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2007/01/11

ミステリアスなほうがオモシロイ

飲食の本など読んでいると、「楽しい語らいや」「心が通じ合った喜び」なんていう言い方が出てくる。飲食の「効果」としては、そういうことがあるというのだ。

楽しい語らいは、その場に表れるので、そうだろうとは思うが、「心が通じ合った喜び」ってのは、かなり主観的恣意的でアヤシイものだと思う。

歌にも、おなじ花を見て美しいといったこころとこころがいまはもう通じない、だのなんだのグチをこぼし嘆くような歌詞があったように思うが、そりゃ最初から、おなじ花を見て美しいといったぐらいでこころとこころが通じたと思うほうがおかしいよ。なんてあげ足をとりたくなるのだが。けっこう人間はセンチメンタルにできているってことだ。

一緒に飲食しているとき、「この料理、おいしいね」といい、相手が同意しても、コイツ一体どういうふうにおいしいんだろう、おれとおなじ感覚なのか、だいたいおれの前でクチャクチャやっている、その食べ方はおれとちがうぞ、おれはもっとゆっくり噛んでいる、その上でうまいと言っているのだ、そのうまさがおまえにはわかるか。なーんて、いちゃもんつけたくなっても、それでは「楽しい語らい」が失せるだろうから、コイツの脳のなかはどうなっているのかなあと考えなら、そのことを口にするのは遠慮する。

が、しかし、すぐ前で食べているやつが、口のなかや脳みそで、実際どう感じているのだろうかということを考えていると、じつにミステリアスでオモシロイ。人間というのは、抱き合っていても、相手のこころのなかはわからないとかいうらしいが、そんな男と女のこころなんていうミミッチイことをこえて、食べているときはミステリアスでオモシロイ。

「心が通じ合った喜び」なんてイイカゲンなものでたいしたことはない。相手のこころなんか、しょせんよくわからないからこそ、一緒の食事はおもしろいのだ。クチャクチャ食べながら、そのミステリアスを考える。考えながら食べていると、相手に、「ねえ私の話を聞いているの」といわれ、アワテテわれにかえる。

以前そのようなことがあって、それがある大衆食堂でのことだ。で、おれが顔をあげると、大衆食堂のテーブルは小さいから、相手の顔がすぐ目の前だ。シゴトの打ち合わせで初対面の彼女は、サンマか何かを口にいれていたはずで、その美しい口元がすぐ目の前で動き、「私の話を聞いていますか」とかいうから、口のなかが露骨に見えてしまうのだ。いや、いちいち口に手をあててシャベルお上品な方より、それでよいのだが。そのとき、その口のなかでカタチを失った食べ物を見て、それで彼女はイマどんな味覚を感じているのか想像すらつかないのだ、すぐ目の前にいるのに、しみじみ人間はミステリアスな存在だなあと思った。ということを思い出したので書いておく。

飲食で「心が通じ合った喜び」なんて幻想だし、幻想でよいのだ。誰にもわからない自分ひとりの味覚が存在する。誰にもわからない自分ひとりのこころが存在するように。「一心同体」ほど気持わるいものはない。

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