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2007/04/27

消費主義と、どうつきあうか

酒を飲んで酔うとよいことがある。ふだんは脳の奥に忘れていたことが、にわかに表層に浮上し、ロレツのまわらない頭と口で、なにかをいう。さきほど書いた「健康と幸福と神」の関係がそれだ。これは、たぶん、この2、3ねん、おれが気になっていることなのだ。それは直接的には、いくつかのことが関係するが、それを書くと長くなるから後日ということにして。二日酔いの頭に浮上したこと、これは何かに書いてあった大事なことに関係すると思って気になりだし、気になると仕事は手につかないし酒も飲めなくなるし、だから探した。二日酔いのときは勘がはたらいて、見つかるのがはやい。

大事なところを、これは引用というより、自分のためのメモとして、ここに残しておく。このブログでは何度か『欲望と消費  トレンドはいかに形づくられるか』(スチュアート&エリザベス・イーウェン著、小沢瑞穂訳、晶文社)の本文から引用しているが、これは平野秀秋さんが解説で書いていることだ。タイトルは「「消費」の世界史的な意味」

この本は、イマを知るために、とてもよい一冊だと思うが、そのわけは、ここに集約されているようにもおもう。ようするに大事なことは、現代の消費主義と、どうつきあうかなのだ。そこを考えないと、ブログなどは、消費を煽りあうだけの文化装置になりかねない。消費主義と縁遠かった「昭和」「下町」や「立ち飲み屋」や「古本屋」などまでも消費ブームの舞台にしてしまった動きは、どこへ向かおうというのだろうか。

以下、メモ……

 周知のように、世俗内「禁欲」とは、唯一絶対の神の恩寵によって義とせられることをひたすら生の目標とするキリスト教徒が、宗教改革によって教会からも伝統的規範からも解放され独立した個人となった結果、神の恩寵を自分自身に確信させるよすがとして、激しい勤労と節約とを心の拠り所としたことから生じた。すなわち、絶対の神の眼差しをたえず感じずには生きられない人間が生み出したものである。「勤勉」と「工業」を同時に意味する「インダストリー」を生活倫理とした新教徒が私的資本蓄積の推進力となり、近代資本主義社会の形成に最適の社会階層となりえたのは、あくまでも結果論である。根源は、神の眼差しへの飢え、神の恩寵のさだかならざる事への不安にあった。
 私達の消費主義も、それと同様になにものかへの飢えと不安とを根源として成立している。もとより神へのではない。人間にとっては神よりもある意味でもっと対処しにくいもの、すなわち幸福への飢え、幸福の実体のさだかならざることへの不安である。それは神と寸分たがわぬほど観念的で捉えがたいものであると同時に、人間に強迫すること、神よりもさらに深刻なものがある。なぜなら、神は絶対であって人間が到達しがたいことをはじめから覚悟させてしまうのにたいして、幸福はつねに相対の論理の上にしか成り立ちえないからである。
 私達は幸福観を、他人にくらべてより幸福か、きのうにくらべてより幸福か、という比較級によって表現し判断する以外のみちを知らない。これは、神の恩寵に接した至福とも仏の境地にふれた不動心とも、載然と質を異にするものである。相対の上に成り立つ幸福は、私達だれにでも手が容易にとどくところにある。それを世俗化の勝利と呼ぶことは的外れではない。しかしまた相対の幸福はより大きな比較級を求めて慢性の飢餓のように休むことを知らなくなる。私達にはセルフヘルプの救いも助けにならない。
 欲望は、だから今日においても単に物質的なのではなく、すぐれて精神の問題としてあるのだ。そうであるからには、欲望はただちに消費に向かったわけではない。ある独特の文化装置が存在し、精神の飢えを物質の飢えに置きかえ、欲望と消費との無限循環のなかに時代を溶かし込んでゆく推進機となっている。その文化装置の秘密は、ひとことでいえば現代人の自我のもろい殻が、それなしでいられない世間、すなわち他人の平均像を提供することにある。私達は毎日自己をそれと引き比べることによって、自分が幸福だと感じたり、不足や努力目標を探したりしながら一生を終えることになっている。消費によって成り立つ現代の幸福は、為替相場のように毎日計ることができ、水の上の木の葉のように日々ささやかな浮き沈みをくりかえす。私達の消費主義が台頭するさいに、どんな事実の積み重ねでこのような文化装置が形成されたのか。またそれはなにによって回転しているのか。この問題を考えるには、直接この本にあたることこそ捷径である。マスマーケット、マスマーチャンダイジング、メディアパノラマの淵源と展開が遠くを見通す感性と粘り強い論理をもって歴史的展望のなかで呈示されている。私達は、意識の歴史は意識の中にではなく、制度と行為との遭遇する一見ありふれた事実の積み重ねの背景になにがあるのかを見通すことからはじめなければならないことを知ることができる。

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