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2007/03/03

いつも酔っ払いのように

おれがあまりヒマなニンゲンじゃないということは、一日ほど寝てみるとわかる。けっこういろいろ日々やらなくてはいけないことがあるのだな。そのリズムが崩れると、もとにもどすのが、けっこう「心理的」に大変だ。誰かに急かされているような状況でなくても、やらなくてはいけないことはある。ヒマそうにみえても、けっこう忙しい。

あるところに大衆食堂がある、その食堂が「ナゼ」そこにあるかは、その食堂が「イツ」できたかより重要なことがおおい。とかく「イツ」が話題になりやすいが、それは年表のような歴史を歴史と信じてきた悪癖だ。

「ナゼ」が大事なのだ。「ナゼ」そこにその食堂が「発生」したのか「生まれた」のか。「ナゼ」そこにその食堂がありつづけたのか。その食堂がコンニチまで続いていなければ「イツ」も問題にならないのだから、「ナゼ」の重要さがわかるだろう。

そして、その「ナゼ」は、かならず地域社会や食堂のメニューや味覚やサービスなどに深い関係がある。

いや、ま、たとえば、このあいだから気になっている一つ。ある都心の大衆食堂の近くの路地を歩いていたら、ある料理のニオイがしたのだ。それは、とても久しぶりにかいだニオイで、しかもいまどき街中ではめったに料理のニオイがしなくなっているというのにだ。そのニオイが、なんの料理のニオイだったか、ナゼそこでニオイがしたのか、とても気になっている。それは、そこの大衆食堂の存在と無関係ではないような気がする。とても気になる。もう一度そこへ行ってみなくてはとおもう。

そういうことを考え調べていると、けっこう忙しいのだが、そんなことはヒマがあるからやっているんだろうとおもわれがちだ。とくに、ちかごろの情報さえ揃っていればよいという風潮のなかでは、こんな調べは、ほとんど必要ないし、それでも原稿は書ける。が、しかし、そこまで調べ考えて書くのと、そうでないのとでは、ちがいが、あきらかにでる。ただ、それは必ずしも、おおくの読者が求めていることではない。

食べ歩きだの飲み歩きだのという安直な趣味娯楽に群がる、おおくの読者は、そこまで求めてはいないし、情報的な要素以外は鑑賞の関心も力もない。というと言い過ぎかもしれないが。しょせん「食べる技術」の向上については関心がないし、「食べる」ということは情報であって文化ではない。

が、しかし、「文学者」や「文士」として評価された人たちが書くと、たちまち「文化」になってしまうんだなあ。これは、いま可能性を失い崩れつつある大新聞を頂点とする事大主義な「文芸」や「活字文化」や「読書階級」の結果だとおもうのだが。

ま、とにかく、おれだって、あまりヒマなニンゲンじゃない。とくにちかごろは、一緒に飲んだり遊んだりしてくれるオンナもいないし。あっ、そりゃ話がちがうな。

コメント欄に夜中に酔って書いて、シラフになって詫びをいれているひとがいる。酔って書くのも、シラフになって謝るのも自由だが、おれは別に気にしてはいない。

コメントは、おれが書く「本文」と一体で、このブログをつくっているとはおもうし、コメントを書けないブログなどはブログじゃないとおもっている。だから、ここでは酔って書いてもよいのだ。それがガラの悪い、コイツが書いていると、大衆食堂の「悪い客」のようだ。他の客に嫌がれるかも知れないということはあるだろう。そういうことが、このブログの雰囲気になり、コワイあるいはバカな酔っ払いのいるブログという印象を持たれるのも悪くないかもしれない。酔ったら寄れる大衆食堂のような存在もブログに必要だろうともおもう。

ようするに、またコレを持ち出すが、ここの運営方針もコレなのだ。

大衆食の会の希望 「楽しい力強い食事と料理」
大衆食の会の三大運営方針 「いいかげん大好き」「下品も悪くない」「バカ万歳」

ま、これでいくと、やはり楽しくないのはいけないね、力強さに欠けるのもいけないね。この裏をかえせば、オリコウそうな議論や能書きも、いけないね。酔って自分だけよい気分でまわりに迷惑をかけるのは、食堂や酒場の主人が嫌うところだが、それだって店によって幅がある。酔ったら、多少はハメをはずしたいし。

おれがコメントの相手をするかどうか、どういう相手のしかたをするかは、もちろんおれの自由で、どこかで賢い人たちがいっているように、コメントには必ず丁重にこたえるのがマナーだとは、おもっていない。愛想の悪い大衆食堂の主人だっているのだ。

酔ったときのことは、あれはワタシの本当の姿ではありません、カンベン忘れて許して、という話はよくある話だが、おれは、酔って正体を失っているときもシラフのときも、自分は自分であり、そのひとはそのひとだとおもっている。もちろん、カンベン忘れて許して、といわれたら、忘れたフリはするが。

酔うと、その人物の本当の姿があらわれる、なーんていうオリコウそうな話もあるが、そういうことではない。

ニンゲンは、自分についても他人についても、いつもカンチガイしている、ということなのだ。酔っている酔ってないなんか関係ないのだ、ある意味では、いつも正体不明の酔っ払いなのさ。

だから、「いいかげん大好き」「下品も悪くない」「バカ万歳」で、テキトウに楽しくやろうよ。

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コメント

ハジメ男さま、どーも、おひさしぶりです。
いつもよいところでご登場いただきありがとうございます。

ただ文章を読むだけじゃなく、
書き手の「心理」にまでふみこんだご推察をいただけるなんて、
光栄のいたり、ファン様様です。

とくにイヤなことがあったわけじゃないですが、
いや、イヤなことは、
東京の空気中の炭酸ガスのようなアンバイに充満していて、
いつも気にせず吸っては吐いているのですが、
体調が悪いときはノドにひっかかるのでしょうか、
軽くセキをしたぐらいのツモリです。

むしろ、これを書く直前まで、
藤沢周平さんの『夜の橋』(中公文庫)を読んでいましたから、
それで「一閃」がひらめいたのかもしれません。

>言語で渡世している人間を私は常々
>羨ましく、素敵に思っています。

このようなことをおっしゃると、
活字文化に巣くう事大主義者どもがますます調子にのるので、
ほどほどにお願い致します。
「言語で渡世している人間」などはロクデナシという、
むかしの田舎のヒャクショウのほうが正しい。

ま、ワタクシのばあい、ただの駄男ですので、
たまーに、一寸の駄男にも五分のタマシイなんて、
いらぬことに目覚めることもありますが、
長続きせず、ただ酒を飲んで怠惰にすごし、
怠惰こそ工夫の親とぬかしているていどです。

最近は糠くさいオンナはもてないようだけど、
糠くさいオトコはヒモでたべていけるぐらいもてるようで、
いい世の中になりました。
ワタクシも、もっとモテるはずなのだが……
はて、やはりトシか。

そのうち、どこかで一献。

投稿: エンテツ | 2007/03/04 08:57

遠藤様:

お久しぶりです。
遠藤ファンのハジメ男です。

敬愛をこめて、あえて言わしていただきますが、
駄文書き遠藤様のブログ文に切れ味が発揮されるとき、
それは、氏に何かいやなことがあった時…。

こんなときの遠藤様の一閃はやけにイカシテマス。

-「文学者」や「文士」として評価された人たちが書くと、
-たちまち「文化」になってしまうんだなあ。
-これは、いま可能性を失い崩れつつある大新聞を
-頂点とする事大主義な「文芸」や「活字文化」や
-「読書階級」の結果だとおもうのだが。

よいですなあ。

言語で渡世している人間を私は常々
羨ましく、素敵に思っています。
矜持と自嘲の配合に遊びはありましょうが、
立っているところに意識があれば、
あとは問題ありますまい。

「駄文書き」は親愛の情で。
遠藤様は誇り高きオトコであること、
お会いせずとも察しております。

いつか酒場で顔見知りになれるのでは、
と楽しみにしています。

追伸:それでも私は自炊派です。
内縁女のために糠漬けを作ったりする
ヒモっぷりです。

投稿: ハジメ男 | 2007/03/03 20:21

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