一心同体」の趣味を味わう、ランク付けはまさにそのためのものだと思うが、つまりおなじところへ行きおなじものを食べ飲み、その知りえた制覇した「量」を競い満足する。少しでも多くの食べものを渇望していた、飢えた貧しいこころのままなのだ。

ってことで今年は、これはまあ、難しくいうと「仮説」なのだが、「好食」というコンセプトをおいてみたのであるよ。これが、考えれば、考えるほど、よいのだなあ。と、自画自讃。だいたいね、好きじゃなければ、大事にしないよ。楽しい食事が好きになることで、楽しい食事を大事にするようになる。そういうコンセプトなのだ。

それはまた「孤独」を認めることでもあるのだな。つまり、孤独な食事は、飲食が好きになりさえすれば、それはそれで楽しみようがある、ってこと。その楽しみを知っているもの同士の一緒の飲食の方が、より楽しみが深いのではないか。「一人で食べるのでは決して到達し得ない至福の高み」へ昇れるのではないか。と、これも「仮説」ね。しかし、「孤食」や「個食」を槍玉にあげて、できもしない「家族団らん」を主張するより現実的ではないだろうか。

「むかしはよかった」ではなく、好食を知らない、ガツガツしたむかしの飢えた貧しいこころがカタチをかえのさばっていることが問題なのだ。切ない。

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