骨の折れる面白さ
2007/03/03「いつも酔っ払いのように」にコメントをいただいている〔ハジメ男〕さんは、ザ大衆食の古い読者だ。ザ大衆食「大衆食者の食卓」の#16 2002年11月8日「ハジメ男@居所不明さん メール」が最初らしい。どうもながながとお付き合いいただき、ありがとうございます。
そのあと何度かメールを頂戴し、「大衆食者の食卓」に掲載してあるが、#28 03年1月19日で藤沢周平さんの小説からの話があり、おれは「おれも藤沢周平のファン」ですと書いている。
おれのばあい「ファン」といっても「熱狂的」というのとはかなりちがう。何作か好きな作品があるというていど。最初に藤沢周平さんを記憶したのは、『白き瓶』でサブタイトルが「小説 長塚節」だ。その文春文庫版1988年12月第一刷を、発売直後ぐらいに本屋の店頭で手にして買った。それが初めて。
『白き瓶』には、深く静かに感動した。藤沢周平という作家にもおどろいた。この小説を読んでのおもわぬ収穫は、伊藤左千夫のことだった。かなりの比重をもって書かれているのだが、それが伊藤左千夫は、『野菊の墓』からはとてもイメージできない、「野蛮」といってもよいような荒っぽい人物で、そして山師的詐欺師的ないかがわしさをもっている。ま、簡単にいえば、『野菊の墓』のイメージは清新系だが、書いた本人は猥雑系という面白さ。おれはそういうタイプは好きだから、これでニンゲンとしての伊藤左千夫を一気に好きになってしまった。といっても、その後その作品にふれたことはないのだが。
それはともかく、解説を清水房雄さんが書いている。これがまた、うまくこの小説の特徴をまとめている。
最後のほうに、こうある。引用……
さて、小説は何よりも面白さが第一に大切だと言われる。面白さにもいろいろあるが、この『白き瓶』の小説としての面白さは何であるか、と問われれば、私はただちに答えよう、それは骨の折れる面白さである、と。
こういう世の中だからこそ、そのような面白さがあってもよかろうではないか。そして、現に、この作品の雑誌連載中の好評のことや、単行本になってからの売れ行きのよさ、などのことを思えば、世には私と同じように、骨の折れる面白さを待望する人々が数多くいることを知り、いささか心安んずるわけである。
……引用おわり。
「骨の折れる面白さ」の「骨の折れる」には傍点がある。これはとてもこの小説にピッタリな表現だし、また世間には「骨の折れる面白さ」がたくさんあるのだと気づき、このことばをキッチリ記憶した。
そして、そのときはおもわなかったが、ここ10年ばかりのあいだに、ということは、とくにB級グルメなどが猛威をふるうようになって、そのあまりなバカバカしさをみるにつけ、自分で料理をつくって食べることは「骨の折れる面白さ」なのだとおもった。そして、たしかに「骨の折れる面白さを待望する人々」はいるのだけど、世評をにぎわすのは、「骨の折れる面白さ」は敬遠し安直な面白さを飲食店に求め、ハヤリの情報に右往左往する切ない人たちなのだ。
ハジメ男さんは「自炊派」だそうだ。
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