包みめし「その料理ドルマ」紳士をあざわらう
きょうは5時ごろから呑んで、酔った。酔っているぞ。あ、いま約10時か、22時ね。
メールをあけたら、先日の池袋呑みに参加のオッタチドウフさんからメールがあって、そのとき話題になった阿佐ヶ谷の食堂の画像が添付であった。その最後に「追伸:ギリシャの料理は「ドルマ」とかいったような気がします」とある。
さきほどの「ためいき小説『夢果つる街』と米(コメ)」をご覧になってから、メールをいただいたものらしい。ありがとうございます。
そのブドウの葉に米などを包んだ料理は、「ドルマ」と呼ぶようだ。さっそくグーグルで検索したらあった。あてにならないウィキペディアにもあった。……クリック地獄
なるほど、そのようだ。ほかをみたら、ブドウの葉の塩漬は輸入品を、ネット通販でも買える。この葉に包んだめし料理も、いろいろあるようだ。ようするに、さきほども書いたように、わりとアチコチにある原初的な土俗的な米料理なのだろう。
なので、「汁かけめし」というのがあるから、これらを「包みめし」と呼んだらどうかとおもった。日本や中国のチマキなどもそうだし、ザ大衆食のサイトに紹介した「つつっこ」もそうだ。まだまだいろいろあるのだ。これらは、おそらく文明的な料理器具がじゅうぶんではなかった、「料理の起源」に近いころの姿を色濃く残しているようにおもう。
ところで話はかわる。タイトルに「その料理ドルマ」と書いた。ギリシャ料理にちなみ、ギリシャの作家カザンザキスによる『その男ゾルバ』をまねた。むかしのひとなら知っているだろう、アンソニー・クイーンがゾルバを演じる映画をみた、原作を読んだ。
ゾルバの野性、自由に飲食や歌や踊りや女と楽しむ、イギリス的紳士を模範にした「文明」からみれば「野蛮」にすぎない。荒っぽいがあたたくやさしい、その輝き、そしてインテリ紳士のインチキさは、原作のほうが強烈だった。
ま、そういう読み方をするおれは、「紳士」というものが虫唾がはしるほど嫌いなのだ。まったく「紳士」のみなさんには、お世話になりながら、ずいぶん嫌なおもいや勉強をさせてもらった。
さきほどの『夢果つる街』では、主人公ラポワント警部補も荒っぽくあたたかくやさしい男だが、とくに荒っぽさが、上司の「紳士」からすれば自分の地位つまり「平和と安全」をおびやかす、怖い存在だ。
「紳士」とは、「紳士」であることによって出世し、なにがしかの「小権力」や「権力」を手にしている。おもてむきは、あたたかさとかやさしさや、だれとでも親しい友達を「演出」する能力などをそなえ、たくみに自分の「小権力」や「権力」を利用する。
たいがいの「紳士」に仕事をいただく立場のひとは(「紳士」は、そういうばあいでも、発注受注や上下の関係ではなく、おなじ「仕事仲間」をおもわせる演出能力をそなえているのだが)、「紳士」ぶりにアンシンし、身を捧げるように仕事をし、あるいは本当に身をささげる。
そのへんは『夢果つる街』でも、皮肉タップリに書かれている。ラポワントは、そういう上司にむかって、「くたばっちまえ(ファックユー)」とやる。が、しかし現実は、「紳士」やそれとつるんでいるやつらに仕事は占有されていく。ラポワントも、「紳士」に、クビをいいわたされるのだ。
いや、また、酔って、あやしい雲行きになってきた。このあいだ、酔っ払って、「紳士」に過剰に反応し、チトやりすぎたようだ。怖がられ嫌われたばかりだ。そうやって、このトシになっても生きる世間を狭くしている。
おれの「紳士」嫌いは筋金入りだ。おれが小さいころ、オヤジは、「紳士」たちにヒドイめにあった。それまでオヤジは40歳ぐらいだったとおもうが、酒もタバコもやらないマジメな男だった。そういうマジメも、「紳士」にうまくやられるもとだったかもしれない。
それはもう、ゾッとするようなデキゴトで、おれがおとなになって考えてもオヤジは、よく耐えたとおもう。よくそこを乗り越えて生きたとおもう。おれならタダじゃおかないよ。と、ま、いまさらそんなこといってもはじまらないが、「紳士」は虫唾がはしるほど嫌いなのだ。「紳士」ということばをきいただけで、肉体の奥深いところから黒いドロロンが噴出するのだ。そして、けっきょく、そんなことをいつまでもひきずって生きていると、「紳士」やそれとつるむ連中に、はじかれていくしかないのだろう。「ためいき」
「紳士淑女」のみなさん、すみません、こんなワタクシを、ひろいこころでお許しください。ヨッパライのタワゴトです。けつ喰らえ、「紳士」野郎。
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