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2007/01/19

そして切ない「様式美」と「型」

大酒飲みたい!といわれたら、頼もしいやつカワイイやつと思う。野田のやよい食堂の大盛り食いたいといわれたら、おれは食い切れねえけど、ニンゲンそうじゃなきゃなあと思う。

しかし、鯨飲馬食を礼賛しようというのではない。好食のこころは、そこにあるわけじゃないだろう。「原始の食欲」といってきたが、ようするに「一個の生き物として」の食欲、食べることが好きである、ということがカンジンのようだ。

1月14日の「ファンダメンタルな好食」に引用した、内田春菊さんは、「一個の生き物として人を愛したい」と、そこで書いているが、「人」を「食べること」に置きかえてもよいかも知れない。

「うまいもの好き」や「食べ好き」を宣言しているひとは、いまや都会の炭酸ガスのように充満しているが、そこに「一個の生き物として」という生物性あるいは野性が、どれだけあるだろうか。

たとえば、ハシの上げ下げから持ち方で人を評価したり食育したりしようという人たちは、どうだろうか。かなりちがうように思う。彼らは食べることをちっとも愛していないのではないかと思うことがある。少なくとも「一個の生き物として」食べることが好きなのではない。だから生き物とはちがうハズの人間ということで、ハシにこだわる。手で食べることを軽蔑する。ハシの持ち方がちがうと、まるで悪人であるかのように非難し直させようとする。あのハットリ先生をはじめ、食をショーバイにしている「専門家」には、そういう人たちが少なからずいるようだ。

またたとえば、グルメや情報通のみなさんがよく口にする「珠玉」や「究極」だが、これはある様式や型があって、その美の極致や緻密さにおいて「珠玉」や「究極」でありうるわけで、「珠玉」だの「究極」だのという人たちには、「一個の生き物として」の感覚などないのではないかと思うし、実際書いているものを見ても、そういうかんじがすることがおおい。

彼らは、きのうの種村さんの言である「食べるという営みにまつわる根源的な原始性が、一寸の隙もなく完成された様式美のなかに閉じ込められて、家畜のように飼いならされているのだという抑圧の感情」などない。権威主義の、じつに鈍感な人たちというかんじがしないでもない。

立ち飲みなど、野性味がほんらいだと思うし、そこにおける「作法」というのも、野性味を殺すのではなく、それを包括し生き生きとさせる力強さであった。しかし、近年なにやら気どった紳士淑女のみなさまの「社交」の様式や型として異質の場になりつつある。

ま、そういうことは、まだこれから書いていくとして、「日本料理は目で食わせる」とのシタリ顔がまかりとおっているわけだが、そんなことでシタリ顔しているようじゃ、とても原始の食欲どころじゃない。

今日は、そのことを書こうと思っていたのだが、前置きが長くなってしまった。とりあえず、画像の説明だけしておく。

Ryouri画像クリック地獄拡大は以前のものだが、ある古い格式の高い温泉旅館の夕食だ。

競争激化のこんにち、古い格式の高い旅館でも、とんでもなく安く泊まれることがある。で、そういうときでも、様式美と型でがんじがらめの旅館には、想像力や創造力がはたらく余地はないようだ。特別サービスの安い宿泊代だから夕食は味噌汁にイモの煮ころがしかナス味噌炒め、あとハムカツでいいじゃないの、それを旅館のプロらしくうまくつくって出しましょうよ、とはならない。そうは、なれないのだ。「プロらしく」となったとたん、格式ある旅館、料理長の「様式美」と「型」が、むくむく昂然と頭をもたげる。

このときの、切なさは、それに留まらなかった。おそらく、これまでのその旅館の様式美と型は、イチオウそれに適した「厳選された素材」といったもので成り立っていたのだろう。しかし、競争激化のこんにち、おまけに特別サービスの安い宿泊客だ、原価の高いものから「厳選」するわけにはいかない。それなら、そうそう、いまは食育基本法のおかげで地産地消なのよ、あんなものウチの懐石料理にはつかえないと、これまで使ってこなかったけど、このさい安上がりの地産地消の「厳選」でいきましょう。

ということかどうか。とにかく、地元でとれた有機野菜を使ったというのをウリにした懐石料理がこれなのだ。「お献立」には料理長の名前まで入っていた。そして、エピゴーネンのカタマリのような様式美と型に、地元産食材は、みるも無残に閉じこめられていた。

見ておわかりだろうか。中央部分は春夏秋冬の見立てになっている。手前の小船の容器、箸付は薄緑色の料理で、春。その上、四角の容器は口替りで煮物、秋。その左が、留鉢で酢の物だから、夏のイメージだろう。右端は、造りであるが、かまくらで冬。というぐあい。その季節感の基準は一貫してない。春は、料理は銀杏豆腐だから、薄緑で春を表現したつもりだろう。夏は、ワサビ菜をつかう酢の物だからだろうか。秋は、紅葉麩、といったあんばい。ようするにご都合主義のこじつけだ。

これなら、そのまま芋とコンニャクと地鶏を煮てくれただけのほうがよかったのになあ、なんでこんな春夏秋冬花鳥風月にこだわらなきゃいけないのよ。もしかして有機野菜の料理法を知らないんじゃないの、これじゃ捨てるところがたくさん出るでしょう、と皮肉のイッパツも言いたくなる切なさ。

これで料理長は春夏秋冬を食膳に整えて得意かもしれないが、こっちはそうはいかない。皿のなかのモミジなんか見たかねえよ、こんなケチくせえ麩で秋かよ。刺身をかまくらに盛り付けるの、こんなのうれしくないよ、そっちが大量に料理しておく都合だろ。なんだいこの地鶏はみるかげもなく薄切りにされてチマチマ巻細工にして、そんな手わざなど興味ないし、ああ、こっちの食欲を、そうやってあんたらのエピゴーネンに誘導し閉じこめようというのか。そうはいかんぞ、こちとら、大衆食堂で原始の食欲を鍛えているのだ。

などとブツブツ、しかしけっきょく、原始の食欲はみなたいらげ、何となく満たされない気持を酒にたくし大いに呑み、酔ってしまえばどうでもよく、あとで酒代がかかったなあ、これがやつらの手だったかと。

それにしても切ない、「様式美」と「型」にとらわれたプロの料理。
「一個の生き物として」というのは、人間社会がつくってきた型や観念にはめられない自由なこころ、ってことだろうか。

人間がつくりだしてきたコトやモノ。
その根源には、原始の欲望があるはずだが。
いまや携帯電話を持っているかどうかで、
諸事情やこころまで影響うけることになった。
携帯もっているかどうかで、「愛」まで左右されかねない。
携帯もってないですからね~。あなたは、ポイよ。
携帯で好食のこころが左右されることは、あるだろうか?
たとえば食事中の携帯の呼び出し…。
クソクラエ、携帯。

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