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2007/03/15

負の味覚

藤沢周平さんの初期の作品集に『又蔵の火』がある。おれが持っているのは文春文庫版だ。作者があとがきに、こう書いている。「全体としてみれば、どの作品にも否定し切れない暗さがあって、一種の基調となって底を流れている」「これは私の中に、書くことでしか表現できない暗い情念があって、作品は形こそ違え、いずれもその暗い情念が生み落としたものだからであろう」「読む人に勇気や生きる知恵をあたえたり、快活で明るい世界をひらいてみせる小説が正のロマンだとすれば、ここに集めた小説は負のロマンというしかない」

「話の主人公たちは、いずれも暗い宿命のようなものに背中を押され生き、あるいは死ぬ」そして、そういう彼らも、めしをたべる。しかし、そのめしをたべる場面も、明るくはない。「恐喝」に、こんな描写がある。引用……

「せっかくいい手職があったのに……」
 おたかの口調は愚痴っぽくなった。
「性根を入れ替えないと、いまに後戻りが利かなくなるよ」
「よけいなお世話だ」
 おかわりの汁椀をつき出しながら、竹二郎は言った。
「そうかい、そうかい」
 おたかは汁椀を引ったくると、卓袱台越しに竹二郎を睨んだ。
「そんなら勝手にするんだね。そのかわりおまえ、ひとの言うことが聞けないんなら、脚が痛いの、尻が痛いのと駆け込んでくるのもやめておくれ」
 おたかは手荒く椀を置いた。温めなおして塩辛いだけの汁が、卓袱台にこぼれた。

……引用おわり。
博打で身を持ち崩した竹二郎はケガをし、幼いころ親が死んで育ての親である伯父夫婦の家に転がり込む。そこには出戻りのおたかがいた。おたかと竹二郎は、「愛し合う」というには、あまりに一瞬で、はかなくおわるのだが。

ここで、アレッ、この江戸期に長屋の貧乏人が卓袱台ってことはないだろう、オカシイ。と、突っかかってはいけない。なんだか、卓袱台が似合ってしまう。

とにかく、この場面では即座に、「砂を噛むような味」が思い浮かぶ。これはもう「負の味覚」の代表的な表現ではないだろうか。

おれが10歳のころ離婚した両親は、よく夫婦喧嘩をして、ま、だから離婚したときは、子供ごころに、ああヤッパリねとおもい、さほどショックではなかったが。それぐらい、しょっちゅう喧嘩をしていた。新潟日報に連載の「43、田舎しるこ(03年1月6日)」にも書いたように、もう元旦早々からだったし、めしの最中でも喧嘩を始めることがあって、あれにはまいった。ただ、そのころの砂を噛むような記憶はない。ガキだったからか?

だけど、たしかにそのゴワゴワジャリジャリした感触を口の中に思い出せるのは、いつかその体験をしているのだ。あまりにも、貧乏、喧嘩、死に別れ、生き別れ、砂を噛むような場面が多すぎて、いつのことだったかわからない。

いつごろから日本人が、それを美徳とするようになったかしらないが、「白か黒か」をハッキリさせることを「正しい模範」とする傾向があるようにおもう。そのばあい「白=正」「黒=負」であり、黒は白によって容赦なく切り捨てられる対象だ。藤沢周平さんを「この頑固な暗さのために、私はある時期、賞には縁がないものと締めたことがある」といわしめたものでもある。正確にいえば、「白100%」が唯一正しいのであり、少々の黒がまじってもはねられる。

「1」か「0」の「デジタル思考」にもつながる。日本人のばあい、「デジタル社会」になってから、そういう美徳が支配的になったのではないようだ。近年よくいわれる「人間関係の希薄化」の根には、工業化や情報化の以前に、「白100%」が唯一正しいものとして、「白か黒か」をはっきりさせることを美徳とする、これはなんというのか思想というのか文化というのか、そういうものがあるようだ。

しかし現実は、圧倒的に黒まじりの「グレーゾーン」なのだ。そこで、もう一つ必要になる美徳が、その割り切れない現実を「白か黒か」で乗り切る「強さ」や「勝気」だ。

おなじ人間だからとあゆみよったりする余地はなく、いかなる失態も反省も「黒」と判定され許されない。そのような「厳しさ」「潔癖」が尊ばれる。そのように実行力のある「強さ」「勝気」も尊ばれる。おれの母親は鋭すぎるほど、そういう人間だった。

逆には、謝ったり、許したり、あゆみよったりがなかなかできない。そのように人間関係をつむぐことも、なかなか難しい。めしをくっている最中だって、「白=正」は「黒=負」を許さない。喧嘩しちゃうのだ。ま、それも顔をあわせているからだろうが。

こんにち的デジタル社会では、人間関係の行き違いや白黒は、もっと簡単に処理される。たとえば「もう逢いません」と、メールでおわりにすることもできる。それでもひきさがらずに、しつこくつきまとう「ストーカー」もいるかもしれないが。おれのように良識ある人間なら、そういうことはないだろう。ポキッと枝が折れる。

二人で食事しながら、わかれ話をし喧嘩をし、砂を噛むような味を覚える必要もないかわりに、ポキポキ枝を折るようにアッというデジタルな速度で人間関係はおわってしまう。そして、こころに残ったポキポキ折れた枝をみつめながら、一人で砂を噛みしめる。のかもしれない。それはそれで、また切ないことだろう。

……と書くと、おれは二人で飲食しながら、わかれ話をし喧嘩をし砂を噛むような味を覚えたにちがいないとおもわれるかもしれないが、そういう記憶もないのだ。うーむ、とりあえず、いつどこでそれを覚えたか思い出せない。

忘れないうちに。いつか書くが、大衆食堂というのは、「グレーゾーン」にある。そもそも「白100%」が唯一正しいという見方からすれば、ここはもうグレーゾーンのなにものでもない。しかし、なかでも、とりわけグレーゾーンの大衆食堂というのがある。そこでは、「白=正」と「黒=負」の両方をみわたせることがある。そして、ときどき、一人じっと砂を噛むような顔で食事をしている男もいないことはない。「人肌のぬくもり」をかんじる大衆食堂とは、そういうところであるようにおもう。屈託のないものが近寄るところではない。

折れた枝はもとにもどらないが、人間のアタマは枝のようにかたくはないのだから、もどることができる。はずなのだが、どうだろうか。おれなんか、すぐ謝ったり、許しちゃったり、あゆみよったりするのだが、そういうことだと、「キッパリ白黒派」からは、イイカゲンな人間とみなされる。しかも「キッパリ白黒派」は自分の非は寸分とも認めようとはしない、ひたすら「勝気」をとおそうとする。「ためいき」……と、ここまで書いて思い出したが、以前におなじような話を書いているような気がするぞ。ま、いいか。

ザ大衆食「大衆食堂の楽しみ方」を読んでない方は、ごらんください。……クリック地獄

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