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2007/03/31

ハードボイルドな

「愛・蔵太の少し調べて書く日記」の「2007-03-31■[拾いもの]ブックマーク・RSSから(2007/03/31)あとでぼくのブックマークに入れたり入れなかったりするものの候補です。」…クリック地獄

というなかに、当ブログの「あとをひく〔つるかめ〕の感傷」があって、つぎのようなコメントがついている。

ハードボイルドぶりを感じさせるテキストです。

このあいだから書いている「ためいき体」にも関係するが、ここ半年ばかり、自分で自分の「ハードボイルドぶり」を思うことがある。『大衆食堂の研究』でも、それが底流にあったと思う。

感傷に流されるのは嫌いだが、情動や感情は大切にしたいと思っている。どちらかといえば、おれは情動的感情的なほうだろう。でなければ、3回も結婚しなかった、かもしれない。こんなに酒を飲まなかった、かもしれない。こんなに売れない本を書かなかった、かもしれない。こんなに貧乏じゃなかった、かもしれない。

ところが近年の、とくに首都東京をモデルにしたメインカルチャーの世間一般では、愛情から情をぬいた愛、友情から情をぬいた友、人情から情をぬいた人、心情から情をぬいた心はもてはやされるが、情動や感情は疎んじられる傾向が強い。「情」はわずらわしいものとして、「情の深さ」などは、ときには否定され警戒され怖がられる。

そして、割り切りよく要領よく生きながら、人間関係の稀薄化を嘆き、「下町」の大衆食堂や大衆酒場に「人情」を味わったぐらいで、自分を慰める。

そういう傾向すべてが気にくわないといえば気にくわない。「何も望まず、何も求めないほうがいい」といいながら、望み求め、感情をひきずる。それを、『大衆食堂の研究』のころは、自分の「田舎者性」つまり東京に同化しきれなかったものがもつ「田舎者性」と見立てた。

どのみち、そういうことでは、どマイナーな存在にならざるをえない。

しかし、その東京のメインカルチャー、つまり日本の中央としてのメインカルチャーはなんであるかというモンダイが残る。

多くのひとたちが受け入れ、空気を吸うように吸って生きているメインカルチャー。それは、先日も書いたが、強力なタテ社会であるところのシゴトのつながり、「業界社会」がつくりあげるカルチャー「業界文化」「企業文化」というふうに考えることができるだろう。

ごくフツウにあるべきヨコの人間関係は、壊滅的に業界や企業の活動にのみこまれる。すべては業界や企業に還元される。直接的には上司や仕事のため。感情まで、そこにからめとられる。食事すら、ままならない。グルメもそうだが、趣味すら業界と癒着を強めている。「ソフト」な装いのもとに計算高く、「合理」かつ「冷静」というより「冷淡」な構造。それらを「非情」とも「不条理」とも思わないですごす。業界的な生き方にすぎないことを、正しいよい人間の生き方であるかのように幻想あるいは錯覚する。

これは「業界文化」「企業文化」のありようのモンダイであると同時に、「貧しさ」やアイデンティティの未熟など、さまざまなことが関係するようだ。

こんな中では、感情を引きずって生きていると、なんだかハードボイルドな存在にならざるを得ない。ハードボイルドなんて読書の楽しみだけにしておけばよいのに、生き方にしてしまうとシンドイことになる。じつにカッコ悪い生き方である。周囲にも自分にも「ためいき」をつきながら生きるより仕方ない。

ところがですよ。雑誌『談』76号(たばこ総合研究センター[TASC]発行)の特集は「情動回路…感情、身体、管理」なのだが、「対談 河本英夫×十川幸司  情動回路…精神分析とシステム現象学から考える」で、河本さんは、こう述べている。……

「感情的になってはいけない」「「感情におぼれてはいけない」などの非難がましい言葉が感情にはまとわりついています。感情は劣った能力であり、感覚は高等な能力だという漠然とした価値観があります。ところが能力の進化史を考えてみるとどうもそうではない。
(略)
情動・感情は、進化の段階ではずっと遅れて現れる高等な能力であり、ある意味では余剰の能力に近い。

……引用おわり。「余剰の能力」を「文化的な能力」と読めば、情動的感情的であることは、文化的な存在である人間が進化の結果として保有する高等な能力なのだ。つまり、情動的感情的なワタクシは、ヒジョーに高等な文化的な存在なのでありますね。

ともあれ、情動や感情は、「理性」だの「論理」だの「合理」だの「知性」だの…と反対の否定しあう関係のものではない。むしろ相互に協調しあい並び立っていくものなのだ。情動や感情の否定は、さまざまな「ゆがみ」につながるような気がする。

もっとエモーショナルに。
とりわけ大衆食にリクツはいらない。ひたすら感情的に好きであればよいのだ。しかし知的なひとたちは、知性が邪魔するのか、それができないようだ。そういう知性には「エセ」という冠をかぶせる必要があるだろう。
ムッ、また、書かでものことを書いたか。

関連 2007/03/22「あとをひく〔つるかめ〕の感傷」…クリック地獄
    2007/03/23「「負」または「ハードボイルド」な散歩」…クリック地獄
    2006/11/18「情報を蹴散らして詩人の感性を取り戻せ」…クリック地獄

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