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2007/04/05

1980年―81年の生活料理の幻

酔って悪戯半分で載せた写真だが、仕方ないから、ついでにそのころを思い出し備忘録として整理してみよう。

2007/04/03「「いいのか、それで」その男のそれからとこれから」の写真のことだ。運がよいのか悪いのか、たまたま見つかった。これは、おれが持っている自分の写真のなかで、いちばん若い、つまり古いもので、これ以前の写真は、卒業アルバムといった印刷のものも含め一枚もない。貴重といえば貴重、屑といえば屑。

撮影場所は群馬県前橋市内の旅館の玄関広間。名前は忘れた。川原沿いの雑木林のなかの、木立のあいだに川の流れが見える旅館だった。近くに荻原朔太郎の資料館のようなものがあった。

撮影したのは、江原恵さん。なので、1980年の12月に間違いない。ということは、1943年生まれのおれは37歳。

10月、千代田区の市ヶ谷駅から数分の五番町交差点近くのビル1階に、江原生活料理研究所を開設したおれと江原さんは、続いて11月には渋谷区の東急デパート本店前のビルに実験店舗を開店する話をすすめていた。おれも江原さんも、すぐ店をつくることは考えていなかったが、出資したいというオーナーがあらわれたので、ついでに、というほど簡単ではなかったが、そういうチャンスはめったにない、大変でもやってみるか、ということになったのだった。

店は[しる一]という店名で開業する。その店長兼料理長に決まったのが、前橋のテル女さんだった。11月29日土曜日に渋谷の設計事務所で店舗設計の打ち合わせをし、おなじ事務所で12月4日木曜日、テル女さんと初めて会った。そのとき、なぜだか、前橋って行ったことないから、遊びに行って見ようということになった。それがこの写真になった。前夜遅くまで前橋市内を飲み歩き、二日酔いの朝だ。

前橋へ行ったのは12月であることは確かだが何日のことか、わからない。当時、江原さんは、写真に凝っていて、いつもカメラを持ち歩き撮影しては自分で現像焼付けをしていた。その写真をもらったおれが、もし当時の自宅へ持って帰っていたら、この写真は残らなかった。持ち歩いていたノートの一冊に挟まって生きのびた。ノートも、ほとんど無くなり、たまたま1980年9月から81年2月のあいだのものだけ残っていた。

江原さんは、中京女子大の講師をやっていて刈谷市に住んでいたが、この前橋行きのあと12月28日に東京は杉並区の地下鉄新高円寺駅か東高円寺駅の近くに引っ越した。授業のある日だけ、名古屋へ通うことにしたのだ。

渋谷の[しる一]は81年3月に開店した。

おれは当時すでに、なるべく足跡を残さない生き方を選択していた。食欲と性欲と睡眠欲以外の欲望や欲求、たとえば物欲所有欲、金銭欲、権勢欲、名誉欲、立身出世欲、自己顕示欲はたまた近年ハヤリの自己実現欲…などは、きれいに捨てようとしていた。「捨てようとしていた」というのは、あったからであって、そのカネと権力につながる道は、政権中枢と太いパイプを持った魅力あるもので、いまどきのビジネス志向の編集長やプロデューサーなどの小権力者がヨダレをたらすほどのものだったが、そういうものとオサラバするロマンを構想していた。それは、食欲と性欲と睡眠欲に支えられた素朴な生命力が大切なのだという、シンプルな生き方であり、これはいまの「気どるな力強くめしをくえ!」に通じるだろう。

渋谷の[しる一]は、プランニングの段階から、その懸念はあったが、できあがって動き出すと、そういうおれのイメージからは、かなり外れた感じだった。

それはたとえば、江原恵さんが1982年の『生活のなかの料理学  江原式新日本料理のすすめ』で、こう書いていることへの違和感でもあった。

愛知県刈谷市の街のはずれに
一膳飯屋”しる一”を出したのは四年前である。
そして一九八一年三月、東京の渋谷に
大衆割烹の店、食亭”しる一”を開いた。

おれは、刈谷の一膳飯屋”しる一”の「渋谷版」を構想していたのだが、どんどん違うものになっていった。とりわけおれは、「新しい権威」を感じさせる「江原式」については、まったく関心がなかった。それが、当時の「生活料理」の限界だったといえるだろう。

と、今日は、ここまでにしておこう。

この写真以前、おれは1975年に、三番目の男子を2歳で亡くした。その2年後、母が59歳で死んだ。2歳も60歳も80歳も、みなおなじ人生だ、長さで人生を量ることはできない。と悟った。このあと、おれが50歳になるのは1993年ということになるが、その間の写真は5枚ぐらいあるだけだ。

よく、本は残る、という。自分が死んでも本は残る。本を出すことは後世に名を残す名誉になると思っているひとがいるようだ。そして本を出したぐらいで、たいへんな偉業をなしたかのように思っているひとがいる。そういうひとは、夜空の星を見るとよい。もっとも都会では、全天を埋めるように見える星を見ることは、むつかしいだろうが。誰にも見られずに、あるいは、なんという名か知られずに終る星は、フツウなのだ。自分の本が読まれたり見られたりする確率を、その無数の星で計算してみよう。本を出したぐらいで、それが少々売れたぐらいで、その星より存在感があると思えたら、そりゃ妄想というものだろう。死んだあとに残す生きた証より、イマの食欲と性欲と睡眠欲だ。刹那ですね。死んだあとに残す足跡を考えることは、欲望や欲求の無用な肥大につながる。後世に名を残したいなんていう動機は、ろくなものを生んでこなかった。

ということを、この写真のころの頭は考えていた。だから、この写真は、運がよくか悪くか残った、貴重な屑の一枚なのだ。

着ているダウンパーカーのことについては、2007/02/27「ひさしぶりのアナログカメラ」に書いた。いつでも山へ行けるかっこうをしていた。この[しる一]開店目前の忙しい最中の1981年の2月に、2回も谷川連峰へ登っている。ああ、あのころはタフだったなあ。

関連…2005/11/19「日本料理の未来史に向って新しい試み」…クリック地獄

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